2020年1月21日火曜日

一言メモ: 「ああ言われた、こう話された」は所詮レベルの低い話しではないか

国会が開会して総理の施政方針演説が(なんと)TVのワイドショーのトピックになっている。『昔はなかったネエ、こんなことは』というと、御隠居扱いされそうであるが、施政方針演説、財政演説、外交演説、経済演説など、すべて政治家の演説は、「たかが演説、されど演説」と言っておけば誉め言葉であり、ざっくばらんにいえば自己評価と自己賞賛そのものに決まっている。『私には責められる間違いが少なくとも三つはあります・・・・・・、心からお詫び申し上げます』などと言う政治家がもしいれば、余程悪質な政治家であるとへそ曲がりの小生は警戒してしまう。

さて、小生が関心を刺激されたのは、経済に関してである:

  1. 税収が増えており、公債発行金額は減少傾向にある。
  2. 最低賃金が上昇している。中小企業で賃上げが浸透している。

この二点であった。

安倍内閣の一枚看板である「アベノミクス」は限界が露呈されつつあると指摘する人が増えているが、かと言って問題解決に向けた優れた提案を批判している人達がしているわけでもないと小生はみている。昔の銀行人事ではないが、マイナス点の個数に着目する減点主義では駄目だ。安倍内閣発足後の6年(ではなかった、7年)を合計して、上の二つが達成されているというのは、率直に言って大きなプラス評価ポイントだ。日常的にマクロ経済データを満遍なくフォローする業務からは解放されたので、最近は見落としているところもあるので、上の二つは小生にとって「思いがけぬファクト」であった。

ま、データと言うのは自己にとって都合の良い部分だけを示すものである。この事情は、批判する側も批判を受ける側も変わらない。故に、専門家の検証と経済の現場である経済界の評価が何より重要なのだが、今のところ上の二点について「これは誤りである」という指摘があるとも聞いていない。

ベーシックに考えると、国内経済以外にも外交、安全保障など内閣の責務は多々あるのだが、安倍政治の実績は<秀>ではなくとも<良>もしくは<優>でさえあるかもしれず、十分に及第点を超えていると判断せざるを得ない。小生はそう思う。

★ ★ ★

マスメディアは批判的である。

その批判も、「都合の良いデータだけを示している」、「こんな事実もある」という風な面倒な手数を必要とする実質的な批判ではなく、「なぜこの話をしない、なぜあの話しをしない」という語り口に対する批判である。

これでは、いかにもジャーナリスト風の文体、ボキャブラリーを採用しているとしても、本質は「感じ悪いヨネ」という世間の井戸端会議の域を出ていない。

ずっと以前に投稿したが、小生はどんな話をするかというのは、所詮は低レベルの話であると元々考えている人間だ。

産業連関分析の創始者W. Leontieffが言った言葉として小生の師が愛用したのは次の1行だ。
Only result comes.
(意訳)要するに「結果」だ → 「結果だけを見ているのだ」の方がベターか
"Result"というのは「結果」と訳されるが、つまりは言葉ではない、社会の現実を指している。日本社会のリアリティを変える力があるのは、誰それの口から出ている言葉ではない。現実に力をもっている人間集団の行動である。この点だけは、小生は昔から確信している。

だから、「ジャーナリスト」は社会の中で意図をもって行動している人物の行動履歴を取材し裏付けを集めるべきであって、誰それの口から出る発言などを非難していては全くの「手抜き」、本筋から外れるだけではないか、と。これが感想だ。

それにしても、いつものパターンであるが、言葉に対して言葉だけの批判を展開するマスコミ業界というのは、本当に現在の日本社会に対してリアルな影響力を持ち続けられると期待してよいのだろうか・・・小生、ますます疑問ありと感じつつある。学生の期末レポートにも、言葉だけが踊る「手抜きレポート」と、時間と労力をかけた「本当のレポート」とが混在している。この二つの違いは意外と直ぐに判別できるものだ。言葉で実質をリカバーすることは不可能である。プロモーションでコンテンツをリカバーすることは不可能だというのも同じ主旨である。

検証分析する時間がないままにとりあえず出さないといけないのであれば、「専門家による解説」など付加価値部分は断念して、事実だけを正確に淡々と報道する昔のスタイルにセットバックするのが最善ではないか、と。踊る言葉で辟易されるよりは、よほど信頼されるようになるはずだ。
巧言令色 すくな いかな仁
剛毅朴訥、仁にちかし
いつの時代でも変わらぬ真実である。

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