最近になって増えているのは水害ばかりではない。母親、あるいは父親を含めた両親による育児放棄によって乳幼児が死亡するという傷ましい事件もまた最近になって増えている印象がある。小生が若かった時分には育児放棄による乳幼児の死亡が高頻度で報道されることはなかったと思う。
これは日本人の人間性が変わりつつあることを示唆しているのだろうか。
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育児放棄が報道されると、世間、具体的には「世間」を伝える(?)ワイドショーということになるかもしれないが、まずは保護者たる親の無責任を非難するのが常である。児童相談所を含めた制度面の不十分さを指摘する声も出てくる。
集約すると、育児放棄の頻発を社会問題ととらえ(これ自体は当たり前だ)、当人の「無責任」と、全ての社会問題を解決するべき責任を有している「政府」の手ぬるさを責める。この二本柱で世間の議論は展開している。そんな総括になるのではないか。
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モラルから議論を始め、最後には法律論で締めくくるのは、政経・倫社という高校・社会科の演習問題としては及第圏だろうが、実のところ、議論ばかりが盛り上がる一方で問題は何も解決されないのではないか。同種の問題の発生頻度は上がる一方なのではないか。そのうちに、解決能力の限界を超えて行き詰るのではないか。そんな予感もするのだ。
なぜ、行動学の見地から考える人が注目されないのだろう。「育児放棄」という現象は、動物行動学、比較行動学の分析テーマになるのじゃあないか。
一般に哺乳類動物は、どのような環境において、いかなる条件の下で、自分の子の育児を放棄する行動をとるのか。
特に、人類に近い霊長類において育児放棄現象の発生頻度が高まる状態とはどのような状態なのか。
家族や社会を構成して生きる動物で「子殺し」が観察されるのはどのような状況の下であるのか。増加するのはどのような条件においてか。
鳥類においても、親が抱卵を中止する行為をとることがある。それはどのような問題が生じたときにそうするのか。
人間社会に限定するとしても、日本で発生している育児放棄行動と類似した行動が頻見されるのはどのような地域、国であるのか。
このような観点にたつときに、問題発生の構造と本質的な原因を正確に洞察することが可能になるだろう。
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親が生きていれば子はまたつくれるが、親が死ねば子も死んでしまう。この冷厳なロジックが、生存競争の中で生きているあらゆる種の動物にとって、合理的行動を選ばせる真の動機になるとすれば極めて自然な事だ。
『恒産ありて恒心あり』。社会問題をモラルや法といった上部構造的視点からではなく、唯物論的視点から分析するべきだというのは、なにもマルクスに限ったことではない。
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