日本国民4千万人の『GOTOフィーバー』も新型コロナ感染者の急増をもたらした「主因」であるとの疑いをうけ、そうなるとTV各局も飛びつくわけで、「検証」も「エビデンス」もないままに、とりあえず見直し、ということになった。この間の騒動振りは、「新型」だから正体が視えないという事情は分からないでもないが、誠に非合理かつ無様で、みっともなかったと思う。今になって「本当にGOTOトラベルが感染者急増の主たる要因だったのか?それはおかしい』という指摘が色々な所から出て来ているようだ。これまたバブル現象のあとによく見られる "aftermath"、 "hangover"というものだろう。
ともかく12月中旬頃にならなければ、今回の「一時見直し」で社会状況はどうなっているか?シミュレーションも見通しもまったくない、正に急な方針転換だったので、分からない。
感染対策。いまの陣容、いまの戦略でいいの?
そう思う人はこれから急増するかもしれない。
新型コロナの感染急増と感染対策の参謀チームに不信を感じる人の急増と、どちらが速く増えるかだネエ・・・おおっと、ワクチンもあった。ワクチンの普及が速いか?この三つの競争だわね。
上の三つの競争でどれが勝つか?賭けようかという人も、今後、非常に増えてくるかもしれない。この混乱の果てに、来年夏に東京五輪が予定されている。
戦前期1940年には日本側の都合で東京五輪を辞退した。
つくづく「東京」って都市はオリンピックとは相性が良くないんだネエと、そう思う。
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近ごろ、この1年のモーツアルト偏向から少し離れてブラームスをまた聴くようになった。といっても、シンフォニーの4番だけを何度も聴いている。
村上春樹と小澤征爾の対談が『小澤征爾さんと音楽について話をする』という本になっている。その中にこんな下りがあるのでメモっておこう。119ページである。
村上: しかし耳で聴く音の印象は、ベートーヴェンとブラームスとではずいぶん違っていますよね。
小沢: 違いますねえ。(しばし間がある)……あのね、ベートーヴェンもね、9番で違ってくるんです。9番にいくまでは、そのオーケストレーションにはずいぶん制限があったんです。
村上: 僕の印象からすると、ブラームスの場合、楽器編成にそんなに変わりがなくとも、ベートーヴェンの音に比べて、音と音の間にもうひとつ音が入ってくるような、一段階濃密になっているような感じがあるんです。だからベートーヴェンの方がそのぶん、より音楽のストラクチャーが見えやすいというか……
小沢: もちろんそうです。ベートーヴェンの方が、管楽器と弦楽器との対話なんかが見えやすくなっているんです。ブラームスの場合になると、それを混ぜて音色を作っていく、ということです。
話しはブラームスの第1番なのだが、こんな会話をしているのをずっと覚えていた。
少し前に、初雪が降って冬の風景になった。それで何となく、ブラームスの4番を聴く気分になったのだな。そうしたところ、これまで気がつかなかった程の芳醇な響きの重層的な構造が伝わってきて、「これはすごい」と見直した。それまでブラームスの4番といえば、甘ったるい憂愁がブツブツと語られているような晩年の心情ばかりを感じてしまって、それよりは第1番の毅然とした、それでいてベートーヴェンとは明らかに違う曲想を佳しとしていたのだ。確かにブラームスのシンフォニーは音がもう一つ入っている。
モーツアルトの39番より上だと感じた。とはいえ、40番よりは下。41番の完璧さにはかなわない。順序付けるとすれば、こんなことを考えているが、改めて気がつくのは音楽が琴線に触れるとき、必ずしも「美しい」から感動するわけではないということだ。音楽が単なる音の構築物であることを超えて、そこに血が通っている、作った人の心が表現されていて、それが自分の心に触れてくる、そんな感覚なのだな。
数学者・藤原正彦が述べていたが、人は美しい風景をみてもそれだけでは感動はしない、その風景をみて誰かを想ってはじめて感動するのである、というのが本筋をついているのだろう。多くの場合、誰かを想うとき、その誰かの涙や喜悦を想うのである。人は人の涙をみて初めて心が動かされる。
やはりそんなものかと思った。
美しいだけではダメなのだ。真理であるということだけでもダメだ。善いということだけでもダメなのだ。では「ダメでない」というのは、どういうことなのか?それはまた改めて書こう。
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