2020年1月26日日曜日

バルザック…リアリズム200年に関連して

藤原書店から刊行されているバルザックの新訳が中々いいというので『人間喜劇セレクション』第1巻の『ペール・ゴリオ』を買って読んでみた。鹿島茂訳である。出版されたのは相当前になる。書店にはあまり並んでいないので知らなんだ。既刊本の多くは『ゴリオ爺さん』というタイトルをつけている。

バルザック一流の会話部分は仏原文の雰囲気をよく伝えている喋り口だと感じた。

ボーセアン夫人は逃げ出し、ゴリオ爺さんは死にかけてる。気高い魂はこの世では長く生きられないんだ。偉大な感情の持ち主が、卑俗で、皮相的なこの社会と折り合いをつけることができるんだろうか?

ここは、初読の際には気にも留めず、今回初めて読む印象だ。

改めて分かることは、「理性」も「意欲」も「志」も大事だが、人が生きる上で大事な要素は「感情」であると、200年も前に生きたバルザックも分かっていたことだ。第二に昔も今も「社会」というのは卑俗で、皮相的であるという事実だ。この200年間、人間の社会はなにも進歩はせず、変化もせず、卑俗で皮相的であることは同じであるということだ。

自然科学の進歩、科学技術の発展、電報や電話の登場、インターネットとEメールの登場、SNSの登場、etc. etc. と、技術文明は飛躍的に進歩したが、その進歩が人間生活をどの程度進化させたかとなると、人間がやってきたことは同じである。シュンペーターが着目したイノベーションは社会の皮相性や卑俗性に新しいツールを与えてきた、ただそれだけのことであった。この事実が分かるではないか。

これが一つ。

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作品本体も面白いが、巻末の解説や座談会がまた面白い。

N: ネ。一生見られないわけヨ。ほとんどが。世の中をありのままで見ることから、いろんなことが始まるという感覚こそ、私は大人というものだと思うんです。人間に対していたずらに変な夢やファンタジーを追ったりするのは、チャイルディッシュ(≒幼稚)。
K: ヴォートランなんて、これはおおいに日本で人気が出てほしいと思っている。日本の「やおい」ですか、ああいうホモセクシュアル漫画の伝統があるんだから、これからはヴォートラン・ファンの女の子が出てくるんじゃないかって期待しているんですが、ただ冷静に考えると、「やおい」とヴォートランは全然違う。
(中略)
N: だって多くの女の子たちは世の中をありのままに見るというところから生まれたキャラクターよりも、見たくないというところから生まれたキャラクターのほうが好きなわけだから。

実に、リアリズムに徹した会話が繰り広げられていて、二人の話し手が共有しているこの「大人の感覚」はバルザックにも負けていない。バルザックに馬鹿にされない。いまもバルザックを典型的フランス文学として愛する現代フランス人にも馬鹿にされずにすむ……、そう感じた次第。

ただ…、この「物事をありのままにみる」というリアリズム。日本語で「写実主義」、「現実主義」と訳してしまうと、固有の臭いがついてしまうが、この実践が実は本当に難しい。

「現実主義者」といえば、物事を割り切って目的が利益であれば、利益のためにはどんな非人間的な手段もあえて選ぶ、そんな人間像になるが、こんな人間がもしいれば、その人はリアリストではなくて、単なる冷酷なエゴイストに過ぎない。

この世で成功するには、例外なく「リアリスト」でなければならない。小生は言葉の定義からそう結論している。なぜなら人間社会の中で何かを為すには、それが志であれ、理想であれ、世間で働いている現実の力を使うしか成し遂げられる方法がないからである。

物事をありのままに見られず、自分が観たいようにしか世の中を見られない人は、要するに「幼稚」であり、「チャイルディッシュ」である。故に、成功するためには人は「大人」にならなければならない。フランス人は、大人の会話ができない「未熟」な人間をバカにする。バルザックを好む所以である。

こんなリアリスト志向の趣味は、フランス物だけではなく、イギリス小説からも感じ取ることができる ― ドイツ物、ロシア物はまた雰囲気が違っていて、だからこそ日本人の間でも好き嫌いが分かれるのだろうが。

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それにしても、若いころの読書って、「一体どこをどう読んでいたんだ」と言いたくなるほどに浅い読書であったことを、今になって痛感する。その昔、感動した箇所だけは記憶しているが、なぜ感動したかがもう分からない。

「読解力」の不十分さは、半世紀も前から進行中ではないのだろうか?だとすると、入試センター試験の出題方式を変えるくらいでは「焼け石に水」だろう。もっと根源的な要因が働いているのだろう。


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