2012年5月29日火曜日

親族が親族をまず扶養することにするのか?

芸人の次長・課長河本準一が推定年収3千万円以上でありながら、実の母親が生活保護費を受給していた事件に関連して小宮山厚労相が次のような方針を語った由。
小宮山洋子厚生労働相は25日の衆院社会保障と税の一体改革特別委員会で、生活保護費の支給水準引き下げを検討する考えを示した。また、生活保護受給者の親族らが受給者を扶養できる場合、親族らに保護費の返還を求める考えも示した。(出所:毎日新聞 2012年05月25日 21時17分)
更に同じ記事には次のような解説も紹介されている。
生活保護をめぐっては、人気お笑いコンビ、「次長課長」の河本準一さんが同日の記者会見で、自分の母親の受給について「適切でなかった」と謝罪した。生活保護受給者は209万人(今年2月時点)と過去最多を更新し続けているが、親族の扶養義務が徹底されていない点も一因とされており、永岡桂子氏(自民)が小宮山氏の見解をただした。
要するに自分が高い収入を得ていながら、母親に生活保護を受けさせ、国税で養われる状態を放置しているのは「適切ではない」という考え方である。もし親族が貧困に陥り、その親族が生活保護費を受給し、自分がその親族を扶養しない場合は受給した保護費を返還するよう国から文書が届くかもしれないというご提案です、な。

× × ×

いやはや、トンでもない社会になってきたものだと感じ入るばかりだ。この話は奥方たちが視聴しているワイドショーでもお気に入りの話題になっているようだ。その一つで若い青年の意見が紹介されていた。確かフジ系の<特ダネ!>だったかと思うが、『一口に親族が扶養するといっても、そこにはDVやその他の色々な状態が考えられます。親族だから扶養すると決めつけるより、多くの側面を考慮するべきではないでしょうか?』と、全くそのとおりだ。20代〜30代の人たちには、本当に真面目に、<正解探し>ではなく<自分の頭>で問題を考えている人が多いように、このところ思い知ることが多いのだ、な。これは、ひょっとして、「ゆとり教育」の隠れた効果かもしれないなあ。

小生は、ズバリ、親族が親族を扶養する。それを最優先で考える。この考え方には心から大賛成である。なぜなら、親族が団結し、経済的な問題はまず家族で、それから親族間で、相互協力すれば、まず最初に雇用保険は不必要になろう。なくしてもよい。国家直営の公的年金制度も要らない。なくしてもよい。医療保険も、国は自賠責ならず最低保障医療保険を制度化しておけばよいであろう。あとは自分たちでやるほうが余程賢い金の使い方ができるというものだ。故に、現行の保険制度はなくしてもよい。そうすれば現在の財政赤字もあっという間に解決されてしまうだろう。これのどこが悪いのか?政府は、親族中心・親族優先の社会を再構築してほしいものだ。そして負担の少ない、自由の多い社会を作ってほしいものだ。そのとき、各自に責任が生じ、責任を感じるとき、人は自然に成長するものだと思う。生まれてきた以上は、そんな人生をおくりたいものだなあ。

要りもしないのに、社会保障は必要だからと戦前期の政府が言い募って、その実は<財源拡大>が主目的であった。これほどの長寿社会になると分かっていれば、昭和48年の「福祉元年」も絶対になかったであろう。だから、報道されたように「親族が親族の面倒をみてほしい」と国自らが言い出したのは「国も肝心なところが分かってきたではないか」と、この点だけは心から大賛成なのである。

ただ、一方で親族の扶養責任を問いながら、同じ政府が社会保障の維持運営に必要ですからと<消費税率の大幅引き上げ>を提案しているのは、これ以上に無遠慮・無作法・無責任なやり方はないかもしれない。まあ、<三無主義>政党政権であれば、不思議ではないが。

2012年5月27日日曜日

日曜日の話し(5/27)

本日は、戦前期日本であれば「海軍記念日」であり、戸口には国旗が掲げられ、大通りは華やかな喧噪の中、多くの人が練り歩いていることだろう。しかし、現代に暮らす日本人が、近々70年ほど前まで日常に根付いていた習慣を思い起こすことはなくなった。それは、その頃の社会システムがモラル的にも政治体制的にも否定されてしまったからである。このことを残念に感じている日本人はいまでも少なからずいるだろう。

その国の歴史的変革を引き起こすほどの大きな原因となると、いくつもあるものではない。一つは人口構造だ。もう一つは生産技術上のイノベーションである。人口変動は、中でも抗うことのできない決定的な力をもつ。古代ローマ帝国の運命もそうであるし、近くは中国・清王朝の衰退も乾隆帝の時代に見られた急速な人口増加が引き起こした現象である。西ヨーロッパが14世紀に見舞われたペスト禍は、労働と資本の価格構造を激変させて、欧州封建体制をくつがえした。戦争もまた国民の人口構造を激しく揺るがす主因であることは言うまでもないことだ。

人口と技術進歩は経済学の範疇であり、いわば社会の下部構造である。小生も、基本的には下部構造が上部構造を決めていく、そういう社会観に立って物事を考えている。この辺は(というより、この辺だけは)マルクスと同じ目線だ。しかし、歴史的変革をもたらす三つ目の主因(と小生が個人的に考えている)ものは、人間の精神や魂やモラルと関係するので上部構造に属する。つまり<宗教>の変革である。

中国歴代の王朝交代には、ほとんど常に新興の宗教教団の活動を見ることができる。東ローマ帝国は6世紀に第一期黄金時代を迎え、帝国全体の領土を概ね復元できたのであるが、狭量な宗教政策をとったために、シリアからエジプトに至る地域住民の離反を招き、それが7世紀のイスラム帝国(=サラセン帝国)誕生の遠因になってしまった。ヨーロッパの中世と近世を分ける区分に宗教改革があったことは言うをまたない。

本来、宗教は人間が心の中で考える世界であり、それが世間の実態を変えるはずはないのだが、住民の意識を変え、生産活動の在り方を変え、政治を変える中で、純粋な信仰が歴史を変えてしまうことは現実にあったことと認めざるを得ない。これを逆に考えて、まずその時代の生産システムを運営するのに最も便利なようなモラル、社会意識、それを支える哲学と宗教が生まれるのだと考えてもよいのだが、これはやはり余りに単眼的で割り切りすぎだと感じる。

× × ×

日本の歴史を振り返っても、6世紀の仏教伝来後の国内対立と7世紀初めの神仏習合政策が一つの時代を作った。その後、奈良を舞台にして仏教が拡大したが、その過程は日本の古代社会の発展と並行している。天皇家から摂関家に権力が移り、政治システムが変容する平安時代の初期、都が奈良から京へ移っただけではなく、天台宗・真言宗という平安仏教が新たに興っている。貴族政治から武家政治に変わる前後には、禅宗や浄土宗、日蓮宗などの鎌倉仏教が生まれた。このように振り返ると、時代の変革期には、宗教上の改革が並行して見られるのだ。もちろん、この宗教上の変革を、時代の進展の結果と見るか、原因と見るかは意見が分かれよう。

日本の中世と近世・江戸時代を区分する要点の一つは<政治>と<宗教>との権力関係である。<中世>という時代の特徴は、まず第一に宗教が政治を動かしていた、それほどの権威と力をもっていたことである。これは、ヨーロッパの歴史と日本史で共通している点でもある。というより、儒教や道教まで宗教とみなせば、東アジアも同じである。徳川幕府による仏教対策は確かに日本の中世と近世をわけるものである。では、明治維新をどう考えるか?天皇による王政復古は、神仏習合から神仏分離・廃仏毀釈への原点回帰運動でもあった。つまり明治政府の宗教政策は、国家神道=神道国教化路線でもあったのだ、な。これは日本史上初めての宗教政策である。つまり、宗教政策という次元で見ても、明治維新は大きな歴史的変革であったわけだ。

その明治期・宗教政策が、現実の政治にどのような影響を与えたのか?その考察は、日本史・近現代にかかわる無数の研究として公表されてきたのだが、やはり太平洋戦争敗戦に至るまでの色々な意思決定に明治期・宗教政策が暗黙の、あるいはエクスプリシットな影響力を行使してきたことは否定できないと思う。それは何も<神国日本>とか<皇国史観>などを敢えて持ち出さずとも明らかではないか、と。

だとすれば戦後日本の宗教政策はどうなのか?どう変わったのか?確かに政府はいかなる宗教をも支持しないことになったが、天皇が日本国の統合の象徴であり、伊勢神宮の祭主を天皇家が務め、その他宗教とは相いれない形になっていることを考慮すれば、どうしても現行の宗教政策は、その本質において明治期・宗教政策がそのまま継続されていると、・・・小生にはそう思われてしまうのだ、な。


法隆寺・金堂壁画・二号壁全図


上の写真にみる法隆寺壁画は、昭和24年の不審火による火災で金堂が炎上し、壁画は焼け焦げ、永遠に元の姿は戻らなくなってしまった。和辻哲郎は名著『古寺巡礼』の中で、壁画の作者が求めたものは「美の完全な表現」であり、「画面において浄土の光景を物語ることではなくして、ただ永遠なるいのちを暗示する意味深い形を創作するにある」、そんなことであったのだろうと記している。制作時期は600年代末から700年代初め、奈良の都もまだなかった時代であると推定されている。

もし敗戦直後に、仏教と神道との融和を進める神仏習合政策に再び戻っていれば、その後の日本人の感性はどうなっていたであろう。小生は、日本の外交から日本人の倫理観に至るまで、相当に違った結果になっていたのじゃないかと思われるのですね。神仏習合は、聖徳太子が永年の学究の果てにようやく辿りついた本地垂迹思想に基づくものであり、世界でも例をみない<戦略的宗教政策>であった。その大方針が、江戸末期まで営々と貫かれたのだが、ついに明治政府に至って日本古来の宗教である神道が国際的宗教である仏教を抑える形で国家的支援を得た。その意味では、現在の日本の宗教政策は、江戸・室町・鎌倉・平安時代を飛び越えて、1400年も昔の水準に逆戻りしているとすら、(小生には)感じられるのである。

2012年5月26日土曜日

ギリシア離脱からユーロ全面崩壊への予測も

独仏首脳を含むEUの公式声明にもかかわらず、ギリシアのユーロ圏離脱は、既にかなり高い確率で予想されている。

ドイツ紙Frankfurter Allgemeine Zeitungにドイツ銀行幹部の発言が紹介されている。
Der designierte Co-Vorstandsvorsitzende der Deutschen Bank, Jürgen Fitschen, betrachtet Griechenland als „gescheiterten Staat“ (failed state). Auf einer Konferenz in Berlin sagte der Manager, dass es keine Patentlösung für die europäische Schuldenkrise gebe, auch weil die Situation in Griechenland einzigartig sei – und das Land eben ein „gescheiterter Staat“ sei. (Source: 25.05.2012 )
ドイツ金融界でもギリシア放棄が覚悟されつつあるようだ。

ところが同じ記事にはモルガン・スタンレーの更なる予測が紹介されている。
Dass solche Diskussion aber längst nicht mehr zu stoppen sind, zeigte am Freitag auch eine in London vorgelegte Studie der amerikanischen Investmentbank Morgan Stanley. Diese hält sogar den Zusammenbruch der Eurozone für möglich. Dabei handele es sich allerdings nicht um das Basisszenario der Bank. In der Studie schätzt der Analyst Daniele Antonucci die Wahrscheinlichkeit eines kompletten Zusammenbruchs der Währungsunion auf 35 Prozent. Zuvor hatte er sie noch mit 25 Prozent angegeben. Zudem reduzierte Antonucci den erwarteten Zeithorizont, nämlich von zuvor fünf Jahren auf lediglich zwölf bis 18 Monate. Als das wahrscheinlichste Szenario skizziert er zunächst einen Austritt Griechenlands, gefolgt von einer Phase, in der sich andere Länder verstärkt anstecken könnten.
 確率的には35%の蓋然性で通貨ユーロの全面的崩壊が予測されると専門家は結論付けている。それも、以前の25%よりも上方修正されており、時間的にも5年以内から1年乃至1年半以内に短縮されている。

欧米は、既にギリシアは諦め、それよりユーロの全面的崩壊の心配へと変わりつつあるようだ。この流れを食い止めることができるのは、ドイツの欧州総合経済計画へのコミットだけだろう。

2012年5月25日金曜日

民主党内・増税ゲームの行方は?

