中期の短編、いわゆる五条秀麿ものの一編『藤棚』(明治45年6月)に次のような下りがある:
話しは又一転して、近ごろ多く出る、道徳を看板に懸けた新聞や小冊子の事になった・・・(中略)書く人は誠実に世の為、人の為と思って書いても、大抵自分々々の狭い見解から、無遠慮に他を排して、どうかすると信教の自由などと云ふものの無かった時代に後戻をしたように、自分の迷信までを人に強いようとする。
この述懐を鴎外が公表したのは明治45年、つまり西暦1912年だから100年以上も昔のことである。しかし、上のような感想はまさに2020年の今現在の日本社会にもそのまま当てはまりそうである。
鴎外が生きた100年以上の昔から日本の社会は、というか人間社会全般といってもよさそうだが、まったく進歩していない。
ある側面で社会が進歩しないとすれば理由は一つしかない。それが「人間性」そのものに由来しているからだ。競争心や物欲、恐怖、嫉妬、羨望は時代と国を超える人の普遍的な感情である。抑えようとしても抑えることは難しい。
科学技術や文明がどれほど進歩しても、人間性そのものは昔と変わらない。実際、古代ギリシアの悲劇『オイディプス』や『アガメムノン』、あるいはツキディデスの『戦史』を読む現代人は、そのドラマに感動もするし、深い教訓を得たりするわけである。
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兎に角宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云ふ意味も失はれるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいづれに従はうとするのか?
ヨーロッパ中世はキリスト教信仰の上にたった社会だった。とすれば、信仰に生き、神の示す道を歩むのが人生であり、神に服従する限りは何があったとしてもそれは神の意志である理屈となる。貧しさも神の定めた道であり、富貴もまた神が許した境遇となる。人が計画的に意図する犯罪というものがある道理はなく、もしあれば悪魔に魅入られた人間の所業でなければならず、その者は処罰するのではなく抹殺してしかるべき存在である。そういう世界観であったはずだ。
このブログでも、束縛や隷従の下に置かれた人間は罪を犯しえないという話を書いたことがある。自由意志に基づく行動とは、要するに選択であって、その選択をしたことに対しては結果に責任を負うべきである。それが個人主義の根本原理だと。そんなことを書いた投稿は何度かある(たとえばこれ)。
現代社会の法体系は、個人主義の哲学に立脚して構築されている。人はすべて良心をもつ。独立した個人は良心に基づき常に合理的な判断と行動を選ばなければならない。その責任をもっている。不当な行為を選べば、その人は法的な処罰の対象となる。それが責任というものだ。そう考えて裁判が、特に刑事裁判が開かれている。
しかし、いかなるものからも完全に独立した人間は存在しない。何らかの神、何らかの思想、誰かに受けた影響等々があって、人は成長し、人格を形成し、生きているものである。全ての人は社会の産物である。人が犯した罪の責任にはその人間を育てた社会が負うべき一面がある。100パーセントの自由意志など実は現実には存在しているはずがないことは誰もが知っている。にも拘わらず、法は自由意志を措定したうえで被告人を裁いている。裁かれる人が社会を裁くことはない。社会は決して裁かれない。ここに<非条理>を感じる人は多いであろう。
現代社会ほど信仰や、神への怖れ、幸運を祈る心情が居場所をなくした時代はかつてなかっただろう。宿命という概念は法律上は存在しない。芥川龍之介が指摘した大問題は現代日本では解決済みというわけだ。
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・・・そういえば、戦時徴用工やかつての従軍慰安婦。日本政府は「解決済み」だと言っていたナア。大体、「解決済み」というのは、例えば数学の試験問題に正解を出した時に使う言葉であるのであって、解決済みにできる問題などはほとんどない。社会問題に客観的な正解を出せる学問分野は一つもないはずだ。というか、自然科学においても大体は「正解に近い」、「いい所まできている」という感覚に近く、解決済みという言い方はあまりしないはずである。
ま、「変わらないネエ」という点では変わっていないところだ。
昔と今とで変わった所があるとすれば、社会全体が幼稚化してしまったせいか、問題の本質とか、人生そのものとか、実質のある重い話題への関心がなくなってきた点だろうか。それより、エンターテインメント志向の話題が誰も傷つけない優しいトピックになってきている。
ま、世相というのは変わるものだと感じることも多い。
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