ビジネススクールで統計学を講じていると、様々なケースに応じた利益の確立分布を示して、期待収益率及びリスク指標である標準偏差を説明する段階が必ずやってくる。説明を一通り終えて、さて色々な期待収益率とリスクの組み合わせをもつ幾つかの投資プロジェクト案をパワーポイントで投影して、「あなたはどの投資プロジェクトを選びますか?」と質問する。
いうまでもなくハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターンという投資特性を学ぶことが目的であって、危険回避度の高い人はローリスク・ローリターンを選ぶ傾向があるし、リスク・チャレンジャーならハイリスク・ハイリターンをとる傾向が強い。期待収益率が同じであってリスクがより高いプロジェクトは普通は選ばないものだが、中にはリスクを楽しみたいという「天性のギャンブラー」もいる。そんな人は危険愛好者(Risk Lover)という。まあ、大体、標準的な教科書にはこんなことがかかれているわけだ。
そんな狙いで「あなたならどの投資プロジェクトを選びますか?」と、質問するのですな。そうしたところ、小生はいつも驚くのだが、期待収益率にかかわらずリスクが小さい方をとる。そんな人が多い — 半々というのではなく、大半の人がリスクはないほうがいい、と答える。<リスクゼロ願望症>か!吃驚することの多い、今日この頃なのですな。
これはおかしいのである。ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンとどちらが望ましいか、理詰めの議論では結論できないはずだ。リスクが高い分、それを保障するだけのリスクプレミアムが付与され、期待収益率が高くなるという計算なのだから。いくらプレミアムをつけても、リスクが高ければもう駄目。それはとらない。ほぼ全員がリスク最小化を良いことと考えているので、私はいつも吃驚する。なるほど、これが日本の社会的傾向であれば、日本企業の資本収益率が国際的に際立って低いというのは当たり前だわ、と。安全志向なのだから仕方ないよな。そう考える訳であります。リスクに挑戦せずして、儲かるはずがありません。
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下の報道を読んで思い出したのは、上に述べたようなリスク・マネジメントを説明する時の授業風景であった。
岡田克也副総理が自民党の谷垣禎一総裁に近い幹部に民主、自民両党の大連立を打診していたことを受け、18日、両党幹部から大連立に否定的な発言が相次いだ。
自民党の石原伸晃幹事長は仙台市内で講演し、「それが事実なら(消費増税関連法案をめぐる)民主党内の説得を諦めて野党に話をしたということ。今ごろ何をやっているんだ、というのが率直な気持ちだ」と不快感を表明。その上で「党内をまとめられないのに、野党に協力してもらいたいと言われても、私たちはいつ沈むか分からない船に一緒に乗って航海を助ける余裕はない」と断じた。
同党の町村信孝元官房長官もフジテレビの番組で「まさに(民主、自民両党が)国会で相対峙(たいじ)して議論しようというときに、実は一緒にやるなんて話が通るわけがない」と述べた。
一方、民主党の輿石東幹事長は沖縄県南風原町内で記者団に「野田佳彦首相とも、党内でも議論していない」と述べ、党の方針ではないと強調。「コメントは差し控えたい」として深入りを避けた。民主党で進めている消費増税関連法案の事前審査への影響については「そういうものに惑わされず、冷静に議論していただく」と語った。
[時事通信社]
(出所:The Wall Street Journal日本語版、2012年 3月 18日 22:06 JST )自民党も増税を考えている。もっと良い増税案を提案することもなく「沈む船には同乗しない」というのでは、仮に解散、総選挙 — いくら何でも野田政権の後を別の人がまた党内調整だけで継ぐというのでは政権自体がもちますまい — となっても、その後の民主党の協力を望むどころか、消費税率引き上げを提案すること自体が政治的には不可能になるのではないかなあ、と。
日本経済のマクロ的安定性と国民生活の両方を人質に取った政略を敢然と実行できている点で、自民党は今やなぜ自分たちが国会議員という職についているかに目を向けない、そういう意味では純粋の野党になりえたことを痛切に実感するのである。さびしいねえ・・・。純粋の野党たる心構えを身につけたからには、この努力をムダとせず、これから何年も野党として活動していくべきである。そう思ってしまうのですね。他方、民主党も与党というより所属する議員の行動形式は、やはり野党的である。つまり自民党も野党、民主党も野党、みんなの党も野党、共産党も野党、いま日本国は<大空位時代>というか、<全党総野党>の時代となった。
これは日本国の運営に身を捧げようと言う政党がなくなってしまった状態であるから、日本国は大変危険である。その国家的リスクの高まりと、個々の政党、個々の議員のレベルにおける<沈む船には乗りたくない>という極端なリスク回避、安全志向の高まりが同時に観察される。まこと甚だ皮肉な現象である。まあいわば国家的な自律神経失調症とでも言うべきであろうか?
思うに国家のトップ、つまり<国家元首>の存在意義は、政治勢力がにらみ合いとなり、政治的付加価値の生産能力を失ったこんな時であろう。ゲーム論的にいえば複数均衡下で均衡選択を行う触媒となるフォーカル・ポイントを失った状態だ。国会でも可否同数の際の決定ルールがある。これも同様の知恵である。しかしながら、日本においては将軍がいた明治以前ならともかく、戦前期においても<天皇無答責>であり、戦後においては単なる<象徴>である。日本国は国民自らそうであってほしいと思っているのか、考えているのか知らないが、<CEOなき株式会社>と同類の組織となっている。
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