提出されている消費税増税法案に対して小沢グループは反対を唱えている。これではまずいので総理・党執行部が話し合いの場を模索している。近日うちに総理と小沢一郎元代表が会談することにもなった。

× × ×

消費税率引き上げについては、本来、税率という軸、その他の税という軸、歳出構造見直しという軸、時間軸という四つの軸に沿って検討しなければならない。しかし、マスメディアの報道振りをみると「要するに増税に賛成か、反対か?」だけの単細胞的政界事情に堕しているので、誰がどんなことを構想しているのか、全く伝わってこない。「ここで△△選手がヒットを打ちました」、そんな風でありプロ野球結果の放送と同じなのである。

消費税率引き上げは永遠に絶対的にダメというなら、では今の財政をどうするというアイデアを提出しないと政治家とは言えまい。税収は予算の半分にも達していないので歳出を半分にカットすることを主張しないといけない。なぜそれを主張しないのか?堂々と主張するべきである。主張するべきことを主張するなら、そこで初めて<ドイツ流の財政緊縮路線>と<社会民主主義的財政政策>との路線対決が実現し、この日本でも歴史的政治劇が繰り広げられることになる。国会議員として月額2百万円に迫る報酬を得ている以上は、反対派と勝負するのが<志>ではないかと小生などは思うのだが、これはひょっとすると小生個人の勝手な思い込みかもしれない。

考えてもみなされ。国会議員を続けてはじめて報酬をもらえる職場である。タカ対タカのゲームを展開して、明らかな敗北を喫するかもしれないリスクは嫌であろう。そんなリスクを双方ともに負担するより、妥協をして折り合えるように協調するほうが敵味方双方にとって得である。但し、妥協をするにしても、どちらがタカであり、ハトであるかを決めないと妥協は成り立たない。もちろん最初から融和的にハトになることを申し出てもよいが、申し出れば相手は高姿勢に転じてタカとなる。それ故、解はタカ対ハト、ハト対タカ。いずれかでなくてはならない。

このような古典的なタカ−ハトゲームが、民主党内政争ドラマにも当てはまっているように思われる。陳腐なのだな、実に。だとすれば、<限定戦争>が効果的である。<示威行動>である。自分たちの勢力と決意を示して相手に譲歩を迫る戦術である。「お前が譲れ!」と。「おれがタカになる!」と。もちろんこれは小沢一郎の師匠である田中角栄が巧みであった戦術でもあったろうが、相手が引かず全面戦争になれば、自分も破滅するというリスクがあるわけであり、その意味ではいま世界で流行している<瀬戸際戦術>である。

× × ×

小生のみるところでは、全面戦争になれば、どうも野田政権側が最終的には勝利し、小沢反主流派側が屈服することになるのではないかとみる。やはり霞ヶ関官僚集団が(曲がりなりにも結束して)政権側を支持しているのは、たとえ検察が動けないという点を認めるとしても、江戸時代の「大奥」を抱き込んでいるのと同じであり、最終的勝因になると思う。

反対派の小沢グループには、消費税率引き上げに代わりうる妙案が(多分)ない点が最大のウィークポイントである。激烈な歳出カットは、たとえ公務員給与を5割引き下げるとしても到底不十分である以上、歳出全般の削減になり、それは増税と同じ程の痛みを国民に与えるであろう。これでは<痛み>という点で、いまの増税案とあまり違わない。国民全体の痛みは同じ、歳出カットという点では官僚が猛反対となれば、説得力をもつはずがない。だから「消費税率引き上げ絶対反対」は、小沢一郎議員にとって、割にあう勝負ではないのである。

もちろん長期的に言えば、歳出カット、民営化の加速、規制撤廃をするのが、いま恵まれている経営側はともかく、大多数の日本人には(結果として)最大の恩恵を及ぼすはずである。カネのない日本政府が歩むべき自然な道である。それは滅亡への道だというのは、日本のエスタブリッシュメントによる宣伝である。宣伝にすぎないのだが、しかし、日本列島は孤島であり、宣伝が宣伝だとは知られておらず、開放すると本当に滅びるのだと見られている。戦後の歴史を見ると正反対であったのに、そんな事実を語る経営者・労働組合上層部は今はいない。

小沢一郎議員が信念を通すなら、消費税増税に反対して、「それからどうする?」。ここを語らないといけない。ここを語らずして勝機はない。「今は反対するのが賢いよな」と、この程度の覚悟なら、つまりは好機に乗ずるだけのオポチュニストであるわけで、ただの条件闘争である。チルドレン達の首を守りたい。チルドレン達にかつがれて、見捨てることができない。「我が敵は増税でなく議席配分にあり」。何となくそんな風に見えますなあ。だからバーターではないかという訳。これでは歴史にも残らない、つまらない政治家であったと後世の人に言われておしまいになろう。

(以下、あとで追加)
それにしても<3.11大震災>や<福島第一>、<全原発停止>、<エネルギー制約>など根本的環境変化がありながら民主党のマニフェスト回帰が唱えられたりするのは、一体全体、どういう思考回路なのだろうなあ?これもまあ<示威行動>の一つであるとは分かっているが、世に通ると考える国政議員のその感性がなあ・・・と、いまこんなことも思ったということをメモしておこう。確かに<改訂マニフェスト>を出すべきところであるし。

2012年5月23日水曜日

いまや死語と化したスピリット ― 反骨精神

北海道地方限定のTV番組でS市の北25条付近に位置する洋菓子店「モンレーブ」が紹介された。その店は、懐かしいバタークリーム・デコレーションケーキを今もなお作り続けているので、今朝紹介されたわけである。パティシェの店主はもう70歳を越す大ベテランで、S市の西にある港町O市が華やかに栄えていた頃、支店を構えていたコロンバンで修業したとのことだ。

とにかく仕事は厳しくて、つらかったですけどネ。それに中々上手にならない。でもね、<反骨精神>って言うんでしょうか、今に見ていろと。そんな気持ちで先輩の技を盗んでいきました・・・
独立して店を出して、生クリーム全盛のいま、それでもなお昭和世代にとっては懐かしいバタークリームを作り続けているのは<KY>の典型でありますねえ。風を読まない。頑固である。我を張る。人の助言をきかない。すべてこれらは、現代日本的価値尺度でマイナス点がつくだろう。しかし、そんな人が、敗戦後に国家再興を進めていた頃の日本では最も求められた人材であったし、おそらく今の日本、これからの日本でも一番必要な人物像であろう。この点だけは、小生、間違いない。そう確信しているのだ。

しかし、いま一番必要な人材を教育で作り出そうとすれば、中央統制をやめない教育官僚と権力の味を知る政治家に批判の刃が向けられるのはほぼ確実だ。だから、重要性はわかってはいるが、そんな政策はとらない。ま、実際には当てはまらないとは思うが、万が一、これが事実だとすれば日本の未来を奪っているのは、日本の政府である。そう言えますな。

火力発電にシフトする中でコスト上昇に苦しむ電力業界によい情報が出てきた。安価な低品質炭を液化する技術を商用化できそうだというものだ。
日揮は火力発電用の新しい低価格燃料を開発し、2015年から生産を始める。これまで使えなかった低品質石炭を加工して液化した燃料で、約300億円を投じてインドネシアに生産設備を建設。日本やアジアで販売し、3~5割安い価格で石油火力向けの重油の代替を目指す。世界の石炭埋蔵量の約半分を占める低品質炭の活用が進めば火力発電コストの低下につながりそうだ。(出所: 日本経済新聞2012年5月23日)
会計上の発電コストは、原発には及ばないが石油火力や太陽光よりは遥かに効率的である。



もちろん、このコストは会計上のコストであり、環境へ与える全ての外部不経済を加味した経済的コストではないと思われる。

全原発停止は市場環境の変化である。その変化がこうした企業行動の変化を誘発した。日揮という企業は、何も<日本国>のことを思って新技術を開発するわけではない。もうけるためである。だから感心できない、評価できないと言い出したら、その人は共産主義者である。利益は企業にとっては確かに目標だ。しかし、社会の観点に立てば、利益はツールであり、目標を達成するための手段である。目標は、日本国のエネルギー事情を改善することである。目標を達成できれば、全員が助かる。全員が助かる方法を見出した者には褒賞を与えるほうが早く助かるだろう。それが利益である。政府は、感謝状を発行したり、褒賞を与えたり、その他一切、何もしなくともよいのである。アダム・スミスが「見えざる手」と形容したのはこれである。

市場経済は、それ自体に価値があるわけではない。(政府にとっては、低コストで)社会経済の運営ができるから価値があるのだ。マーケットに委ねておくと、国民の目標を自然に達成できることは多い。だから使う。それだけのことである。目標を達成できなければ、市場には任せない。当たり前のことだ。しかし、代わりの手段がえらくカネを食うようなら、これも困る。

いま日本の政府にはカネがない。であれば、やるべきことは安上がりの社会運営技術を利用することだ。つまりマーケットに委ねる分野を増やすのが理屈にはかなっている。というか、自然だ。やり方を変えないまま、カネが足りないから、増税する。不自然である。とはいえ、<市場>なるもの、<市場的なるもの一切>を日本人が心から嫌っているのなら、それは仕方がない。社会を運営するには、カネがいるのだから、増税を承諾するしか仕方がない。「いるものはいる」。これが今の社会状況であろう。カネがかかって仕方がないなあ・・・・金持ちのはずなのに、どこか貧困感をぬぐえないのは、そのためだと思われる・・・小生の親戚にもいます、そんなタイプが。

いや<反骨精神>から、グダグダとくねるうちに、増税の話になってしまった。能率が悪い原因についてはまたにしよう。

2012年5月22日火曜日

西ヨーロッパとギリシアの遠い関係について

欧州は大きなテーマだが、かといってギリシアばかりを議論していると、流石に飽きるというか、辟易としてくる。ところが最近、小生がGoogle Readerに登録しているお気に入りのフィードでは、どこもギリシアに関する議論で花盛りだ。こういう「議論の洪水」のような状況は、たとえば特定の経済問題が注目を浴びた時にアメリカから発せられるディスカッション・ペーパーもそうである。石油価格高騰についても、財政政策の乗数効果についても、その時々に解くべき問題が提出されると数えきれないほどの研究レポート、計算結果、シミュレーションがネット経由、ブログ、研究所のパブリケーションとなって押し寄せてくる。

この辺のダイナミズムは、日本と海外が決定的に違っている点だと感じるのは、なにも小生だけではないと思う。もし日本国がアメリカ合衆国であったなら、今頃は星の数ほどの財政健全化シミュレーション、消費増税の経済効果、原発停止と再エネ移行のコストとベネフィット等々の研究結果がネットで公開され、やりとりされ、政治家もその要約をレクチャーされているに違いない。ここはアメリカではないというだけの理由で、何たる違いであろう。ただアメリカ人も、ギリシア問題は大統領選ほど関心をそそられないのか、主に欧州から色々な意見が提出されているようだ。とはいえ、正面からギリシアを論じたものは無数にあって、特定のものを挙げにくい。それより最近のProject Syndicateに投稿されたDominique Moisi氏の寄稿が面白い。"The Reason for Europe"である。

