2012年12月13日木曜日

TV業界 ー 知る権利も大事だが、間違った認識を避ける権利も大事だ

12月に入ってからずっと荒れていた天気も、昨日、今日は一段落して、青空がのぞかれるようになった。で、いまは某TV局のワイドショーをのんびりと観ている所だ。
高齢者 vs 若者、どちらの雇用を優先?
この<優先>という言葉が日本人は極めて好きである。アメリカにも<優先順位>はもちろんある。例えば、大統領に何かがあった場合の継承順位はずっと昔から確定している。優先順位の好きな日本人は、しかし、首相に何かあった時の継承順位はなく、それではまずいというので一応決めたのは相当最近のことだった。

<優先>という言葉が頻繁に使われるのは、優先順位をつけるのが実は苦手であり、何かというと物事を曖昧にしておきたいと願う日本人の傾向があるからだろう。小生はそう見てきたのだ、な。

『大道廃れて仁義あり』、老子も言うように「優しさだ、モラルだ」と五月蝿くいうのは、社会から優しさが失われ、モラルが失われていることの証拠である。言葉と現実は、往々にして、正反対の位置にあると考える方がよい。

それにしても、雇用問題において
高齢者と若者のどちらを優先するか?
とはねえ・・・答えは誠に単純明快である。

役に立つ人材を雇用すれば良いのである。若いからといって、それだけの理由で、同じ報酬を支払いながら若者を雇用する。それを命令する権利は国にはない。そんな愚かなことをすれば、日本企業が競争優位を失い、販売が低下し、肝心の仕事がなくなるだけの話しである。顧客との相互信頼がものを言う分野ではベテランが優位であろう。逆に、ITソフト開発や、斬新な製品デザインなどにおいては、若者が優位にたつはずだ。組織管理では経験がものをいうだろうし、研究開発では若者の柔軟な発想が不可欠だ。

人の雇用は、能力と報酬とのバランスでロジカルに決める、これが基本的なセオリーである。

とにもかくにも<日本人の>高齢者と若者、この二者対立図式が決定的にくだらない。企業は日本と外国のどちらに立地するかを考えているのだ。雇用される方も外国人と競争しているわけだ。学校の学年じゃあるまいし、年齢自体がそれほど大事か。要は、適材適所。最も有能な人材から担当業務を決める。経済はどれだけ合理的に行動するかで結果が決まる。かわいそうだとか、何とかしてあげたいという感情は、経済の議論じゃない。生産が一巡した後の社会保障政策である。つまり政治で解決、というより決定しないといけない事柄なのだな。

60歳から65歳までの再雇用を法律で民間企業に義務付けるというのは、経済政策ではなくて、社会保障政策のコストを国ではなく、民間企業に直接負担させるという点で無責任であり、日本政府の弱体化もここに極まっている。これでは経営状況に応じた給与格差がそのまま社会保障に反映されるではないか。ここが問題のコアではないか。まあ、いまでも年金格差はあるわけだから、いいといえばいいわけか・・・。、開き直れば、開き直れるわな、と、そういうことかな、と。いずれにせよ、無力な政府のツケを回された民間企業は海外に出て行くだけである。無責任というのは、政府もそうだが、租税負担を出来る限り後回しにしたいと願う国民もそうなのだ。政府と国民もろとも、困ることになるであろう。ここをTV局にもちゃんと見てほしいのですよ。

TVだけではなくマスメディアも産業である以上は、プラスの価値を創造してはじめて存立できるはずだ。その存立は「情報の品質」をめぐる普段の競争によって保証されるはずだ。しかし、電波割当、官公庁の記者クラブ制など色々な独占的要素がマスメディア業界には残っている。法に守られた独占的経営の行き着く先は、品質の停滞と高コスト体質、価格の高止まりである、というのが一般的に言えることだ。

マスメディアが正しい問いかけと正しい認識を提供して、私達が十分な情報をもつ。十分な情報を持つことで、豊かな生活やフェアな社会をつくれるようになる。それが情報産業の成長の果実である。ゼロサムゲームを繰り広げているわけでもない高齢者と若者を対立図式においてみる。そうすると話しが面白くなる。適材適所の合理性を追求する場に、なにか感情的行動をあおりたてるようなキャッチフレーズをつくる。それで視聴者の記憶にとどまろうとする。こういう放送姿勢は、根拠のない流言飛語を流しては大笑する「愉快犯」と、本質的には同類じゃあないか、小生、そんな風に思うのであります。ま、愉快犯には「悪」を楽しむ歪んだ人間の感情があるが、法人たるTV局には感情すらもない。ただ社員が食っていくためだけではないのか?悪意に見るならば、そんな風にも言えると思うのだな。

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