2020年7月19日日曜日

断想:濁れる水の流れつつ澄む

前々稿ではこんな事を書いている:

ずっと自分は親にとって「よい子」であったと思い込んでいたところが、齢をとって時間が出来てきて、また自分の子供が成長して親の心持がわかるようになってから、実は自分がいかに「悪い子」であり、親を失望させてきたかという剥き出しの事実が、一つまた一つと、ページをめくるように思い出されてくるのは、若い時分には考えてもいなかった心理的な重荷になるものである。
齢をとると悪い夢をみることが増えるのは主にそのためだと憶測している。

今朝も夢をみたが、夏によくある(?)悪い夢ではなかった。誰かが『捨てればいい』という。『捨てろ』という。『捨ててしまえばそれでいい』という。

重荷に心悩ませるのは「煩悩」であるに違いない。それは「執着」である。悩むことは「誠実」の証ではない。

矢内原伊作の『海』が頭に残っているのが、ふと表面に浮かび上がり、夢の形になったのだろうか。

「水」のようであれ、と。時に、泥や塵芥を飲み込み、濁流になるとしても、水そのものは常に透明で清浄である。水は、全てを流し去り、滞ることがない。鏡のような水面に何が落ちてきても、それをただ受け入れるだけである。受け入れた物に自らが染まることはない。こういうことなのか、と。目覚めてから想った。

もう何年も前になるが函館で買った短冊を部屋の片隅に掲げている。

濁れる水の 流れつゝ澄む

山頭火である。何年も、視ようと思ってみたことはなかったが、無意識の底に残っていたのだろうか。

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