氏はヨーロッパを評価する10の観点を挙げている。心覚えまでに列挙しておきたい。
  1. The first reason for hope is that statesmanship is returning to Europe, even if in homeopathic doses. 
  2. A second reason to believe in Europe is that with statesmanship comes progress in governance. 
  3. Third, European public opinion has, at last, fully comprehended the gravity of the crisis. 
  4. The fourth reason for hope is linked to Europe’s creativity. Europe is not condemned to be a museum of its own past. 
  5. The fifth source of optimism is slightly paradoxical. Nationalist excesses have tended to lead Europe to catastrophic wars. But the return of nationalist sentiment within Europe today creates a sense of emulation and competition 
  6. The sixth reason is linked to the very nature of Europe’s political system. Europeans may be confused, inefficient, and slow to take decisions, but democracy still constitutes a wall of stability against economic and other uncertainties.
  7. The seventh reason to believe in Europe is linked to the universalism of its message and languages. 
  8. Beyond universalism comes the eighth factor supporting the EU’s survival: multiculturalism. 
  9. The ninth reason for hope stems from the EU’s new and upcoming members. Poland, a country that belongs to “New Europe,” is repaying the EU with a legitimacy that it had gained from Europe during its post-communist transition. And the entrance of Croatia, followed by Montenegro and a few other Balkan countries, could compensate for the departure of Greece (should it come to that for the Greeks). 
  10. Finally, and most important, Europe and the world have no better alternative. The Greek crisis may be forcing Europe to move towards greater integration, with or without Greece.
ギリシアを放棄しても西ヨーロッパは緊密な統合への道を辿るであろうし、それが望ましい、そういう立場のようである。その根底にあるのは、Universalismつまり普遍主義であるが、小生は国家の上に超国家をおく<帝国主義>を連想する。いかにユニバーサルとは言っても、ヨーロッパが一地域であることには間違いがなく、統合を深めれば深めるほどにヨーロッパはスーパーパワーとして行動するはずであり、多文化主義とは言ってはいても求めようとするのはヨーロッパの利益であろう。

かつて西欧は、ギリシア世界(=ビザンティン帝国)を放棄し、ローマ教皇とフランク帝国との歴史的絆をよりどころとする純化路線を選んだ。EU・EUROに参加して、いまギリシアは再び(まずはEURO圏であろうが)、そこから脱退しようかという瀬戸際にある。こんな風になるなら、そもそもギリシアがトルコを相手に独立戦争を戦った時から、ロシアの南下政策と連携しておけばよかったのである。イギリス、フランスがロシアと対立した時に、ギリシアはビザンティン以来の歴史的背景を重んじてロシアと協調していれば、西欧の大国に翻弄されることもなく ― 無論、共産主義の洗礼はくぐったことであろうが ― いまごろはロシア、セルビア、ブルガリアなどの国家群と外交を深め、強固な文化大国として活動できていたのではないかと、個人的には夢想している。もちろん、それは西ヨーロッパにとっては悪夢の展開であったろうが・・・。

2012年5月21日月曜日

議員など公職就任要件を厳格化してはどうか?

鳩山元首相が以下の発言をしたとの報道がある。
民主党の鳩山元首相は19日、テレビ東京の番組で、消費税率引き上げ関連法案について、「シロアリを退治しないで消費税を上げても、増税分もシロアリに食べられてしまう。(採決は)まだこのタイミングではない」と述べ、徹底した行政改革を行うことがまず必要だとして、衆院本会議での採決を急ぐべきではないとの考えを示した。

一方、自らが今月15日に首相退任後初めて沖縄県を訪問したことに関し、「今、(野田政権が)必ずしも沖縄県の側に立って闘おうとしていないことに対する(県民の)腹立ちや怒りを感じて帰ってきた」と語った。
(2012年5月21日07時08分 読売新聞)
自党と他党との識別がつかなくなったようであり、小生が楽しむ雑談の中では、このような発言行動を<政治的認知症>と形容している。

そういえば本日の日本経済新聞朝刊5面「核心」(芹沢洋一論説委員長)では「ポピュリズムよさらば」というタイトルの文章が掲載されている。その中で「政治家の劣化は目にあまる」と記されている。そりゃそうでしょう、と。この点だけは誰でもが納得するだろう。

古代の共和制ローマでも執政官などの要職は選挙によっていた。ただ立候補の資格としては一定以上の<年齢>を求めるだけではなく、<公務や軍務の一定以上の経験>を求め、誰でも実績なく自由に立候補できるというわけではなかったようである。また要職を経た人材は元老院を構成し強い発言力をもった。公職は私ではなく公に奉仕するわけであり、個人的な信念や願望のみが大事であるわけではない。公職を担うに十分な経験と熟練を有していると推察する根拠を立候補の時に求めることは、至極当然だと思うのだ、な。古代ローマが国家として長寿を保った理由の一つに、政治行政システムの設計が時代の変化に応じた巧みなものであった点を多くの専門家があげている。

我が国において国会は国権の最高機関だ。日本でも、国会議員に立候補する際、官公庁や地方議員などの公職あるいは「その他の社会奉仕活動」を一定年数以上経験していることを要件とするべきではないか。また、国政選挙立候補までに経験した公的活動の分量により、国から支給される選挙活動資金の金額に差を設けるべきではないか。

これが現職を不当に優遇する結果になるとすれば、それは社会に関心をもって公的活動にとりくんでいる人が政界に愛想をつかしている証拠である。もしそうならそれは仕方がない。現職が他界するまで現状を続けるのがまだましである。現職をデマゴーグ、泡沫、ジャンク等から防護し、腰を入れた政治活動を続けさせることも大切である。いずれ遠からず、人がいなくなった時点で入れ替えればよい。その時のことを想定した話しである

2012年5月20日日曜日

日曜日の話し(5/20)

中世1千年という。西洋の古代社会が民族大移動に飲み込まれて崩壊したのが400年代(5世紀)の末。したがって大雑把にとらえて500年から1500年までの1000年間が西洋の中世である。その1000年は、ちょうどトルコからギリシアを含むバルカン半島一帯を支配する東ローマ(ビザンティン)帝国が存在した1000年でもあった。本ブログの美術史探訪で再三とりあげているビザンティン帝国は、宗教と政治が混然一体であった文字通りの中世型帝国であったわけだ。

先週、久しぶりの委員会のあと親しい同僚と食事をした。大学の裏には海の見える小さなレストランがある。古い洋館を改造した店の窓から眼下に広がる街と海を眺めると、いつの間にか若葉の緑が細雨に煙る様ににじんでいる。

「こんな風な景色も横浜のある地点からは観ることができますけどね、そんな店で珈琲を飲むと千円はとられますよ」
「そんなにしますか?」
「しますね。払う人がいる以上、とれますから。高い価格が通ってしまいますよね。だから普通の人には、こんな風景を楽しみながら、コーヒーを飲むなんて出来ませんよ。贅沢ですよねえ」
「△△先生、いまお客さんは我々二人だけじゃないですか。貸切状態ですよ。それで900円もしないランチサービスのあと、お替り自由のコーヒーを飲みながら、談論を楽しんでいる。生活水準って何でしょうね。わたし、いますごくハッピーなんですよ」
「カネじゃないよね。すごく田舎に行ってしまうと、こんな店はなくなってしまうでしょうね。大都市では満席で座れない、ほんとにハッピネスにはちょうど良い状態がいるんでしょうけど、そのバランスをとるのは難しいですよね・・・」

遅い葉桜の時分とはいえ、薪ストーブではまだ炎がチロチロと燃えている。燃やしているのは桜材だろうか?木の薫りが室内に漂っている。

× × ×

Amazonに「カロリング朝美術 ― 人類の美術」(ジャン・ユベール、吉川逸治訳)を注文した。カロリング朝というのは、周知のようにフランク王国であり、クロビスが建国したメロビング朝から数えると500年から1000年まで概ね500年間、形の上では存在した。その黄金時代は有名なシャルルマーニュ(カール大帝)の時代である。大帝がローマ教皇から皇帝位を戴冠され西ローマ皇帝を名乗るようになったのは西暦800年のことだと記録されている。その頃のフランク王国は西欧・中欧全体を支配下におさめるヨーロッパ史上空前の大帝国になっていた。西ローマ帝国の再興と言われることもある。しかし、ローマ帝国がライン川を越えてドイツを版図におさめたことはない。あとにも先にも、ドイツ・フランス・イタリアを含め、欧州全域を統治した国家はフランク王国だけである。

ところが、そのフランク王国カロリング朝で、どのような文物が生み出されていたのかが、よく分からないというか、小生に知識がない。どうしても知りたいと思い、上記の本を注文したわけだ。シャルルマーニュの時代、首都はパリからドイツ・アーヘンに移動し、文芸復興が進められ「カロリング・ルネサンス」と称されている。


カール大帝とローマ教皇
Karl der Große mit den Päpsten Gelasius und Gregor I. 
(Hofschule Karls des Kahlen, um 870).


上で述べたようにフランク王国時代は中世に属する。ビザンティンによらず中世美術は主として宗教芸術として今日まで伝えられている。教会に保存されている作品は、略奪、焼亡に遭うことも比較的少なく、保存状態も良かったのだろう。この辺の事情は、欧州だけではなく中国、朝鮮、日本など東洋にも当てはまる。

日常生活の中で広く使われていたはずの世俗的な装飾や挿絵は洋の東西を問わず消え去った。わずかに残っているのは、模写か写本である。残念なことだ。

× × ×

権力は四百年。文物は千年。人間社会の遺産は、いずれ歴史の古層の中に埋もれて、後世の人が掘り出すようにして再発見するのだろうが、それでも千年という時を超えて後の世の人に伝えることは誠に至難の業と思える。それは奇跡をまつようなものだろう。プラトンの創立した大学アカデメイアがユスティニアヌス皇帝の命令で閉鎖されるまで概ね一千年。アレクサンドロスが紀元前300年代に建設した学術都市エジプト・アレクサンドリアがアラブ人の手に渡ってしまったのは600年代。その間、約一千年。パピルス、羊皮紙も残らない。紙は頑健だが、それでも残らない。かろうじて写本によって再現するしかない。その写本も焼亡の危機がある。

確かにシャルルマーニュは欧州全域を統治したが、学芸・知識の水準は古代の世から大きく退歩していたのである。というか、西暦14年時点において、既に一人当たり所得はイタリア半島を850とすると、エジプトが600、トルコ・ギリシア一帯が550、それに反してフランス中央部、アルプス以北は400程度であり、経済水準は完全な東高西低であった。(参照: Angus Maddison,"Contours of The World Economy I-2030 AD")。統治機構が寸断された後の西ヨーロッパ地域はなおのこと東より貧困であったろう。

今日のヨーロッパが再興され、東に追いつき、追い越すのはベネチア、ジェノア、ピサ、フィレンチェなどのイタリア都市国家群が勃興する1000年代を待たねばならない。中世後期はイタリアの時代である。そしてルネサンスが終息するまでの600年間は、イタリア人が再び経済的なヘゲモニーを手中にした。特に第4次十字軍がコンスタンティノープルを劫略した1204年以降はイタリア人達が中世ヨーロッパの経済的文化的リーダーとなった。

× × ×

このように経済構造の変動は、歴史の進行過程の中では、まるで人生80年の中の1週が過ぎるように1年と言う時間が過ぎていく。そういう感覚で変化を待つべきなのだろう。

良い政治の課題は、自然のままならば30年かかるような進化をせめて15年程度に短縮する、そのための努力を払うことだろう。そしてその間に起こるはずの不必要な対立、混乱そして死をできるだけ少なくする。これに尽きるのではあるまいか。

日本では何かというと<改革>の2文字を使っては政治に要求しているが、そもそも日本人がいう「改革」は外国では普通の政治の中で普通に行われていることのように感じとれる。それから何故いつも<改革>なのか?ヨーロッパで努力が傾注されているのは<改革>というより<再興>であることも多い。崩壊した国家、社会を再興する努力が求められることも多いはずである。中国ですら、共産党政権がやっていることは中華帝国の再興であるように感じることがある。日本は敗戦後の喪失から国家を真面目に再興したのだろうか。自信をもって再興したと言えるのだろうか?改革と称して制度・手続きを変えてばかりいると、細部にとらわれ、失敗も多くなるだろう。まるで誤差を含んだ世論調査に一喜一憂するような愚かさに堕する可能性もある。小生思うに、この「改革好き」の背景として、直近世代の努力を強調したいという願望があるのではないか?改革に失敗しても「力及ばず。。。」という弁明ができる。それに対して「再興」を目標とすれば、遠い過去から現在へ下降線をたどってきた最近世代の失敗を認めることになる。それを嫌がっている、責任を認めたくないという潜在心理。だから<改革>という言葉になるのじゃあないか?

