新型コロナウイルスに限らず感染症の拡大防止で結果を出すためには、公衆衛生の観点から最も効率的である手段をとるのが最善だ。ただ、これを断行するのは実は難しい話なのだ。感染する人は何も法的な意味で悪いことをしたわけではない。人権は尊重されるのが民主主義社会の根本だ。しかし、感染者を先手必勝で発見し、社会から全て隔離/追跡可能にすることが、感染の抑え込みには最も効率的なのである。
中国はそれが出来たが、民主主義に価値を置く日米欧などはそれが出来ずにいる。中国には出来ることも、日本はやる必要がないのだ、出来ないのだという話をずっとしている。
しかし、感染が拡大しつつある中で、全員が自粛をすることにより、社会の最も弱い人たちには堪えがたい苦痛を強制する。ある人は自ら死を選ぶ。その犠牲も「民主主義」を守るためだという理屈は、小生はもはや理屈ではなく、不作為の罪であるように見える。
「感染症対策」という問題解決は、選挙によって選ばれ民意をおそれる政治家ではなく、選挙とは無縁の官僚組織に委ねて粛々と進めるのが、国民には最善であると感じるようになってきた。任期を区切って政治家ではない職業専門家に権限を付与し(つまりは官僚の一員となるが)、身分を保証したうえで、感染対策の指揮権限を委ねるのが「感染防止」という課題の解決には最適であろう。人権尊重という別の目標には別の政策をもって割り当てるのが本筋だ。
確かに中国政府は権威主義的で、中国には複数政党も普通選挙もないが、それでも感染防止政策に国民の不満が高じている傾向は全体としては観察できないようである。『それ自体が問題だ』と語るよりは、『それは素晴らしい』と思う方が、自然な見方であろう。もう経験的事実として認めるべきではないだろうか?
今回は、ワクチン開発が成功しそうなのでそうはならないと思うが、「自粛」か「経済」かという不毛の迷走をあと1年も続ければ、『我々はどこか間違ったことをしているのじゃあないか?』と、誰もが疑問を口にするようになるだろう。
「民主主義」というのは、ソーシャル・マネジメントのツールであって、それ自体に普遍的価値があるとは小生には思われない。腐敗する社会は体制はどうであれ腐敗する。問題解決能力の有無は政治体制とは関係がない。この点はずっと前に投稿している。感染症対策という問題は、民主主義社会には苦手分野なのである。ミルグロム=ロバーツの『組織の経済学』の冒頭でも叙述されているように、分権的な市場メカニズムにも苦手な問題があり、それらは中央集権的な組織的意思決定に解決をゆだねる方がよい。このロジックと同じである。それを今回経験できたことは何かの参考になるだろう。
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