2020年1月10日金曜日

一言メモ: 「リスク管理」の一例

不確実性のあるところ「リスク」が存在する。

この「不確実性」というのは、今後将来において生起する可能性のある事象が複数あるということだ。そして、それぞれの事象が生起する確率が判明している場合には、いわゆる「リスク」があり、確率さえも未知である場合には一般的な意味での「不確実性 (Uncertainty)」があると言われている。

先日、発生してしまった「カルロス=ゴーン国外逃亡事件」を端緒として今後予想される結末は複数ある。であるので、この件については「リスク管理」が必要である。リスクを評価する方法はこれまた複数あるが、まずは「ばらつき」を「範囲(レンジ)」でとらえておくのが取りあえずのリスク評価にはなろう。

要するに、相手側ではなく当方にとって最善である結末と、当方にとって最悪となる結末を予想しておくことだ。この二つのケースの違いがどの程度の国益上の違いをもたらすか。これが(一つの)リスク指標である。経営にせよ、投資にせよ、政治にせよ、はたまた大学受験にせよ、この位はやっておくべきだろう。


日本側にとって、今後最善のケースはいずれかの国が日本に協力しゴーン氏が送還され公判が開始されるという可能性だろう。

では、最悪のケースとは何か?

太平洋戦争で日米が戦ったミッドウェー海戦において最悪のケースは、言うまでもなく「日本大敗」という可能性であったはずだ。最悪のケースが実現したときの最適戦略が確定していれば、そのとき日本側にも「戦略」があったことになる。

今回のゴーン氏逃亡事件で最悪の結果とは何か?


ゴーン氏は日本の検察が起訴し、今後の裁判が予定されていた。

しかし、検察による取り調べの手法は、必ずしも関係国の法の下では適法ではないという事実がある ― 既に何度も指摘されている「弁護士立会権」はその一つだ。

日本で発生した事案であるから日本に裁判権があると認められているのは平等な外交関係があるからだ。ズバリ言えば、日本が先進国として認められているからである。

しかし、外交はすべて政治である。独立した国家主権が相対する外交が政治でないとすれば他に何があるのだろう。

その国の法では容認できない手法で自国民が他国で公訴されている場合、他国の法による裁判をそのまま受け入れるかどうかは、その国の政治外交上の判断に帰する事柄である。容認できなければ自国民の送還を外交ルートで要請する。裁判を予定している側は、領事裁判権があるなら別だが、要請に応じる義務はない。しかし要請に応じなければ外交上の難題を抱える。

日本にとって最悪の結果とは、例えばフランス、もしくは今回逃亡しなかったグレッグ―ケリー被告人が国籍をもつアメリカの政府が、自国民保護の観点から送還を要請するという結末だろう(レバノンは既に要請していたと報道されている)。要請に応じれば日本は裁判権を放棄する。拒否すれば外交上の大きな損失が発生する。これ以上に日本から見て不利な結末は(理屈上)ない ― もちろん外交上の紛糾は要請するフランスないしアメリカにとっても損失である。その損失を上回る国益が先方にあると判断すれば要請するという理屈である。

国際世論、特に米仏の世論の行方がやはりポイントであるかもしれない。いずれにせよ、そもそも最初から日本の意志だけで100パーセント決定できる事柄ではなかった。会社経営上の事案で外国人経営者が容疑者に含まれる場合、外交的な側面が必然的に混在してしまう。最初から分かっていたことである。


これまた「リスク管理」だ。

要するに、リスクが存在する原因になっている日本側の弱点(の一つ)として、特に批判に対してヴァルネラブルである司法制度がある。

『△△だから私は逃げた』に対して、『逃げたこと自体が犯罪である』と反論するとしても、「△△」の部分が真であり、「逃げる」という行動に結びつく因果関係が世界で共感されてしまえば、日本の反論は反論にはならないロジックである。故に、現状はヴァルネラブルである。

リスクは、単位期間ごとに反復される意思決定によって、大きくも小さくもなる。

ボールをどこの国が持っているか定かではないが(ボールは複数個あるかもしれないが)、日本が選ぶ選択肢によって日本の利益は変わるだろう。


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