もう一つ。これほど<改革>を求める日本人でありながら、徹底的な改革である<革命>を願う気配すら窺われないのは、小生、理解しがたいことである。この点、本当にいぶかしく感じているのだ。

2012年5月19日土曜日

創造的破壊はできないが破壊のあとの創造ならできる国

日本国の電力体制は、3.11の大地震という<想定外>のショックによって瞬時にして破壊されたようである。

週刊エコノミスト(毎日新聞社)の5月22日号の特集テーマは、「電力競争時代」である。

また本日の日本経済新聞には以下の記事が掲載されている。
経済産業省の電力システム改革専門委員会(委員長・伊藤元重東大教授)は18日の会合で、電力の小売りを家庭まで含めて全面的に自由化する方針で一致した。家庭向け料金の規制もなくす方向で大筋合意した。

政府は早ければ電気事業法の改正案を来年の通常国会に提出する見通し。ただ、移行期間を設けるべきだとの声もあり、実施は2014年度以降になりそうだ。

電力小売りの自由化は2000年以降、段階的に拡大。契約電力50キロワット以上の工場やオフィスビルでは、新電力(特定規模電気事業者、PPS)の参入を認めているが、一般家庭には地元の電力会社しか供給できない。

委員会では「絶対に自由化すべき。いまのままで良いと言う人はいない」(日本消費生活アドバイザー・コンサルタント協会の辰巳菊子理事)などと、家庭向けの参入規制を撤廃する方針で一致自由化が実現すれば、再生可能エネルギーの電気だけ売る会社などが登場する可能性があり、家庭の選択肢が広がる。

家庭向けの料金は燃料費や人件費などの原価に利潤を上乗せした「総括原価方式」で決める規制が残る。料金規制を撤廃するかどうかが焦点となるが、委員の間では「(料金規制もなくさなければ)自由化とは呼べない」(中央大の安念潤司教授)との意見が目立った

電力会社に契約を断られた家庭に誰が電気を供給するかも焦点となった。現在、電力会社は家庭への供給を拒めないが、自由化で義務が外れる。委員会では安全網としていずれかの事業者に最終保障サービスを提供させる方向でほぼ合意した。

松村敏弘東大教授は「競争が働くかどうか心配。自由化した企業向けも十分に競争が働いていない」と指摘した。(出所: 日本経済新聞、2012年5月19日朝刊)
 アメリカや欧州で進められていた電力市場効率化の試みに断固として抵抗していたのが大手電力会社である。「抵抗」と言うより、体制内効率化の路線に固執していたと言うべきだろう。それが一撃にして、全原発を停止させられ、しかも高コスト体質に抜本的方策を講じることなく、「利益を出すには高い料金が必要です」と言わんばかりの愚策に出た。

どうも日本の大手企業は、<和の精神>が社内に横溢しているせいか、たゆむことのない<創造的破壊>ができなくなってしまうのだ、な。創造を進めるには、誰の目にも見える形でまず破壊しなければならないとは、何と非効率なことか!その背景に、自己犠牲を貧乏クジと形容して、全体の利益より自分達の利益を優先させる<ムラの掟>がある点、まず間違いはない。主君への忠義と臣下への恩賞というモラルの方がまだマシというものだ。危機管理ができない所以である。

いずれにしても大手電力企業は、「奢れるものは久しからず」の典型的事例となってしまった。いまガス会社など隣接ライバル企業が浮き立っているようだ。この波は広く、深く企業家精神を刺激していくだろう。つまりビジネスチャンスが来たということ。

× × ×

電力市場のあとは放送市場というか、電波市場なのかもしれない。しかし、<破壊>という点から考えれば、今の日本国にとって最も重要なのは、教育サービス市場と医療・福祉・介護サービス市場の破壊であろう。これは、文部科学省、厚生労働省による支配体制を破壊して、焼け跡を国内外に開放することに他ならない。それから金融資本市場の破壊である。これは、財務省・金融庁の支配体制を破壊して、生け贄を内外に供することを意味する。犠牲を供することで、日本のカネと顧客に魅き寄せられる国内外のファイター達による<新規開業>、<M&A>という食うか食われるかの闘いが、戦国時代さながら激しく目の前で繰り広げられよう。その中で、日本人の意識は覚醒し、社会は生命を取り戻し、日本国には再び<栄光>が訪れることであろう・・・。これが望ましいというか、もし「軍師」がいれば上策として薦める方向ではないかと思うのだ、な。更に、高度専門的職業の市場組織を同時並行的に破壊し、国内外に場を開放する作業がある。多くの「異民族」が外から流入するだろうが、新しい血が入るおかげで、日本人の活力は刺激され、再び興隆に向かうだろう。しかし、多くの官庁の所管ごとにその行政ネットワークの網の目は寸断されてしまうだろう。ま、燃やし尽くすことで再生を目指す・・・まさに<火の鳥>戦略というか、<破壊と創造>戦略であります。もちろん、悪くすると<暗黒の△十年>をくぐることになるかもしれない。しかし、破壊の後には、今の電力市場再編にも似た再生の機運が醸し出されることは、絶対に間違いのないところだ。

しかし、大手電力企業が退却したあと、経済産業省が次の戦略をリードしている。そんな風に進むのなら、新たに生まれる体制が中央官僚集団にとって都合の悪いものになるはずはない。この辺りをどこまでマスメディアがチェックできるかである、な。それができないようなら、マスメディア市場もまずは<破壊>するしか、しょうがないでしょうかなあ・・・

それとも、いまの日本の国民がホンネとして願望しているのは、大手民間企業の支配を破壊して、新興の企業が雨後の竹の子のように生れ出るような社会ではなくて、清廉潔白な官僚がコントロールするような国家なんだろうか?だとすれば、国民が願望するような人間が、官庁に採用され、仕事ができるように、公務員の任用・昇進制度を先に変えるべきであろう。これもまた日本人の苦手としている<創造的破壊>である。ここでもやはり創造的破壊が苦手であるというなら、まずは破壊しちゃいますか?だとすれば、<革命>という形をとるしか道はござらぬ。

2012年5月17日木曜日

陰謀史観が当てはまるかもしれない例 ― 電力・KY・ギリシア問題

<陰謀史観>という見方がある。善きにせよ悪しきにせよ、世の中の出来事の背後には全て<黒幕>がいるという哲学である。なるほど人間社会の歴史は自然現象ではなく、人間の意志が原因で進んでいくものだ。事故や内乱や戦争は、ある人間集団の、その人間集団の指導者の意志がそれを求めていたからだ。そう見る訳である。太平洋戦争の開戦を余儀なくされたのは日本潰しを狙ったアメリカの陰謀である、そうかと思えば、太平洋戦争は日本の指導層による共謀(Conspiracy)であるとみる。つまり陰謀史観であります、な。

まあ太平洋戦争はともかくとして、最近、これはひょっとすると陰謀史観が的を射ているのではないかという現在進行中の事例に思い至った。

× × ×

一つは、稼働原発ゼロという今の状態である。確かに「安全である」ことを証明する義務が政府にあり、ストレステストまでをも義務づけたからには、安全性の証明は限りなく難しくなった。それ故、稼働原発ゼロに至り、電力需給は綱渡りになった。

理屈はそうなのだが、もし昨年に浜岡原発を停止させていなかったらどうだったろうか?おそらく法的手続きにそって、技術的な安全性が確認された原発から順に、淡々と再稼働されたことだろう。電力不安はなく、震災復興と福島第一原発の後処理に全力を傾注できていたであろう。

しかし、その場合でも東京電力の福島第2を再稼働するのは無理である。新潟・柏崎刈羽原発の再稼働も、福島県の現状が変わらない以上、非常に困難ではあるまいか?というか、東京電力が同一の企業組織であるまま、首都圏の電力需要を原発再稼働でまかなうことは、社会心理的に不可能に近いと思うのである。

であれば、いまの電力供給体制を前提すれば、首都圏の電力価格と首都圏以外の電力価格に大きな格差が生まれるのは必至である。これまでは首都圏の電力価格は、全国でも割安だった。それが急激に逆転するだろう。おそらく金融機関、IT産業のデータセンター、サーバー類は一挙に首都圏から流出するだろう。部品・パーツなど技術力をもった中小企業も、東海、近畿、東北、北陸など首都圏外の適地に移転すると予想される。これでは首都圏内の経済が維持できない。首都圏は、3.11の巨大津波には襲われなかったが、電力価格の構造変化という経済的津波に飲みこまれるであろう。

全国一律の原発停止措置は、「首都圏経済の保護」を目的とした霞ヶ関による陰謀ではないか?これが<陰謀史観>、その一である。

× × ×

二番目の事例は、所謂<KY>と関係する。

今の日本でカゼをよめない奴というのはネガティブな形容である。最近、国立大学で開催された新歓コンパで、上級生が一年生のコップにつぐ酒を断りきれず、多数の一年生が急性アルコール中毒となり、救急搬送されるという事件が発生した。「いえ、僕はもうソロソロ止めておきます」、このようにハッキリと言いにくい雰囲気なのだろう。「KY!」というのは、その昔、武士が臆病者よばわりをされるのにも似たダメージなのだろう。

小生の幼少年期は、少し違った雰囲気であったようだ。たとえば「正しいと思ったら一人でも正しいと言いなさい」、「敵幾万人ありとても我ゆかんという気持ちをいつも持ちなさい」などなど、むしろ風に逆らう、多勢に無勢でも、最後まで自分を貫けというか、そんな言葉を頻繁に、耳にタコができるほど、色々な大人から聞いた記憶があるのだな。何か不祥事があった後の学校のホームルームでも、「その他大勢に流されてお前もそれをやったのか」というのが最後通牒的な叱責の言葉であったと覚えている。今の「KY!」、「かぜを読めよ」というのは、余りにベクトルが違っているのだ。

小生、これは文部科学省による<陰謀>ではないか、と。だって学習指導要領。これを自由に議論すれば、もうもちません。中央の指導には誰も従わないでしょう。だから「言うな!従え!」と。画一的教育システムを死守する。そのための<KY批判運動>、<KY批判教育>ではないのか。小学校から積み木を一つ一つ積み重ねるように、我を張らない、流れを尊重する教育を実践している。官庁の権限を守るための<KY>ではないのか。これまたKY=陰謀なのかもしれんなと、そう感じるに至ったのであります。

× × ×

もう一つ、ギリシアの債務問題である。

英紙としては日頃見ているDaily Telegraphは少し右よりである。しかし左翼系のThe Guardianもこんな報道をしている。
Sometimes, just sometimes, economics and politics are like physics – one can recognize immutable forces. One of those times is now, asGreece is inexorably pushed out of the euro. It took no particular talent to have seen this coming, just the recognition that it has always been a fantasy to believe that the Greeks would democratically choose to destroy their economy for the better part of a decade in order to pay foreign creditors.
The fact is that Greece never was a suitable member of the eurozone. That the Greek economy was extremely inefficient, that corruption was rife, that the government budgets were perpetually out of control, and that the official statistics were not to be believed were widely known. But, as in many marriages, Greece's entry into the euro was a triumph of sentimentality and wilful blindness over realism. (出所:The Guardian, Monday 14 May 2012 19.49 BST)
そもそもギリシアのユーロ圏加入に合理的根拠はなく、それ自体、何か得体の知れない心情とか理念がまかり通ってしまった結果であった、と。ここまで言うかなあ。そう思ったりもするのだが、英国からみれば、全体が一つの壮大な共謀とその失敗劇に映るのかもしれない。 <共謀>・・・、まあ、そうなのだろうね。<欧州>という共通の家を構築しようと言うのは、独仏主導、小国参加による共謀でなくて、何であろうか?

