ヨーロッパでは▲▲をやっているのに、日本ではそれができていない。アメリカでは○○であるのに、日本ではそれができていない。中国では◇◇と考えているのに、日本人はそういう発想ができない。あの会社はもう★★を決めているのに、我が社はまだそれができない……、こんな議論は日本国内で最も頻繁に耳する議論であろう。
もちろんこの元祖は「☆☆を導入するのがグローバル・スタンダードであるのに、日本は周回遅れになっている」という2000年代初頭に大いに流行したディベートの論法である。これは、あれですな、幼少期に誰でも一度は口にした「だって、みんなもう持っているんだよ」、この台詞がオリジナルになっていることは言うまでもなく、親なり、監督者はこの言語表現には一番弱いのだ。
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こういう発想は島国であり同時に後発国でもある日本伝統の言い回しであって、実際の役に立たないのはなぜか?
ロジックが通っていない、というか認識論として矛盾しているからだ。
ヨーロッパではかくかくしかじかである、それは知っている、いやダメだ、実際そこに何年か住んでみないと分からないものだ、と。もしこの論法が真理なら、住めば住む程にその社会の細部の問題が詳細に理解できてくる、つまり短期間訪れた訪問者より、長期滞在者の方が、長期滞在者よりはそこでずっと暮らしている住民の方が、その地域の問題をよく理解している。こういう理屈になる。本当にそうだろうか?もしそうなら、問題の本質を一番理解できているはずであるのに、なぜその場の当事者は問題を解決するのに失敗する事が、ままあるのか?そもそも、もしこの論法をとるなら、日本の問題は日本人が一番よく理解できており、その解決策も日本人が見いだすはずではないか。
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世界では■■のようにやっているのに、なぜ日本ではそれを導入しないのか?これは、上の議論とは多少見方が違っていて、一対一の比較ではなく、一対多の比較に基づく。
ビジネスの世界であれば、差別化と独自化はつまりは競争回避戦略であり、それは常に企業経営者の求める利益拡大に沿うことだ。しかし、競争回避を行動原理として戦略を選び続ければ、そういう主体であるという風評(Reputation)が形成されてしまう事になり、最終的には利益を損なう原因になる。足元の利益は考えずに敢然と同じ土俵で競争をいどむほうが、長期的には寧ろ利益拡大の道となる。こんな限定合理性の理論が当てはまる例は実に多いのだな。
適当な例ではないが、太平洋戦争で日本軍が実行した特別攻撃は、実に非人間的で戦術としても非合理な愚策であったことは既に証明済みであるようだが、一方であのような戦術を整然と、組織崩壊を招来することもなく実行できたという事実は、ある意味で戦後に生き残った日本人について回った一種のリソース − なにか怖れとか、異分子的な受け取られ方をもたらした面も否定できなかったろう。
とことんライバルと向き合って勝負に徹する。ここから逃げてしまったら、多くを失う。これは永遠の真理だ。
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しかし疑問もある。日本が「失われた20年」の間、じりじりと後退してきたのは逃げてきたからだろうか?外国との競争を回避してきたことが、日本の戦略の失敗であったのだろうか?
どうも違うような気がする。そうではなく、同じ商品であっても効率性では負けないという過信から、新興国とコスト競争を繰り広げながら、新興国の技術進歩、円高の進行から玉砕を反復してきた。そういう20年ではなかったのか。
そうなるのではないかという懸念は20年前にも既にあった。それが、まあ心配した通りに、新興国による市場奪取戦略の標的になり、日本製品は市場を喪失してきたわけである。円高で「高くなったから売れない」ではなく、「高くても、数は減っても売れる、だから儲かる」、そんな商品は何かという戦略をとっておくべきであったと、いま語っても遅すぎるのである。
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<戦略>を議論するには<目的>を確立しておくことが必要だ。目的合理的な戦略が決まったら、戦略を実行するための<組織>に再編成することが必要になる。この全てが、日本の生産現場である企業では不徹底だった。
しかし ー 小生はへそ曲がりだからまた考え直す ー 日本企業の経営者を批判するのにも躊躇を覚える。というのは、企業の目的は何かという理念が、日本人自身の胸のうちに明確な形で形成されていないからだ。
株式会社の目的は、株式価値の最大化にあるというのが基本的なロジックである。上場企業は特にそうだ。だからこそ、株式会社という会社組織が生まれたのだから。しかし、日本人はそうは考えていないのではないだろうか?会社は、経営者、従業員の共存共栄のために存在する、そう認識している人が多いのじゃないか?だとすれば、経営者は、株式会社の代表取締役としてとるべき戦略をとれないだろう。そもそも共存共栄を目的とする共同社会的組織は、無限責任を原則とする合名会社ないし合資会社、あるいは協同組合であるべきなのだ。不特定多数から資金を調達する以上、会社は拡大を目指しているはずであり、資金提供者の利益を実現することこそ、信義にかなう。しかし日本人の正義の感情はこうは思わないだろう。
まあ、ズバリ言えば、日本という国は、江戸以来の日本人集団がヨーロッパ由来の法制度という衣服を着せられた社会である。自分がデザインした服ではなく、土着の慣習とも異なり、制度の運用は官僚・専門家の専断に永らくまかされてきた。しかし、根が社会の現実にしっかりとついていない法制度は、現実の変化に即応して改正されていくことがない。日本社会と経済は、世界の進化をフォローしていこうとする誘因をもっているはずである。しかし、それをバックアップする法制度の側に、現実と向き合う動機がない。輸入学問である法律の文言・解釈は、官僚・専門家に(事実上)独占されてきた。その官僚・専門家は現実の経済社会に従う動機はもたない。
現実を法で支えるのが法の存在価値だが、日本では法が先にできて現実が法に従う。多数が少数に従う。要するに、ここから色々なことが生じている。
もしこんな見方が日本に当てはまっているなら、「ヨーロッパでは」とか、「アメリカでは」という議論は、間違ってはいないが、いつも日本が一歩遅れてしまうのは正に「ヨーロッパでは、アメリカでは…」と、そんな議論をしているからであって、小生は、ここに履歴依存(Hysteresis)的な自己回帰メカニズムをみる心地がする。
こんな風に、世に徘徊する多数の<デワの守・一族>を観察しているのだ。