2020年7月18日土曜日

前稿の補足: 永井荷風の倫理観の現代性について

前稿では永井荷風の文明批評について触れた。

文明批評を述べるというのは、その人自身が一定の倫理観を持っていない限り、絶対に不可能なことである。

この点を補足しておきたい:

夏目漱石という作家の特徴としてその厳しい倫理観がよく言われる。なるほど、『こゝろ』や『道草』には漱石という人間がもっている厳しさがにじみ出ている。その厳しさは、自分自身に対して向けられるものであるが、小生はどちらかと言うと、他者を責める厳しさの方が勝っているのではないかと感じる時がある。初期の『坊ちゃん』などは他罰的傾向が如実に出ていると思うわけで、これも人間・漱石の本音ではないかと思っている。

荷風は、他人を責める所は希薄である。若い時分から遊蕩に明け暮れた生活振りに倫理感のかけらも窺えないという人もいると思う。しかし、荷風から独特の倫理観を感じとるときは多い。
正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実が却って沢山に摘み集められる。
こんな啖呵をきるとき、荷風は誰よりも「偽善的虚栄心」や「公明な社会の詐欺的活動」に対する義憤を伝えようとしているわけである。

21世紀も20年が過ぎた現代日本で、普通の日本人がより多くの共感を感じられるのは、漱石の厳しい倫理観よりは、「正義」が隠し持っている利己的な攻撃性への怒りの方ではあるまいか。それだけ、明治から昭和初期にかけて日本人は堕落したということである。これも荷風が言うように「資本主義」の害毒というものかもしれない。確かに、資本主義は社会全体を間違いなく平均的に豊かにしたが、それが垂れ流す害毒もまた甚だしかった点を、荷風は文明批評として指摘しているわけだ。

自分自身だけではなく他人をも責める漱石の他罰的傾向は、ひょっとすると親に捨てられた実体験に因るものかもしれない。他人を責めることが少なく自分を責めることが多い荷風の倫理観は、親を失望させ続けて成長した自分の自画像から由来するものかもしれない。

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