であるので、これまた陰謀史観が該当する事例になるかもしれない。

2012年5月15日火曜日

いまの政治家のお気に入り ― 瀬戸際戦術

とことん突っ張って「行けるところまで行く」。北朝鮮の強硬姿勢もそうであるし、最近では尖閣諸島近海での中国漁船船長逮捕とその後に見せた中国政府の強硬姿勢も該当するかもしれない。古くは戦前期日本の軍国主義政府もそうだろう。すべて<瀬戸際戦術>である。よく言えば<背水の陣>ともいえ、その背水の陣は漢の名将韓信がとった天才的作戦であったから、リスクをかえりみない瀬戸際戦術が常にダメダメであるわけではない。とはいえ、賭博にも似た攻撃が大成功するには、相手が弱体であるという洞察、及び天才的な即断即決、そして部下からの絶対的信頼と指導力が必要である。

凡人が瀬戸際戦術をとると、まず自滅への道をたどるであろう。

小生は、英紙Daily TelegraphのWEB版"The Telegraph"に寄稿しているAmbrose Evans-Pritchard氏のコラム記事をGoogle Readerの登録フィードに入れてある。その最新記事はヨーロッパがギリシアと展開している危険な政治ゲームについてである。

Europe's nuclear brinkmanship with Greece is a lethal game




ズバリ、核の脅しは生命がかかった危ない政治ゲームであるという指摘というか、たとえである。まあ、大陸欧州、ギリシア国民等々、いまやっていることは危ないということを意識していない、正にその点が、一番危ない。ダイジョブ、ダイジョブってやつです、な。小生も、100%、Pritchard氏に同感である。
× × ×

ギリシアの現状は悲惨である。
Youth unemployment up to the age of 24 reached a fresh record of 53.8pc in February.
The rate for those aged 25-34 rose to 29.1pc. 
The total rate hit 21.7pc but will soon be much higher as 150,000 public sector workers are chopped – with pro-cyclical effects, in the middle of a depression – to comply with the EU-IMF Memorandum. 
Polls show that 70pc or even 80pc of Greeks still wish to stay in the euro, while at the same voting in large numbers for hard-Left and hard-Right parties committed to tearing up the Memorandum – a course of action that will take them straight out of the euro. 
I do not wish to reproach the Greeks for cognitive dissonance.
(Source: The Telegraph, May 10th, 2012) 
24歳以下の若年層失業率は50%を超えているのだから、日本などは御の字である。それは欧州・IMFとの合意を守るためであり、そのための財政緊縮を進めているからで、ギリシア国民の現状は経済支援の代償であるという理屈だ。
Greeks have yet to conclude that the euro itself is the cause of their catastrophe – though they are getting there. By the euro, I mean the whole structure of monetary union, made worse under current policy settings (incompetence). There can be no possible escape from this lamentable state of affairs at this late stage until they return to the drachma.
ユーロ圏から離脱して通貨ドラクマに復帰するまでこの惨状は続くだろうと指摘しているが、国民経済が健全化されるまでギリシアという国は存続可能なのか?金銭的収支はつくにしても、理屈は通るかもしれないが、国が滅んでしまっては元も子もないではないか。よく英国人は、この種の指摘をしては欧州大陸諸国から顰蹙をかっている。
Actual devaluations have the opposite effect. They prevent unemployment from rocketing, instead forcing down demand for imported goods. Iceland’s jobless rate is 7.5pc, nota bene, and its economy grew 2.9pc last year (OECD data). Remember all those dire predictions about Iceland, all those tut-tuts that it was paying a terrible price for clinging to the illusion of a sovereign currency? Even the great Prof Barry Eichengreen fell for that one. His other work redeems him. 
Like many journalists, I am bombarded with reports asserting that Greece would suffer near total collapse if forced out of EMU, with some claiming that GDP would fall by 50pc with inflation spiralling into the hyper-sphere. 
These numbers are plucked out of thin air. None of the analysts know what they are talking about, and Europe’s political elites – the elites that created this impasse – know even less.
We were told almost religiously that Britain could not safely leave the Gold Standard in 1931 or the ERM in 1992, or that such moves would set off dangerous inflation, and were told much else besides by the shroud-waving hysterics and defenders of the status quo.
We know what actually happened. The UK had its best decade ever relative to other major powers in the 1930s, at least in modern times. Its democracy remained rock solid through the late Depression as others crumbled one by one, or ended in paralysis as in France.
 ユーロからギリシアが離脱する時の混乱が心配されているようだが、過去の経験によれば心配には値しないと、いくつもの実例を紹介しているのが、今回のコラム記事の論旨である。

約束を守り忍耐を続ければ論理と信義は通るが、国が滅ぶかもしれない。ユーロから離脱すると、混乱は避けられないが、かえって良かったという実例もある。つまりチャンスがある。

瀬戸際戦術という不毛の突っ張り合いは中止して、実質本位の選択をするべきであるというのが、Pritchard氏の議論である。おそらくイギリスの平均的見方であるような気がする。ギリシアの選挙結果、フランス、オランダの政治バランス変化をみても、メルケル独首相は一歩後退を余儀なくされるかもしれない。とすれば、ドイツから他の欧州世界に移転される資金のパイプは、太くなる方向で予測しておくべきだろう。そんな方向転換をドイツが理解し、ドイツ国民、ドイツ企業が受け入れるかであるな。次の鍵は。そう見ているところだ。

× × ×

瀬戸際戦術を選択する背後には「ダイジョブ、ダイジョブ」という根拠なき楽観と無責任がある。この基本的ロジックは、今の日本にも該当するのではなかろうか?

原発の危険?ダイジョブ、ダイジョブ。
原発全面停止!経済?ダイジョブ、ダイジョブ。

そういえば今の日本の中堅世代は、かつて若いころ<三無主義>、<五無主義>と形容されていなかったかな?無気力、無感動、無責任で三無主義。それにプラスして無関心と無作法が加わって五無主義・・・。最近の世情は「三つ子の魂、百まで」を地でいくものか・・・。いやいや、これでは世代間戦争になってしまう。やめておこう。桑原、桑原。

この<ダイジョブ、ダイジョブ精神>。その精神を発揮するのなら、せめて積極的投資戦略で発揮してほしいものだ。そうすれば日本国の役に立つ。自社の経営では<ダイジョブか?>と臆病風に吹かれつつ、自社に関係しないところでは<ダイジョブ、ダイジョブ>と我田引水をはかる。もしそうなら、トータルでは結局自分は何もしないということであり、マクロ的にこういう行動をとると日本のGDPは、早晩、韓国はもちろん、タイやベトナムにも抜かれてしまうであろう。というか、Maddisonの"Contours of the World Economy"によれば、韓国には一人当たりGDPで2030年には抜かれるであろうと予測されている。

その意味では、日中韓FTA?米が入ってくるじゃないか、やらずともダイジョブ、ダイジョブ。TPP?あれはアメリカの戦略だよ、参加しなくともダイジョブ、ダイジョブ。選択しうる政略としては、日本も北朝鮮と同じく、<瀬戸際戦術>しかないわけであります。日本と北朝鮮、イメージはずいぶん異なるが、似てないはずの二国は意外と共通している面がある。最近、小生はそう思っているのだ。

2012年5月14日月曜日

行政における機密について

先日までTBSで放送された「運命の人」は沖縄返還にともなう日米間密約をスクープした西山太吉記者をモデルとするドラマだった。その本筋は、国家公務員へ機密漏洩を求める行為は、それ自体が犯罪になるというものだった。

それが本当に正しい判断なのかはさておき、今日書いておきたいのはその<機密>である。確かに外交上の機密はあるだろう。最終的合意に至るまでに辿る様々なやりとりが、ただ知りたいという国民のために、その都度一言一句公開されてしまっては、有利な譲歩を引き出すための駆け引きや打診も不可能となり、「正直これ一途」しか選べる戦術がなくなってしまう。これでは相手が交渉上の優位を占め、結局、自分たちの首を自分で締める結果になる。これは確かに理屈である。

しかし行政府が機密を守ることが、社会一般の利益につながるというロジックはないというのが原則だ。

× × ×

たとえば今朝の新聞で報道されている広島・三原のホテルプリンス火災事故。防火対策上の多くの不備が以前から何度も指摘されていた。指摘されているにもかかわらずホテルは対処策をとらず、今回の事故に至り、7名の死者が発生した。

行政が防火上の指導を行うのは、定められた基準があるから指導するのであり、基準を満たさなければ不適格である。不適格なら改善を指導するべきである。その指導に従わないのは改善の意志がないわけであり、そう認識すれば営業停止処分をとるべきである。停止させないならその理由を行政文書として記録し、保管し、ただちに住民の閲覧に供するべきである。文書媒体に加えて、インターネットなど閲覧の利便性向上をも図るべきだろう。これがロジックだろう。

不法行為によって利益を得ている個人が、その個人情報を公開されることによって受ける損失は、その情報をみることによって残りの個人が得る利益には及ばない。違法なり、不法なり、不当な状態の存在について行政が知り得た情報を提供することは、住民から委任され、業務を代行している行政機関が果たすべき最も重要なミッションではないのだろうか。裁判は、日本国憲法82条で公開の原則が規定されている。特に国民の権利に関する裁判は、裁判所側の考えによらず、常に公開しなければならない。司法は密室で行ってはならない。行政プロセス上の事実を公開するのは、国民と行政府の関係を考えれば、同じことである。

そんなことはないと思うが、査察をする行政と査察をうける業者が密室で「こういう状態は違法なんですよね」、「それは重々分かっているんですが、資金繰りがいま窮屈でして、少し待って頂けないでしょうか」、「そうですか、今回のところは改善に向けて着手していると報告しておきますから、速やかにやってくださいよ」。次回は次回で別の担当者が「着手となっていますがどうなりました?」、「それが予定外の工事が入ってしまって、その代わりに緊急時にはこういう体制をとることにしました、何とか今年度はこれでいこうと・・・」。以下、無限ループが続く。もしこんなやりとりが(万が一)あったとすれば、双方に有利なバーターがあったと推察するべきだろう。

おそらく今回火災事故を起こした福山市のホテルは、経営陣に組織暴力団が関係しているか、あるいは何かヤバい事情があったのではないか。そのために市の指導が及び腰であったのではないか。その辺は、今後の事故調査なり行政監察なりの場で、経緯・背景が明らかになるであろう。明らかになった上でその報告を求める権利を地元の人たちは持っているはずである。

× × ×

行政のプロセスは、あらかじめ了解された事項以外は、すべて国民・住民に対してオープンになっているべきである。それが権力の集中を防ぎ、密室化を防ぎ、そのことが政治家が不当利益を得るチャンスをなくす。そうすることを通じて、金持ちになりたいが故に政治を選ぶという誠に劣悪な政治家の発生を防ぎ、真に公に尽くしたいという人間に官僚・政治家への道を開くのだ、と。小生、そう思うのですね。

2012年5月13日日曜日

日曜日の話し(5/13)

孤独死や無縁死の増加をどう考えるか、報道されることが増えている。先日もこんな報道があった。
賃貸住宅での孤独死について、都市再生機構(UR)が昨年秋、死後1週間以内に遺体が発見されたケースを統計に含めない方針を決めたことが波紋を広げている。URは「亡くなった瞬間に1人でも、孤立していたとは限らない」というが、孤独死対策に取り組む団体は「期間を区切ると実態が見えにくくなる」と反発している。相次ぐ孤独死の現実をどうとらえるべきか、関係者の苦悩が続く。【山寺香】(出所:毎日新聞5月11日(金)12時28分配信)

社会の知恵が求められているのか?社会の同情が求められているのか?支援事業を支える人が求められているのか?人を雇うカネが求められているのか?ビジネス展開するためのビジネスモデルが求められているのか?何が求められているのか、そもそも着眼点すら整理されきっていないのが現状だろう。

しかし、死に方の問題を放置しておくと私たちの暮らすこの社会が、どのような社会に変貌していくのか想像もできない、そんな潜在心理というか、恐怖があるのも事実だろう。


 巨勢金岡、餓鬼双紙

巨勢金岡(こせのかなおか)は、古代の飛鳥時代、白鳳時代、天平時代を通して、ずっと中国文化の影響下にあった日本美術を、国風の「新様」へと導いた所謂<大和絵>の創始者である。平安時代の初期、臣下の身にして初めて関白に就任した藤原基経の後援を受けたというから、800年代(9世紀)の画家である。

