最近は毎日嫌な夢をみる。若い頃は何かから逃げるように空を飛んだり、何かを投げたりする夢をよく見たが、最近は昔一緒に働いた同僚や先輩が登場して、甚だ人間臭く演出されている。もう忘れている人たちが、なぜ夢の中に限って小生とまた縁をとり結ぶのか、小生にはその理由・原因が全く分からない。とはいえ、小生にとっては『夢のような世界』とは辟易する世界であって、覚醒するとむしろ安心できる現世にいることを知るのであるから、これは『足るを知る』、つまり幸福への近道を歩いている、そう言えなくもないだろう。嫌な夢にも意味はある。
Marc Chagall, I and the Village, 1911
Source: Marc Chagall Paintings
シャガールも他の多くの芸術家と同様に、1917年のロシア革命後、祖国に見切りをつけて、パリに行き、第2次大戦でパリがナチスドイツに占領された中、ユダヤ人であったことから、アメリカに亡命し、戦後になって再びフランスに戻り、国籍を取得して、ニースに移り住み、1985年にそこで死んだ。カンディンスキーもそうだったが、時代に振り回された人である。
上の有名な作品は、シャガールがロシアを永久に捨てる前、パリで制作されたもので、彼が少年時代を過ごしたロシアの田舎の情景を形づくる幾つかのコンポーネントが、記憶の重層構造を模写するかのように、同じ平面上に描かれている。いまにも話しだしそうな山羊の頭と人の横顔、乳搾り、教会の十字架と農作業から帰る一人の青年。確かに山羊の頭は気色悪いが、こんな夢なら見てもよい。しかし、夢から覚めた後は、もう戻らない少年時代と懐かしい世界を思い出し、いま生きている世界のプレッシャを改めて思い出すだろう。確かに、そんな生きにくい時代をシャガールは生きたわけだから、こんな絵を描く資格がある。では、夢のほうが淋しく、孤独で、思うようにいかない毎日であるなら何を描けばいいのか?夢ではなくて、目の前の風景と人物を描けばいい。懐かしく思い出すような少年時代がないのなら、現在生きている現実そのもののほうがましであろう。
<自然主義>というと写実主義、<理想主義>というと明るい幸福な理念を描くものだと文学史では聴いてきた。しかし、自分が帰るべき世界、行くべき世界が信じられないとすれば、そんな人間が帰するところはどこか?いま生きている現実のみである。いま存在している状態は神が作った世界であると考えれば、人間の頭で別に理想をひねくり出す必要はない。過去を追憶するのは、過去は一つしかないからだ。未来は何通りもあるので、どの未来もウソになる可能性がある。過去を語るとき、人は耳を傾けるが、未来を語るとき、人は語る人の思惑を嗅ぎとる。人は未来に生きるが、神はいまここにいるものだ。現在を大事にするか、未来を大事にするか、その選び方はその人の哲学を反映するだろう。
だから、これまでシャガールは小生にとっては疎遠な芸術家だった。しかし、今年の年末ばかりはシャガールを見たくなった。それで一枚を本ブログに含めることにした。
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