2020年11月4日水曜日

ホンノ一言: 『守れ、守れ』をあと何年言い続けるのだろう?

『守れ、守れ』と声をあげる方が負けて、『倒せ、倒せ』という側が勝つのは浮世のならいである。

 行政手続きにおける押印廃止方針は、もはや「〇〇廃止運動」のような観を呈している。ご時勢といえばご時勢だが、こんな世間になるとは前もっては予測しがたいものだ。

が、マア公平かつ客観的にいえば、署名ならいざ知らず、署名押印の押印は無駄であろうという例は無数にある。これ自体は誰もが認める事実だろう。ずっと昔、小生の上司が『今朝は新聞を読み終えた印に判を押してきたよ』、『エッ、ホントですか?』と、そんな戯れのような話をしたものだ。よろず押印をもって公的手続きの基本に位置づけている国家といえば、(調べてみたわけではないが)日本の他にどこがあるだろう?

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ところが旗を振っている河野行政改革担当相に対して猛反発している地域もある。印鑑が地元の名産になっている山梨県などは代表格である。河野大臣がネットで何かを言えば、知事自らが『嫌悪感を催す』などと語っているくらいだ。

どうも4年前のアメリカにトランプ大統領が登場してからというもの、政治家の言葉が口汚くなり、自己利益を臆面もなく主張することや感情を抑制できないことなど、本来は恥ずかしいことを、なんと政治家までが恥ずかしいと思わなくなってきた傾向がある。

政治家が庶民の真ん中に居て神輿に乗っているようでは、単に担がれているだけの存在である。誰でもよい理屈だ。「神輿は軽くてバカがいい」と言った重鎮政治家もいた。真ん中でみこしに乗るのではなく、庶民の前に出て将来を見通すくらいのことはする義務があるだろう。とすれば、庶民が下品になり(大半の庶民は下品になっていないと感じるが)、感情を抑えなくなっても(庶民の多くは感情を抑え礼儀を守っていると感じているが)、政治家がそれを真似してはいかんだろうと思うのだが、カンナ屑のようにペラペラとその時々の風にあおられる御仁が政治や行政をやっていたりするのが今のご時世である。

山梨県の人たちの地場産業を守るために日本国の制度をどうするかを決めるというのは、ちょっとついていけんナア、と。そう感じるのは、小生だけではないような気がする。

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どこもかしこも『守れ、守れ』の掛け声ばかりだ。一体、いつまで守ればいいのだろう?何もかも守らなければならないのだろうか?そんなに守るのが大事なら、新生児の名前で「守」とか「護」が多いはずだろう。しかしよく目にするのは「翔」や「大」の字で、日本人の多くが何かを守るのに必死であるという雰囲気ではない。むしろ大きく飛躍をしたいという心情が子供の名前にも表れている。

「これが育ってきた、あれも育てたい」と、そんな風な声がたまには出て来てもバチは当たらんだろう。

このくらいは、バッサリと言ってほしいネエ。たとえ"Politically Wrong"であるとしても。「言っちゃえ、〇さん」と煽りたいところだ。


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