2020年7月28日火曜日

「安楽死」の議論を避けたがる「世論」

今日の標題にある「安楽死」と「世論」とは、そもそも馴染みにくいキーワードかもしれない。というのは、「安楽死」を望むような状態におちいる人は、国民という母集団の中では無視可能とも言えるほどに僅かであると思われるからだ。誰でも自分とはホボ無関係の論題について、現実的な感覚をもって意見を形成するのは無理である。

共感や想像力を通して感じるしかないが、想像することと現実にそうなることとは、まったく違うのが常である。なので、世論が参考になるのは、極めて日常的な問題に限られる。小生はそう思っている。

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石原慎太郎氏が、先日発生した「ALS患者に対する二人の医師による嘱託殺人事件」について、それが「武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯」であるとツイートしたというので論議を呼んでいるようだ。

こんな事柄はそもそも「多数決」で決められるものではないし、世論がどんな議論をするかについても、上にあげた世論との相性を考えると、ほとんど無意味であると感じる。

ただ、カミさんと話をするとき、『もう助からなくなって、何もできなくなる、周りの人に厄介ばかりかけるようになる、そんな運命ならもう生きていたくないかもねえ、私も楽になりたいなあ」と話す時がある。そんな時、「そんなに早くいなくなったら俺が淋しすぎるだろ」と応えるのだが、「早く楽にして」と何度も言われると仮定すれば、「それでも生きるのが君の義務だよ」とは言わないだろう。ま、どちらにしても想像の世界であり、現実にそうなればどんな事を考え、どんなことを話すかは分からない。

おそらく国会議員、裁判官、弁護士など法律専門家、医療関係者等々、関連する専門家も、私的には、あるいはそれぞれの家族との会話の中では、「安楽死」について話すことがあるのではないかと「想像」する。その談論の中では、おそらく小生とカミさんとの雑談のように、「楽になりたいと思ったときは楽にしてくれる?」と顔をのぞきこむようにして聞かれる人もいるのだと思う。そして聞かれた人は「そうだなあ・・・」と多分口をとざす。「分かったよ」とも言わず、「どうなっても最後まで生きるのが人間の義務だよ」とも言わない。「そのときにならないと分からないよ」とでも答えるだろう。

しかし「その時になってから決めるよ」という返答自体、「僕の気持じゃなく、君の気持を大事にするよ」ということを意味しているのだ。

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有権者の顔色をうかがう民主的政治家ならば、意見が分かれるような問題には首を突っ込まないものだ。特に、建前として「正答」が定まっている問題に対して、建前の正統性を懐疑するような発言をするのは極めて政治的リスクが大きい。リスクは敢えて負担しないのが私的な意味では「賢明」である。

であるにも関わらず、ヨーロッパの複数の国、アメリカの複数の州で「他人による積極的安楽死を法律で容認」するという例が特に2000年以降に増えてきている(Wiki)。キリスト教の信仰に立脚すれば、神から与えられた生命を自他を問わず人間の判断で積極的に奪うのは、「殺人」であって誤りである。宗教的原則が確固たる伝統として存続してきたからこそ、それに対する「積極的懐疑」もまた世論の中で意義を見つけやすいのかもしれない。どれだけ疑っても、どれだけ否定しても、宗教的伝統が全面的に瓦解して、社会がバラバラになるという不安はないのかもしれない。

だとすると、日本とは国情が違う。日本は、わずか75年前までは「御国」のために命を捧げることは名誉であり、道徳的義務であると、そんな社会的通念が人を支配してきた国である。戦後日本はそんな道徳観を全面的に否定するという「180度の方向転換」から出発して成功してきた。ちょうど大韓民国が反日建国からスタートしたのと相似形である。戦後日本が失敗したならまた話は別だが、現時点では明治日本よりも一層成功し、日本人は一層豊かになっている。その戦後日本の根本理念を積極的に疑うような発言は、とりも直さずその社会で評価されているエスタブリッシュメント達にはまず出来ないことだろう。戦前の日本であったら、あるいはまだ未来が定まらず、戦前期の理念の残り火があった高度成長期以前の日本であれば、「安楽死」をどう法制化すればよいか、議論が可能であったかもしれない。

本来は、公認の見解を示すことが機能の一つである「国会」(決して行政府ではない)が今回のような積極的な「安楽死」についても「公論」を展開し、立法化は不可能としても「覚え書き」や「基本的考え方」くらいはまとめておくべきなのだ。その道義的義務を果たさずにいるのは、議員誰一人にとっても得ではなく、リスクばかりが高すぎる問題であるからだ。そう思われるのだ、な。国会に対する《審議の請願》を可能にする制度が望まれる国の中に日本は含まれるに違いない。

今回の事件と同種の事件は、公的な指針が一切示されないままに、個々人の願望に誰かが応える形で、いつか将来再び発生するのではないだろうか?

それにしても、人間の生命の尊厳さがこれほど繊細な問題である日本において、いまだに刑罰としての「死刑」を結構「頻繁に」宣告しているという日本の刑事裁判の現状も小生には不可思議、というか辻褄が合わず矛盾しているように思われるのだが、これはまた別の機会に。

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