2020年1月27日月曜日

覚え書: (又々)社会と幸福の関係について

初稿で長々と書いてアップしたが、読み返してみるとどうもまだ話が整理されていない。なので、どうしても書いておきたい要点だけにしぼって余計な部分を削除して覚え書にした。

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自由な結婚や家族の形成、発展が認められない奴隷を別にすれば、やはり人は「家族」という血縁に基づきながら共同で幸福を追求してきた。家族で幸福や不幸をともにするという意識が日常生活の基盤にあった。歴史的事実としてはそう概括しておこう。

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戦後日本では基本的人権が尊重されるようになった。親族・血族の意識は薄まり、数人の核家族が独立して幸福を求めるようになった。

いまは男女共同参画の時代である。国がそう言っている。「家庭」の中の夫、妻、子供は、一人一人が独立して日本国の平等な一員として処遇されるようになった。

そして、多様性が認められる社会の中で「多様な家族」のあり方が認められようとしている。戦後日本の「核家族」がどう変容していくのか、小生には分からない。

が、人が幸福を求める基盤は「家族」であるという意識がまだ残っているからこそ、上のような新しい方向が出てきているのだろう。

しかし、「社会」の中で「家族」が担うべき機能については意見の違いが大きい。この点については前にも投稿したことがある。

実際、小生だけかもしれないが、幸福のために家族が助け合うのではなく日本国が日本人の幸福に責任があると認識される時代がいつの間にか来てしまった……、そんな風に感じることも増えてきたのだ。

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話題は変わるが、夏目漱石は『三四郎』の中で「いくら日露戦争に勝って一等国になっても駄目ですね」と広田先生に云わせている。「まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない』と云わせている。『然しこれからは日本も段々発展するでせう』と反問する三四郎に、先生は『亡びるね』と応えさせている。作品が書かれたのは明治41年9月。昭和20年に明治日本が敗亡する37年前である。

社会や国はそれ自体として「幸福」を感じることは決してない。感じ取る器官もなく、能力がないのだ。

国や社会は実存するリアルな存在ですらもない。それらは「法制度」に過ぎないか、制度に基づき意識の中で抽象化された言葉に過ぎない。故に、国や社会は幸福とは別の目的を戦略的に設定するのである。というより、人の幸福以外の目的を設定するために社会や国が造られた。こう言ってもよい。このことは何度も書いてきた。

故に、自分自身の幸福の実現を社会や国や政府に任せるという選択は論理的にはありえない。社会や国に対してそういう非条理な姿勢で向き合い疑うことを知らない国民は亡びる、と。小生は上の漱石の考えをそう読みとっている。

ちなみに上で述べたことから、社会主義や福祉国家に対する根源的な疑いを小生は抱くようになったのだが、それはまた別の機会に。

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人はなぜ子を作るのだろう。

色々な見方がある。が、ここで社会的意義や倫理的価値を持ち出すのは、説明されるべき人間が人間的価値を用いて自らを語ることになり、これでは本末転倒である。自然史の中で人間の行動は説明されなければならない。

とすれば、「人が子を作るのは自分(たち)のためである」という見方になるのは自明だろう。

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子をつくらなくとも社会が自分自身の幸福を保障してくれるのであれば、そもそも自分のために子をつくる必要は必ずしもないという理屈になる。

「人の幸福に社会が責任をもつ」という議論から「あなたは子供をつくらなくともよい」という議論が出てくるのはロジカルだ。「法の前の平等」を根拠に「全ての日本人は子供をつくらなくともよい」という議論が展開されても、小生はまったく驚かない。

しかし、幸福のために「家族」がほしいという意識はまだ残っている。

本当は、二つの意識は両立しないのである。もし両立しない意識が浸透していくとすれば非合理だ。その非合理は、(よく分からないが)何か非合理な政策が日本人の意識に影響を与えている可能性がある。

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