2020年7月8日水曜日

追加メモ: モーツアルトのト短調に関連して

この前の投稿でこんなことを書いている:

モーツアルトの何曲かは若い時分から聴いてきたし、先日投稿したようにYoutubeやAmazonのプライム・ミュージックのお陰で最近になって初めて知った曲も小生の愛聴リストに新たに追加された。ベートーベンを聴く機会はずいぶん減っているのだが、たとえモーツアルトが長命していたとしても、これは作れなかったのではないかと思ってきたのは、ベートーベンの第3番『エロイカ』である。

しかし、2、3日前にモーツアルトの40番ト短調を聴いていて、その第4楽章の展開部にさしかかったとき、どれだけこの曲が時代を突き抜けていたか、これまで覚えた事のない驚きを感じた。ともすればモーツアルトの交響曲は得意分野とされるオペラやピアノ協奏曲に比較すると内容空疎であると評されることも多いようだが、とんでもない。第1楽章から第4楽章までの全体をみるとき、凝縮されたトンデモなさという点において、40番ト短調は『エロイカ』を上回っている。突然だが、そう思った。

わざわざ素人の小生が書かなくとも、色々な評論を読むと以前からこんな風な解釈はあったようだ。門外漢は車輪を発明するの愚を犯すものである。

実は、モーツアルトの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」、今でいう「ヴァイオリンソナタ」だが、その中の例えば25番(K.301)を聴くときにはシューベルトを思い出す。ヴァイオリン協奏曲の第3番を聴くときには、メンデルスゾーンの有名なV.C.の最初の草稿ではないかと感じるときがある。 オペラ『ドン・ジョバンニ』からヴェルディを連想する人は結構多いのではないかと思う(そもそも台詞がイタリア語でもあるし)。ブラームスは自ら「新古典派」と位置付けていたくらいだから、個性は個性として、モーツアルトの未来形、というか応用例だと思って聴くと一層面白い。ヨハン・シュトラウスのウィンナ・ワルツなどは多分モーツアルトが19世紀後半に生きていれば多分作ったのではないかと思うような楽曲だ。音楽教科書のティピカルな説明では「モーツアルトは古典派音楽の完成者」、ベートーベンは「古典派音楽の完成者であるとともにロマン派への橋渡し」という言い方がされることが多いが、教科書は教科書、ものも言いよう、いかようにも言えるという典型例だと小生は勝手に思っている。

ただ、「これはモーツアルトが長命していても作らなかったかも」と思う音楽もある。例えば、ブルックナーの8番や9番を聴くと「やっぱり100年後の音楽だなあ」と思う。マーラーを聴いてもそうだ。耳に入りやすい1番や4番も、モーツアルトがもっている耳に入りやすさとは響きも違うし、感性も違う。同じ聴き方だと、心の中に入ってこないが、聴き方を変えると「ウンウン、これだよ、いいなあ」となる。もっと異なるのは、やはりドビュッシーだ。確実に美しいが、その美しさはモーツアルトが表現した美とは形式が違う。違っているのだが、やはり血が通い、音楽が生きている。ドビュッシーはもう一人の天才だと小生は思っている。

その境界線にいるのは、やはり専門家が言うようにワーグナーがいるのだろう。

ワーグナーの楽劇を通して鑑賞したことは一度もない。ハイライトで聴いたことがあるものすら少ない。マタチッチかショルティを聴いた程度だから何かを言うことはできない。が、「何でもそこにはある」という感覚は残っている。金閣寺が大阪城になったようで、規模雄大という形容が当てはまる。

ロシア物はほとんど聴かない。プロコフィエフもショスタコービッチともほぼ無縁である。チャイコフスキーのV.C.は亡くなった母が好きで、小生もこの曲からクラシックに慣れていったのだが、最近は聴かなくなった。ずっと以前、JICAの要務でウズベキスタンに往ったとき、フランクフルトで乗り換えてタシケントに向かう間、6時間ほどずっとイヤホンから流れるこのヴァイオリン・コンチェルトを何度も何度も飽きずに反復して聴き続けた。このウズベキスタン往来を境にチャイコフスキーは卒業したかのように聴かなくなった。諏訪内さんの演奏を聴いてもあまり感じなくなった。一生分の飽和密度に達して、聴き終えてしまった感があるのかもしれない。

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