当時の日本国の人口は総計Ⅰ千万人にも満たなかったはずである — Angus Maddisonがいま手元にないので断言はできないが、まあ、この前後のはずだ。それでも上の作品に観るように、京の都あるいはその近郊で、人間の死や悲惨を目にすることも多かったに違いない。但し、巨勢金岡の真作は一品もないと言われている。全て他の人の手になる模写である。

平安時代の邸宅では間仕切りのための屏風や障子が多用され、それには色々な装飾絵が描かれていた。それらは全てこの世から消え去ってしまい、残っているのは平安後期にかけて生まれた絵巻物くらいである。だから東京国立博物館でも、京都国立博物館でも、絵画分野で検索をかけると保存状況の良好な仏画はともかくとして、風景や街を描いた世俗絵は、12世紀より以前の作品はほとんど出てこない — これは西洋美術にも当てはまることだ。

カミさんとはこんな話しをした:
「孤独死は一週間たたないと孤独死にならないのかねえ?」
「一週間ほおっておかれると、やっぱり孤独死なんじゃないの?」
「それなら一人で死んで、三日も誰も来なければ孤独死だって判定すればいいのにねえ・・」
「そうだね。だけど年をとると、どうしても一人でいる方が安気だよ」
「もっと哀れなのは、無縁死のほうじゃないのかなあ」

遺体を引き取る人がいなければ自治体が火葬をする。それでも家族が遠方にいれば連絡をとる。しかし「遺灰は適当に処分して下さい」と伝える家族が多いらしい。そうした無縁死のほうが、はるかに人生の悲哀を表している、と。小生はそう感じたりする。

巨勢金岡の描いた餓鬼双紙は現実世界ではないのだろう。悲惨のイメージだろう。西洋の人間も大体は同じように想像していたろう。このように死が身近にあるなら、人は死の前と後を厳しく区別せず、いまの生の延長に死後の生を置くように自然に発想するだろう。古代ギリシア時代にソクラテスが死後の世界の在り方を自らの哲学の基礎とし、死後の在り方に基づいて今の自分の生を定義しようと考えたのは当然である。そもそも彼は哲学者というより、盾と長槍を持って戦う市民戦士でもあったわけだから。

死を前提しない、死の在り方を前提しないモラルなどはあり得ないのかもしれない。死を語らずして、生きることだけを念頭において、いくら倫理やモラルを語っても、所詮<空念仏>、<馬耳東風>、話すだけ無駄なのかもしれない。いつか自分は無になり、死ねばただのゴミだと思うなら、せめて生きている刹那は、思う存分享楽に耽るのが合理的選択というものだ。有限期間の繰り返しゲームでは決して集団合理的な協調は成立しない。節制と自己犠牲が可能になるのは、いま生きている瞬間だけが自分の時間ではないと認識することが、大前提である。これが基本的なロジックだ。だとすれば、孤独死や無縁死について考えることは、生きるためのモラルを再興する一つの契機にはなるかもしれない。


2012年5月10日木曜日

小沢政局ならず小沢裁判 — 政治報道ビジネスのネタ切れか

カミさんの「ギックリ腰」も大分よくなり、久しぶりにテレビのワイドショーを観ている。いま「小沢裁判」の話しをしている。

政治資金の不正経理について共謀があったかどうかで地裁の判決で無罪が出たと思ったら、今度は控訴されたというので騒動が繰り返されている。

「無罪です!」で騒ぎ、「控訴しました!」というのでまた騒ぐ。

それだけでも、小生は一つの矛盾を感じるのだが、騒いでいる多数の人は疑問を感じないのだろうか?感じないだろうねえ・・・そう考えている・いないではなく、全体がビジネスなのである。そういうことでしょう。

裁判の前は<疑惑>があった。だから<裁判>をした。したら<無罪>と結論された。それ故、地裁判決のみが存在する現時点において、小沢議員の疑惑は否定され、無罪であるものと見なすべきである。罪があるかどうかを判断する権利は<司法>にあって<国民>にはない。「まだ無罪であると確定した訳ではない」と主張する人たちは、今後、最高裁まで上告して、それでも納得しない場合は<再審>を請願して、次はその請願が受理されるかどうかが<確定>するまでは、結論は出ていないと強弁するのだろうか?

小生、こんな社会状況は率直にいって<世論独裁>、事実上の<人民裁判>であると思います、な。民主主義を偽装した<大衆暴動>に似ている面がある。多数が数の力に訴えるのは、一人でいるよりも仲間といることを重んじる、少数の仲間を結成するよりも大規模な組織を運営することを尊敬する心理が根底にある。とうてい共感はできぬ。

いや、いや、こうした議論も現実を言いあらわしてはいないだろう。つまり、こうするしかないほどマスメディア政治部の利益機会が枯渇して来たということだろう。政治らしい政治がとにかく無いのである。で、話題が枯れ果てて来た。野心溢れる議員立法も、権力意識丸出しの官僚の発言も、壮大な汚職をやる人間もいなくなった。だから<小沢>しかない。<小沢裁判>で新聞を売り、視聴率を稼ぐ。<無罪>で稼ぎ、<控訴>でまた稼ぐ。これしかない。「仕方ないよね」。こういうことではないのか。

この騒動によって、利益を得ている人たちは確かにいる。それは、何もせずに高給をもらい続けている立法府の国会議員達である。小沢議員の処分を解除した民主党を批判していれば、議員としての<仕事>をしているかのような体裁をつくることができる。その機会がラッキーにも訪れたのである。

しかし昨日も「これもビジネスでしょう」という下りを書いた。モノ作りが流出して、サービスで食っていかざるを得ない今の日本。おしゃべりをしていると思ったら「有難うございました。これ私のビジネスなんで・・・」。こんなことが増えてくるかもしれない。

2012年5月9日水曜日

格付け情報は<情報>たりうるか ― 大学編

小生と関係の深い国立大学で行われた新歓コンパで9名が急性アルコール中毒で救急搬送された。その話しは日本全国に広まり ― 海外にまで報道されているとは思われないが ― 色々と話題になっているようである。かくいう小生は、事件当日はカミさんの「ぎっくり腰」で家事に忙しく、夜は統計学の授業があるので、実は知るのが大変遅かった。で、いささか驚いた次第だ。

調べてみると「北海道のFランク大学だから、騒ぎにもならないだろう」とか、「Fランじゃあニュースバリューはないしね」等々、この<Fランク>という名称が目を引いた。そういえば某予備校が全国の大学格付け情報を流し始めたと耳にしているが、このことか、と。

検索にかけてみると、ゾロゾロと関係サイトが出てきた。


いやまあ、これだけのページが検索にかかってくるからには、大学の格付け情報に対する需要がそれだけ多いということなのだろう。

× × ×

しかし、大学の格付けもそうであるし、個々の受験生の偏差値もそうである。さらに、金融機関の格付け、国債の格付け、社債の格付け、サブプライム・ローンを原資産にした金融派生証券の格付けなどなど、あらゆる格付け情報がそうである。それら<格付け>が、情報としてどれほどいい加減な物差しであるのか、まだなお理解されていないのだろうか?

格付けを主たる材料にして経営判断をした金融機関が、リーマン危機の中で、どのように破たんしたか、なぜその経験から学ばないのだろうか?小生、この辺の行動心理学的理由が、さっぱり分かりませぬ。

× × ×

格付けは、統計分析でいうところの<情報の要約>に該当する。大量のデータが集まれば、まずは分布を視覚的にみてみる。次に、平均値やメディアンなどの代表値を確認する。それと同じ行動であって、同じ動機による。即ち、時間と労力の節約である。しかし、統計分析ですら、平均値のみから分かることは余りに少ない。最低限でも、代表値+散布度、この二つの特性をみる両眼思考をしないと、全体的傾向は決して分からないのである。平均だけを確かめて議論を単純化するのは、俗にいう<平均思考>であり、これはまあ単眼思考というか、単細胞的思考回路だとバカにされても仕方がないのだ、な。

簡単なデータでも、全体を把握するには最低限、二つの数値をみておく必要がある。格付け作業とは、個々の機関について多種類のデータを集め、多種類のデータを総合的に見ながら、個別機関のポジションを洞察する作業である。多くの数値情報、属性情報を一つの順序尺度にまとめる作業が<格付け>であって、これは次元の縮約にあたるから多変量解析の一分野になる。

平均値を計算する、一つの数値にまとめて順序付けをする、いずれにしても<情報の要約>である。であるから、「御社の格付けはBになりました」とか、「貴学は残念ながらFランクです」といっても、ランク付けのプロセスで捨てている情報と、ランク指標に残している情報と、どちらが多いのかを問いかける目線が非常に大事である。ミクロ情報は一筋縄ではいかない。おそらく順序尺度を算定するまでの間で、原データに含まれていた情報の大半は失われるはずだ。たとえば、入試センター試験を6科目受けて、その合計得点だけに着目すると、個々の受験生を識別する物差しは1種類だけになって順序付けには具合がよいが、その受験生の特徴など、実質的なことの大半はわからなくなる。これと同じである。

にも関わらず、大学の選択、事業の経営において、オリジナルの原データを自ら吟味することなく、格付け情報を主たる根拠に、大事な判断をする。まあ、専門家にアウトソースしたくなる心理はわからぬでもない。それにしても「Aランク!やったぞ」とか、「Fランク!なるほどねえ」とか、それで何か大事な情報を得たものと判断する、まさにその思考回路こそが、いまは最も分析を必要とする行動パターンではなかろうか?日本経済において、いくら待っても金融サービスが高度化されないはずである。手っ取り速い加工食品、いやさ加工情報で満足するなど、あまりにも情報に無頓着というか、<情報分析グータラ症候群>というか、形容に困るのだが、どうもよろしくない。どうしても、小生、そう感じてしまうのだな。

× × ×

本当は中身がエンプティである指標に基づいて判断をすることは、サイコロを転がして出た目によって判断をするのと、本質的には変わらない。<当たるも八卦、当たらぬも八卦>。占いと概ね同じであると言っても過言ではない。格付け情報は、全くエンプティではなく、多少の情報を含んでいる。しかし、捨てた情報と保持した情報との相対的割合を開示していない。だからこそリスキーなのである。これが小生の見方だ。

思うに、<格付け>とは、情報ではなく、それ自体が収益を目的とするビジネスである。たとえは悪いが、フランスのタイヤメーカーが作成している<ミシュランガイド>、中でも話題が集中しがちな「レストラン・ホテルガイド」と概ね同類ではあるまいか。だとすると、生産しているのは情報ではなく、エンターテインメントにより近いのではないのかなあ。そう思ったりする。

情報は、<選択と判断>の役に立ってはじめて情報となる。1位から100位までに並べるための順序指標だけをみても、1位がベストであるのに決まっている。<格付け>は、実は、何の役にも立たない。この世は三次元だ。高さ×幅×奥行きをみて、物体がイメージできる。だからというわけではないが、せめて3種類の特性値くらいは情報会社と名乗るのであれば、提供しておくべきであろう。

2012年5月8日火曜日

選挙後の欧州政情 ― 予想通りの展開

黄金週間の最終日、仏大統領選・希国政選挙が実施され、それぞれ現職・与党が敗北した。ドイツ流の一貫かつ過激な財政緊縮路線に国民が悲鳴をあげたというわけである。

英首相は早速声明を出した。
David Cameron is to declare that there is “no going back” on harsh spending cuts after seeing the leaders of France and Greece swept from power by public anger at austerity.(Source: The Telegraph,  Tuesday 08 May 2012 )
多数が予想したように財政緊縮路線が否定された結末であると指摘し、またギリシアが1年以内にユーロ圏を離脱するだろうとも予測している。

The elections showed that large numbers of voters believed there was an alternative to the austerity measures imposed by governments and international funds since the global financial crisis.
The biggest protests came in Greece, where the electorate took revenge on the two parties that had been trying to push through unprecedented budget cuts in return for bail-out funds.
・・・
Economists at Citigroup said the Greek election results significantly raised the risk of Greece leaving the euro within a year. Tristan Cooper, a sovereign debt analyst at Fidelity Worldwide Investment, added: “Although it should be no surprise that Greeks are spurning the Troika’s bitter medicine, the violence of the rejection is a shock. A Greek eurozone exit is now firmly on the cards.”
× × ×

