2020年11月11日水曜日

一言メモ: 「世界の潮流」は学問世界ではどうでもよいことだ

 特に人文系、社会系の専門家に多く見られるのだが、

〇〇の問題については、▲▲のように考えるのが世界の潮流

というパターンで、「〇〇については▲▲と結論するべきである」と見解を述べる人が多い。

小生がまだ若かった頃は、理論経済学者が『大事な事は紙と鉛筆(そして頭脳と想像力?)で分かる」と豪語していた時代であって、理論こそが学問の本流としてリスペクトされていた。そんな時代に、敢えてその理論が現実に合致しているかどうかをデータに基づいて検証しようとする計量経済学は文字通りの「傍流」であった。そもそもの出発点から「主流派嫌い」であった小生の感覚では、『いまは▲▲と考えるのが世界の潮流」と語るような思考パターンが好きであるはずがないのだ、な。

そればかりではなく、『これこれが世界の潮流」と語ること自体、その学問分野は「科学」ではない証拠であると考えている。

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コペルニクスは、天動説が「世界の潮流」であった時代に、実は地動説がデータを簡明に説明できることに気がついた。気がつきはしたが、それを出版することはしなかった。ところがガリレオ・ガリレイは公開の場で地動説を支持したことから、ローマ教会に反することになり、「世界の潮流」からみれば「異端児」として処遇されることになった。

20世紀になってロシアのレーニンは「世界の潮流」が資本主義である時代に、経済後進国であるロシアで社会主義経済の実験をした。それも社会主義が最先端の思想であり「これからの世界の潮流」であると考えていたからだ。・・・その失敗は74年後に表面化してソビエト連邦は瓦解した。

何が「潮流」であるかということと、何が現実を説明する正しい理論であるかということとは、まったく別の問題である。

データを説明できる仮説は複数あるが、データを説明できない理論は嘘に決まっている。これだけは言える。「潮流」であるかどうかは、どうでもよいことだ。

だから、『こう考えるのが現在の世界の潮流です』と、堂々と語る人物は学問とは縁のない人。よく言えば、思想家、宗教家、政治家ということになるだろうが、要するに自らが信じている価値をただ主張している人である。ま、主張すること自体は自由であるから、現代はよい時代なのだ ― 主張だけで止めるべきであって、政治行動をして、特定の価値感を公衆に押し付ければ非民主主義的な抑圧になるので、要注意人物でもある。

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。それが「社会の潮流」である。分かりやすくいえば「世間の受け止め方」である。従順な人は「社会の潮流」に従うだろうし、反骨心あふれる人は「誰かの信念」に共感して、「これからの潮流」を主張しようとする。それだけのことである。真理を探究する科学者ではない。

なぜ「▲▲と考えるのが世界の潮流です」という表現を好む人がいるのだろうか?その理由は、(特に日本では??)「民主主義は善いことだ」という価値観が広く浸透しているからだと思われる。学問世界では現実と合致した理論であるのか否かだけが重要なのであるが、「民主主義」という価値観をコッソリとしのばせることで、「潮流=支持者が多い」つまり民主主義的観点に立っても「▲▲と考えるのが正しい」と。そう言いたい。そんな思考法だと、小生は勝手に解釈している。科学とも、広く学問とも、まったく縁のない議論であるのは勿論だ。

民主主義が、客観的かつ科学的な意味合いから、本当に支持される考え方なのかどうか?これについてはずっと以前に投稿したことがある。が、このトピックはまた改めて。


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