2012年12月23日日曜日

日曜日の話し(12/23)

天皇誕生日というより毎月23日は母の祥月命日であり、近くの寺の住職が月参りに来て、読経してくれる日でもあるので、今日は祭日という実感があまりない。だから明日も振替休日で三連休という感覚が、頭では分かっているものの、全くなくて困る。

月参りが終わってから、雪が降り積もった人気のない大学に来て、年賀状を印刷した。今年の絵柄はずっと以前に本ブログにも投稿した「小樽運河と橋」の秋ヴァージョンにした。カミさんが家に戻ってきてくれて ― 戻った直後にぎっくり腰を患って、小生は相変わらず多忙ではあったのだが ― 心のゆとりができたのだろうか、描き始めてすぐに仕上がった。


秋の小樽運河と橋、Fabriano 230mm×305mm、水彩

絵といえば、最近 ― 参照したブログを信頼するとして ― 明らかになったことがある。カンディンスキーの作品だと手元では分類されているのだが、持っているカンディンスキーの画集のどれにも含まれず、彼の作品だと確認できなかったのが下の絵である。


カンディンスキーの作風とは明らかに違っていてクレーの絵ではないかとも思われ、ずっと小生にとっては作者不明であった。それがブログ「水彩画の巨匠たち ― ワシリー・カンディンスキー」の中で上の作品を偶然に確認することができた。1928年に制作された『闇の中へ』であるとのことだ。

1928年といえば、カンディンスキーが同棲していた恋人であり弟子でもあったガブリエレ・ミュンターと別れてロシアに戻り、そこで二人目の妻と結婚したのだが、そのロシアでも受け入れられず、スターリン政権が発足する直前、故国を捨て、第一次大戦後のドイツに開設されていたバウハウスに移って数年後の頃になる。クレーが教官に招いたのだが、そこでカンディンスキーは、1933年にナチス政権によってバウハウスが閉鎖されるまで、約10年間、再生したかのように旺盛な創造活動を展開したのだった。上の作品には明らかにクレーの影響が認められ、二人の親密な交流をうかがうことができる。

カンディンスキーはナチス政権下のドイツからアメリカに亡命することを勧められたが、それを拒否し、フランスに移って隠棲し、戦後を見ることなく78歳でパリに客死した。時代に振り回された人であり、平穏で幸福な生活は常に戦争や政権交代によって壊されたのであるが、そんな時代に生きた彼の人生があったればこそ、今日まで残された名作が数多く創造されたとも考えられる。

新しいものを創造する人は、内面の衝動に突き動かされて活動する人であり、ある意味では時代に捧げられる<生贄>のような存在かもしれない。そう思うことがある。『ワイマールのロッテ』の最終章の中で、作者トーマス・マンは老いたゲーテに「私こそが苦しんできたのです、ロッテ、わが身を燃やして、周囲を照らす蝋燭と同じように、すべての詩人は創造という炎の中に自らを生贄のように捧げて、美を紡いでいるのです」と。ちょっと原本がないので、引用の正確さには欠けるが、まあ、このような趣旨の告白をゲーテにさせている。

政治は科学ではなく芸術に近い。再現は本質的に不可能であって、新しい時代をつくるという創造にこそ意味があるからだ。だとすれば、政治家もまた時代に身を捧げる生贄としての覚悟を持つべきなのかもしれない。


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