ドイツの論調はメルケル政権の経済規律路線を ― Frankfurter Allgemeine紙によれば ― 評価しているようである。

欧州の債務危機を回避するという点では、メルケル首相とオランド新大統領は意見が一致しているようだが、経済政策路線はかなり隔たりがある点に着目しているのは当然だ。
Das von heute an gute Arbeitsverhältnis zwischen Frankreichs Präsident François Hollande und Bundeskanzlerin Angela Merkel ändert nichts an den gegensätzlichen Vorstellungen zum Umgang mit der Eurokrise. Beide wollen am Sparkurs festhalten und das Wachstum fördern - aber jeder meint etwas anderes. 
Merkel nimmt die Schuldenbremse ernst, Hollande will sich keiner Regel zur Drosselung der Neuverschuldung unterwerfen. Wenn Merkel von Wachstum redet, meint sie Strukturreformen, um Fesseln auf den Arbeits- oder Produktmärkten zu lockern. Über die segensreichen Kräfte des Wettbewerbs (dessen Früchte die deutsche Wirtschaft gerade erntet) verliert Hollande kaum ein Wort. (Source: Frankfurter Allgemeine Zeitung, 07.05.2012)
ドイツ現政権は財政緊縮というより自由主義・規制緩和路線という側である。それに対してフランス新政権が市場メカニズムのメリットを支持することはないものとみている。そのフランスが行きつく先をドイツはどう見ているか?不健全な経済運営を採用することを懸念しているようだ。不健全な経済政策は、たとえそれを評価する社会主義的傾向のある人物が大統領府に入っても、それが不健全であるという事実に変わりはない。まあ、正論である。
Mittels Krediten, Bürgschaften, Anleihekäufen, Krisenfonds und anderer Instrumente (Target, Dicke Bertha und mehr) wird der Zins künstlich gedrückt und erhält selbst der schlechteste Schuldner frisches Geld, mag die Rückzahlung auch noch so fragwürdig sein. Warum soll sich das ändern, nur weil ein Sozialist in den Elysee-Palast einzieht?
人為的に金利を引き下げ、マネーの拡大を図ると本来は資金調達能力のないはずの企業なり個人が必要資金を調達できるので、景気は短期的に上向く。しかし過剰流動性供給はインフレにつながる、でなければバブルが崩壊して不良債権の山となる。どちらにしても「バブル願望症」というべき見方であると ― 相も変わらずと見るべきか、当然と見るべきかは意見が分かれようが ― 切り捨てている。

× × ×

ただ思うのだ。確かにドイツは健全財政+規制緩和政策で一人勝ちの状態である。しかし、それは欧州内の生産性格差解消に資金面で十分協力せず、ドイツ国民の観点からドイツ企業の利益を追求してきたためではないか。

もしも日本国内で中央政府を通じた地方交付金や国庫補助金制度がなければ、利益とカネは大都市圏に集中し、実際の生産活動を行っているはずの地方は慢性的な資金不足に悩むだろう。ヨーロッパもこれと同じことである。本来なら、南欧の生産性向上は低く、ドイツに対してギリシアやスペイン、イタリアの通貨は低落しているべきである。それを共通通貨EUROの枠で縛っているから為替低落の恩恵を受けることができない。そのため、競争優位性はドイツ側に一方的に偏ることになっている。もちろんドイツが頑張ったという点を無視してはならない。しかし現在の状況が持続可能でないのは確かだ。

多分、今後、政策路線の違いが際立ってくるだろうが、議論するべき事柄は<ばらまき政策復活 vs 健全財政維持>という不毛の対決ではない。生産性の向上と健全財政の実現を目指すことは経済の発展にとって必須不可欠である点に間違いはない。しかし同時に、ドイツと他地域の資金偏在を解消する仕組みを作ることが最も重要だ。

平たく言えば、ドイツの景気が好くて、ギリシアで失業者が溢れているのであれば、ギリシアからドイツにいくらでも働きに行けるようにすれば良いのである。ドイツの賃金は下がるだろう。しかしギリシアは楽になるのだ。ドイツが、それをどうしても堰き止めたいというなら、ドイツがギリシアの経済開発を支援するために、見返りを求める投資ではなく、社会資本充実、人材育成等々を目的に資金供与するべきなのである。そうすることがヨーロッパの利益につながり、ひいてはドイツの利益になるだろう。そもそも、そのためにこそEUとEUROを作ったのではないのか?


2012年5月7日月曜日

やっと気が付いた点 ― 幸福の条件と真善美

明治末年から大正デモクラシーにかけての時期は、明治維新直後に次ぐ、ヨーロッパ新思想の到来期にあたっていたようだ。いわば輸入文化の第二波である。

明治初めの翻訳文化から脱して、国内の人材が新しい価値観やモラル、社会思想を議論したのもこの頃である。哲学者・九鬼周造が、東大を卒業してヨーロッパに渡り、実存主義に触れたのも大正文化の展開と深まりにシンクロナイズしている。九鬼が「いきの構造」を著したのは、昭和に入ってから、彼が40台になっての仕事であるが、その基礎は大正期に形成されている。

九鬼は、小生の曽祖父と同じ世代に属し、此の世で同じ空気を吸ったのだが、当時の人は自分の人生のことを色々と考えたようである。どうやら食うだけが人生の大事であるとは考えなかったようである。まあ、「人はパンのみにて生くるにあらず」とバイブルでも言っているくらいだから、食うことだけが大事なわけではないとは、洋の東西を問わず、すべての人が思うことだ。

× × ×

<真善美>という。真は真理をさし、善は文字通りの善というか、モラルのこと。美は具体的な芸術作品と言うより美の本質をさす。

真善美が、人生をかけて求めるべき窮極的価値であるというのは、TVも携帯もインターネットもない時代、大学で学ぶ学生達の大半の常識であったように思われる。この真善美というのが、小生、これまではどうも鼻持ちならないというか、高学歴の青年のエリート主義が紛々としていて、あまり好きな言葉ではなかった。しかし、この<真善美>というのは、今日の<民主主義>とか、<雇用>とか<経済成長>等々の言葉よりは、よほど体系的思想に裏打ちされた確固とした概念であったと思うようになった。

端的にいえば、<幸福>を実現する窮極的価値なのだろう。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、なぜ人はモラルを守らなければならないかという理由を真剣に議論した。ソクラテスは、善でありつづけることが、幸福であるための必要条件だからだと主張した。もちろん「本当の幸福とは何か」が大問題になるわけであり、一筋縄ではいかない。モラルに執着しないことこそ幸福へ至る道であるという、人が思いつくあらゆる反論に対して、ソクラテスはロジカルな反撃を加える。その下りは、演劇を観るのにも似て、プラトンの対話編「ゴルギアス」でも最大の山場になっている。生きることの意味?自殺することの意味?「ソクラテスの弁明」は、いまでも高校の課題図書の一冊として推薦されているのだろうか?

このように考えると、真善美という価値を追求して、それを具体化する努力を払うことは、その人を幸福にするだけではなく、社会の大多数の人を幸福にする道に通じる。そう考えていたのではないかなあ、と。これまで大正期の青年たちの必読書とされた阿部次郎「三太郎の日記」など、いくつかの作品に目を通すこともあったが、全然ピンと来なかった。来なかったのが、先日、布団の中でゴロゴロしているうちに「ああ、そうだったのかなあ」と気が付いたわけ。

× × ×

必死に勉強しているうちは、どうしても暗記主義の弊害に陥りやすい。ゴロゴロしているときに、分かるべきことは、いずれ分かる。こうした分かり方は結構大事なのではなかろうか?

雇用とか、福祉とか、成長とか、これらはいかにも実用的・直接的な価値であり、有用な政治目標たりうる。しかし、何が人生にとって大事であるのか、この点を一所懸命に考えさせる教育の在り方は、決して悪いものではない。他人の人生を大事に思う官僚や政治家は、今日でもなお求められている存在である。そう思うのだが、どうだろう。


2012年5月6日日曜日

日曜日の話し(5/6)

今日は、四日連休の最終日であるとともに、小生の亡父の生誕日でもある。もっとも浄土にいるはずの父の誕生日を祝うことは、今日ではもうない。

とはいえ、他界したのは近々40年前のことでしかない。長い時間の流れの中から見れば、昨日のことであると言ってよいかもしれない。

前週は源氏物語絵巻を代表とする大和絵の話しになった。いつの間にか話題が地中海から日本に移動した。旅行なら大変だが、ここが話だけをすればいいブログのよいところだ。大和絵は800年代以降、日本の文化全体が中国の影響を脱して、独自の発展を示し始めた時代に生まれた。その時代は、世界帝国・唐王朝の末期の頃であり、中国は内戦で混乱し、周辺諸国に影響を与える力は失われていった。次の宋王朝の時代に再び中国が力を取り戻すまで100年程度の混乱と衰退が続く。中学校の歴史の授業でも習う<国風文化>の時代は、何も日本だけで見られた現象ではないという。


紫式部日記絵詞

大阪・藤田美術館に所蔵されている上の作品は、平安文化の爛熟期である12世紀に描かれたものという。右上にいる人物は紫式部が仕えた中宮・彰子の父である藤原道長であると言われる。「平安時代」は現代人にとって馴染みが薄いが、藤原一族が全盛期を迎える西暦1000年を中心に前後200年と数えると、大体の目安にはなる。その400年は、藤原一門が政界で台頭し、ライバルを排斥し、富を蓄積して、その後一族の内紛や皇室が院政という新手に打って出たこと、そして鎌倉幕府の成立によって、支配力を失うまでの400年である。

東ローマ帝国がギリシア人たちの帝国「ビザンティン」になってから、隆盛期は概ね1000年±200年の合計400年程度である。古代中国の王朝である漢も紀元ゼロ年をはさんで、概ね前漢が200年、後漢が200年程度で寿命を終えている。徳川時代は長いようでも250年である。武士が日本に誕生して、武家の棟梁としての清和源氏、その中でも特に河内源氏が崇敬を集め始めたのが源頼信の頃だから、やはり西暦1000年。その後、衰退と興隆を繰り返した後、最終的に河内源氏の末裔である足利一門全体が戦国の世で力を失うのが応仁の乱以降であるから、寿命は概ね400年余りだ。古代ローマ帝国の黄金時代は西暦100年代の五賢帝時代だから百年間。ただ東西分裂までを数えると395年だから、帝政開始からやっぱり約400年。

どうやら、いかなる超大国・帝国あるいは名門貴族と言っても、一つの体制が400年という時間を超えて、変わらぬ力を行使するのは、どうしても不可能のようである。

古代エジプト文明は紀元ゼロ年前までに約3000年の歴史を経ていた。バグダッド近郊などメソポタミアもそうだ。人類文明の歴史のうち、キリスト生誕以前の方が以後よりもずっと長い。この長い時間の中で、どの権力も高々400年という時間を超えて機能し続けることはできない。国の名称は同じでも、中身は別になって生きるしかない。国は破れても、人のつながり、人縁・地縁は生き続け、また新しい国がつくられては、消える。核兵器の時代ではあるが、いままでの現実が変わるとは思えない。

であるとすれば、これが<諸行無常>ということか。人間の本質は確かに変わらぬものとしてあるとは思うが、国家や権力は、まさに<もののあはれ>、桜の花のようなものだろう。シュンペーターのいう<イノベーション>は、世は予想通りにいかないという意味では、<無常>の中の出来事である。

2012年5月4日金曜日

原発と日本経済 ― リスク評価もできぬ、安全限界もわきまえぬ、では困る

関西電力管内では、今夏、どんなに節電をしても15%程度は電力需要をまかなえないのではないかという「憶測」がある。これは流言飛語だという人がおれば、かなり信用してもよいのではないかという人もいる。

ここ北海道でも泊原発3号機が今月から定期検査に入り、北電も節電要請をすることになるのではないかと心配されている。夏場に節電するのであれば、厳冬期の北海道の電力需給は相当厳しいだろう。本日の道新には、原発停止の余波で三美炭鉱(美唄市)でフル操業を続けているという記事がある。同社の西向沢露天坑は低コストであり、海外の安い石炭とも十分戦えるらしい。昨年来の本州への余剰電力送電は、この石炭が支えている面が大きいというのだから、エネルギー事情もだんだんと変わりつつある。ただ、原発再稼働・脱原発の方向が不確実ないま、大規模な能力拡大投資に踏み切るのはリスクが大きいというので、当分はフル操業体制で行くと話している。

電力という最も基礎的なエネルギーにおいて、日本経済は<供給ボトルネック>という昭和20年代以来の経済状況に陥りかけている。類似例としては、チェルノブイリ原発事故直後のウクライナが挙げられるようだ。当時、国民の間に反原発意識が高まり、ウクライナも原発を全て停止した。それを代替したのがロシアの天然ガスである。しかし、電力供給が不安定になり、頻繁に停電が発生し、工場の操業は停止した。そのため製造業の海外流出が加速し、失業者が激増。国民の所得が低下、税収が減少して財政が悪化。結局、ロシアに天然ガス代金を払うこともできず、ガス供給も停止される憂き目にあったことは記憶に新しい。ウクライナの国民が原発再稼働を納得したのは、こんな惨状と向き合ってからだ。

惨状と向き合って初めて納得するのは、文脈は全く異なるが、今日のギリシアと相通じるものがある。日本もその仲間入りをする可能性がある。ま、子ども手当とか児童手当とか、そんな場合でなくなるかもしれぬ。公的年金とか、そんな余裕はなくなるかもしれぬ。とすれば、年金制度改正という課題そのものが、雲散霧消することになるであろう。つまり緊急事態である。

× × ×

とはいえ、政府も苦悩にみちているはずだ。菅前総理が「危険である」と主張して原発を停止したあと、止めた原発を再稼働するには「危険ではない」ことを政府が証明する必要ができた。しかし、それを証明する体制は、「原子力規制庁」の発足すら見通しが立たない今、ないに等しい。

原子力安全委員会も自らの責任で「安全である」と証明することに消極的であるようだ。そりゃそうでしょう。「危険だ」と判断していれば、原子力安全委員会が「危険だ」と言っていたであろう。委員会が「危険でない」と判断していた原発を「危険である」と菅前総理が言いだしたのだ。それが「いまはもう危険ではありません」と証明するデータを揃えるのは、科学的には不可能ではあるまいか?当時も今も「危険ではない」と考えているに違いないから。

原子力安全委員会の真の難問は、「危険でない」と証明することではなく、菅前総理が「危険だ」と停止指示を出した時点において、「確かに危険であったのです」と、この点を証明することのほうであろう。

経済的混乱というエコノミック・リスク、原発の安全投資がなお不十分であるかもしれないというハザードリスク。これに加えて、危険ではなかった原発を首相が超法規的手続きによって停止させたという事実が、実は水面下には潜在している。ここの経緯に火がつくと、汚職ではない、まさに政治家としての信念が弾劾されるという久しぶりの政治劇を見ることになるかもしれない。ま、民主党にとってはポリティカル・リスクであろう。失業と自殺に相関があることは認められている。原発事故による強制避難長期化と孤独死との関連も指摘されている。問題は<そういう事態が到来する確率評価>である。こういうリスク評価が、いま、求められている。

× × ×

いずれにしても駆逐艦から爆雷攻撃されれば、潜水艦は海面下深く潜航するしかない。できれば海底面に静かに着座して、エンジンを停止するのが最も安全であろう。それは事実だが、それが出来るのか?技術上の<安全限界>をわきまえておかなければ、安全策が最も危険な策であるかもしれないのだ。

どちらにしてもリスクがある時には、よりリスクが小さい方向を決めることがリーダーの責任だ。その判断を分かりやすく説明して、全員の納得を得ることも仕事のうちである。

投資家はリスクを引き受けてギャンブルをするが、政治家はギャンブルは避けるのが当然だ。しかし、いまの日本国に安全確実な進路はない。大事なのは、リスクの評価である。



2012年5月3日木曜日

いまの貧困はカネではない。情報である。

日本はマクロ的には黒字国である。ギリシアやスペインのようにカネに困っているわけではない。困っているのは政府だけである。家計も企業もトータルではカネ余りである。足りないのは<情報>である。今日はそんなことを書きとめておきたい。

情報?いまという時代は、情報が足りないのと正反対であり、情報過多ではないか。そういう人も多いかもしれない。しかし、小生、やっぱり日本は情報不足の国であり、情報面での貧困化が進んでいると思う。


その背景なり、原因分析はまた別の場に書くとして、最近の経験から。

× × ×

先日、ドイツの五大研の一つ、Ifo(Leibniz Institute for Economic Research at the University of Munich)からメールマガジンが届いたが、その中に共同経済見通しのアウトラインが解説されていた。

グラフで見るのが簡単だ。


これによるとドイツ経済の実質成長率は、今年(2012年)が0.9%増、来年(2013年)が2.0%増ということだ。昨年末から本年初にかけて<踊り場>的な停滞を見せていたが、今後は順調な拡大路線が予想されているというレポートである。

日本はどうだったかな、と。そう思って、まず内閣府の政府経済見通し資料を確かめた。次の図が掲載されている。


これによると今年度(2012年度)の見通しは、実質成長率で2.2%になっている。

しかし政府の経済見通しは単年度ずつ区切って、足元の数字を作るだけだから、来年度(2013年度)はどうなっていくのかという数字はない。

というか、何もドイツのIFOと同じレベルで資料を提供してほしいとは言わないが、上の図は一体誰に説明する時に使う資料なのか、ちょっと分かりかねる稚拙な出来栄えじゃあなかろうか。そう感じるのだ、な。PCや便利なソフトウェアがまだ世の中に存在しなかった25年前なら上のような感じだったが、今ならIfo並みの資料作成が常識であろう、と。

× × ×

2012年だけではなく、来年(2013年)にかけてどんな経済ラインが想定されているのか?それを知りたいので検索をかけてみると、日本経済新聞社系列の日本経済研究センターによる中期経済予測がヒットした。「おお、あるではないか!それも中期予測だ、5年程度でやっているのだな」、「やはりこういう経済シミュレーションは日本に一日の長があるなあ」。そう思ったのだが、よく見ると実際のデータは<JCER NETメンバー限定>であるらしい。「ああ、メンバーにならないといかんのか」と思って、メンバー登録の方法を調べてみると、
JCER NETメンバーへのご登録は会員企業に所属する役員、教員、職員の方のみとさせていただきます。関連会社やご出向中の方等はセキュリティの都合上、ご登録いただけません。
こういうメッセージが表示される。ならば入会方式はどうなっているのか調べてみた。すると
日本経済研究センターは1963年の設立以来、経済界・官界・学界の架け橋となる使命を担い、短期・中期・長期の経済予測やアジア・産業・金融などの各種研究とその発信に努めて参りました。
300社に上る会員は、日本を代表する企業・団体によって構成されています。日本の人口が減少し、世界の経済構造が大きく変化する中で、正確で信頼性のある情報に基づき、先行きを見通すことがこれまで以上に求められています。
当センターは会員企業のニーズにお応えし、内外経済動向はもとより、アジアや中国、インドのマクロ経済にとどまらない踏み込んだ分析もご提供しております。会員企業の皆様には経営・投資判断、IR、調査研究など日々の業務に当センターの情報をご利用いただいております。
この機会に、当センターの普通(法人)会員となることを、ご検討いただきますようお願い申し上げます。(出所:http://www.jcer.or.jp/center/enrollment.html
このような理念の説明がある。具体的な会費は、一口、二口、三口で違いはあるが、年間で概ね100万円(!)である。これは明らかにBtoBビジネスであって、カネにならない活動をしている個人は顧客として想定してはいない。


当然ながら、ドイツのIfoはメールマガジンも無料であるし、提供している経済情報も無料である部分が多く、数値データはほとんどの人にとって必要十分であろう。有料で提供しているのは専門スタッフが分析・考察したレポートの部分である。

他人の知恵に対して報酬を支払うのは当然である。しかし、素のデータを提供するサービス活動から利益を稼ぐ ― というより現に稼げる ― というのは、ありえるのか?マネージメント・コストがかかっている以上、課金を徴収するのは分かる。しかし、コストを超える利益がそこに生まれるというのは、、一体、どんな付加価値を提供しているからだろう?日本経済新聞社が経済情報マーケットで有している市場支配力の行使そのものではないのか?独占的利益に該当するのではないのか?確かに対メンバーサービスは多種類の情報のパッケージになっているから、あまり批判するのは公平を欠くが、そう考えたりするのです、な。

× × ×


ドイツのIfoは、民間とは言っても大学の中の非営利組織である。営利原則に立つ日本経済研究センターとは同列にはいかない。とはいえ、それを差し引いても、この辺にも日本人が得意とする行動様式が何となくにじみ出ている、そんな印象を小生は受けるのだ。それは<先行投資>、<インフラ投資>が不得意というより、関心が薄く、<利益機会>、<ビジネスチャンス>には敏感であるという傾向だ。

利益機会、ビジネスチャンスという用語は、ビジネススクールでは日常的に使っているから、あまり貶しては自分に跳ね返ってくる。しかし、<チャンス>という言葉と<戦略>という言葉は、本来は180度違った、真逆の概念であることを知るのは大変重要だと思う。戦略とは、チャンスに乗じるのではなく、自分にとって有利なチャンスを、ライバルとの駆け引きの中で、自分の方から作り出していく行動だ。前の投稿でも書いたことだが、戦略がなければ最適組織も決まらない。リーダシップも不必要だ。その時には、<状況>に注意を払いながら、<チャンス>があればそこを攻めるという行動を必ずとる。端的に言えば<機会主義的行動>をとる。ま、オポチュニスト。左翼がよく使った日和見主義という言葉もある。これも立派な一つの選択であり、行動方針である。その時、その時、チャンスが豊富にあるという見通しがあれば成功するはずだ。

しかし、小生は思うのだ。多くの人が経済・社会データを使いやすいように利用システムを整え、誰でもが国際マクロ経済の現状を自ら調べ、確認できるようにしておくことは、国民一人一人の経済的感性を底上げし、創造的ビジネスの誕生を刺激することになる。である以上、これは営利型のビジネスではなく、21世紀の国家がなすべきインフラ投資ではないのだろうか。本来なら、大学が取り組まなければならないことだ。IFOもドイツ・ミュンヘン大学に置かれる非営利組織である。アメリカではセントルイス連銀の総合経済情報データベース(FRED)が有名で、これは小生も頻繁に使うので本ブログの右側にリンクボタンを作っている。経済学者のKrugmanは、FREDに比べて欧州のEUROSTATの使いにくいことを嘆いていたが、そういう以上は、多分クルーグマンは日本政府や日銀のサイトを使ったことはないのじゃないかと、そこは確信しているのだ。

<成長戦略>が必要だと言い始めて、もう10年近くになる。しかし、それは<ビジネスチャンス>や<利益機会>を探すことだと割り切ってしまうと、そこでまた資源の浪費が生じるだろう。古代ローマで軍隊が道路や橋梁を担当したと同じように、第一人者が公共建造物を提供したように、政府や非営利組織がいま必要なインフラを作り、十分なインフラを広く公開し、その上で多数の民間企業が自由にビジネスを展開する。こういう順番で進めないと資源をドブに捨てるようなものだ。焦ってビジネスを後押ししても、大きな花が咲く理屈はない。まして、インフラ的社会資本を民間の独占的企業による営利事業に委ねるなどは、室町時代の<関銭>と同じで、社会的停滞を自ら望むのと同じである。

日本経済の中期的展望を、日本人が知りたいと思うとき、年間100万円もとるような民間ビジネスがまず検索にかかってくる現状は、それだけ日本の<情報貧困>ぶりを示唆しているのではないだろうか。自然科学の成果、社会科学の成果を良質の情報ネットワークで公開する活動は、21世紀の社会資本形成だと考えるべきだ。