複数政党の党争が激しい時、制度改革で対立が激化している時、今回のコロナ禍のような「外患」に襲われた時、そして最悪のケースだが外国と戦争をしている時、etc.、誠に有難くはない社会状況は人生と同じで何年ごとに必ずやってくるものである。そして、個人個人の人格や性質は困っている時にこそ露わになるように、その国の国民性や理念とホンネ、長所と短所など、全ては悪い時代にさしかかったときにこそ目に見えて現れてくるものである。
今年の4月20日時点といえば、『暑くなればコロナも一段落するだろう』などという希望的観測があった頃である。その日の投稿にこんなことを書いている。少し長いが引用しておきたい:
ウイルスとの戦いである公衆衛生は国際関係における安全保障と同レベルの重要性をもつ国家戦略の核心的部分だ。その戦いの序盤で医療の最前線は崩壊を起こしかけており、「医療崩壊を避ける」という第一段階の主目的は達成できなかったようだ。
立て直せるか?
(中略)
その頃、医療関係者が話していたことは
無症状、軽症の人にPCR検査をかけて陽性だからって、やることはないんですよ。ワクチンも特効薬もなくて、医者に出来ることはないんです。だから検査に意味はないんです。意味のないPCR検査は絶対するべきでなく、命を救うために意味のある対象に的を絞って検査するのが効率的なんです。
大体、こんな意見だったと記憶している。同じころ、WHOのテドロス事務局長が
Test! Test! Test!
と声明を発した際も、同氏の中国寄りの姿勢に反発していたせいだろうか、日本国内で評判が悪く、「意味のない検査拡大は医療崩壊を招くので絶対反対です」といった意見が世間にはあふれた。ふと後ろをみると「水浸し」になっている情況はこうした風潮から実現したのかもしれない。
検査対象を絞り、検査資源を節約使用しても、医療崩壊は現に起こっている。故に、戦略は失敗である。それは感染者を見逃していたことの必然的結果だ。検査拡大・感染者囲い込み戦略が定石であった。日本で検査対象を絞ったのは、日本国内の検査資源が乏しかったからである。まさにこの点こそ問題の核心であり、日本の弱みであったことをリアルタイムで誰が語っていただろうか。
当時は、限られた検査資源を可能な限り有効に効率使用していこうという戦略であった。そうした「効率検査原理主義」が極論されて『意味のないPCR検査はするべきではないんです』という意見もあったのだろう。
その後も、公衆衛生当局の基本戦略は「クラスターを追跡する」という線で一貫していたようだ。「濃厚接触者」に的をしぼって無駄な検査をしない。これが大事だ、というわけだ。何だか財布の中を心配しながら、買い物をするような健気な昭和の主婦たちを連想してしまう。
日本では、一人の検査陽性者が出たから周辺地域の100万人を一斉検査し、100人余の無症状感染者を発見し隔離するという、そんな中国風「物量作戦」で問題解決をするという行き方はとれないし、またそんな意思もないようである。もしやれば、たまたま見つかった感染者の背後には時に100倍の保菌者がいることも分かるだろうに、と思うのだが。
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日本の医療分野もまた「少数精鋭主義」であったようで、ベッド数はあるといえばあるが、相対的に医師が少なく、マンパワーが限られているという制約がある。その弱点から戦略を発想すれば、大軍を相手にする事態は絶対に避ける。そんな戦略のみが実行可能になる。こういう発想は分野を問わず、日本人共通の性向ではないだろうか。
だから、襲来してくるウイルス量、つまり新規感染者数が想定を超えると医療の最前線がすぐに崩壊する。日本では河川には高い堤防を築いているが、医療分野の堤防はそれほど分厚く、余裕をもって人的資源を育成してきたわけではない — 大陸ではなく島国国家という事情がある。今もまた医療現場の崩壊が心配されるので、『感染者をこれ以上は増やさないでほしい』という要請が出てきた。これが足元の状況だ。
引用した投稿でも
量は質に代替される。高度の技は消耗戦における勝利をもたらさない。高度の技を修得する人間の数は限定的であるので犠牲に耐えられないからだ。これは組織論の基本的な命題だ。
と書いている。日本的なこの状況が短期間で変わるはずもないのだ。
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4月の時点では『二兎を追うべきではない』と書いている。
補給が破綻し、長時間の戦いの中で最前線から消耗し、枝葉が枯れるように順に壊滅していくのは、典型的に日本的な敗北の風景である。言うまでもなく、湖北省以外(後で浙江省も追加されたと記憶しているが)の中国本土から観光客を延々と受け入れ続けたことも、今回の対ウイルス防衛のための戦略としては、まったくの愚策であった。これは政府の戦略目標が対ウイルス防衛だけではなかったことを意味している。
そこでもう一つの教訓:
二兎を追う者は一兎をも得ず
こういうことではないだろうか。
今でも「経済と感染抑止の二兎を追うべきではない』と言えるだろうか?
思うのだが、4月時点から単純に緊急事態状況を延長していれば、おそらく、9月末が近づいた時点でもっと大量の企業が倒産していたであろう。「緊急事態宣言」も実は極めて短期の緊急回避であって、持続可能な体制を整えたわけではない。
ここで言えることは、確かに2月から3月、4月にかけては二兎を追うべきではなかった。感染抑止に集中していれば状況はずいぶん改善されていたはずだ、ということだ。しかし、時間が経過した今はそうではない。最も脆弱なセクターの経済的困窮が明瞭になったとき、それを放置するべきではないことは、当然だ。1990年代に銀行経営の健全性を取り戻すのに必要な不良債権問題の解決に真剣に取り組むことを嫌がり、その優柔不断がついには金融危機を招いた記憶を想えば、それが当然の判断であったことはすぐに分かるはずだ。
足元ではいま感染者が再び増加している。その中で、経済対策の中の柱の一つを見直すことになった。
経済対策の一時停止が感染防止政策になる
というロジックである。経済を犠牲にして感染拡大を防ぐ。二兎は負わないということだ。しかし、やるならもっと早い時点でやるべきであったワナ、と思う。年末が近い、いまやるの、と。
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まあ、背水の陣である。「背水の陣」とは言っても、EUのように政府が潤沢な資金を市場から調達して、いつでも複数のチャンネルから資金支援をする覚悟が本当にあるかどうかは分からない。補正予算だなどと言っているが、これも何だか財布を心配しながらの様子がアリアリだ。いまからもう「財政再建」の必要性を強調したりする人がいる。
待ち受ける問題を先に先にと指摘したがるのは一概に売名行為とばかりは言えまい。日本人は完璧主義なのだ。但し、問題点を列挙することには熱中するのだが、しかしその割には肝心の問題解決が苦手な傾向がある。列挙する問題が多すぎるのである。重点志向が苦手である。選択と集中をおろそかにする。全ての問題に向き合おうとする。戦略的優位を築くための長期戦が特に苦手な遠因もここにある。日本人は長くとも1年程度で勝敗がつく短期殲滅戦が好きである。であれば、好機を逃さず機会主義に徹して短期的利益を積み重ねる一点突破を重視すればよい。しかし、短期戦の積み重ねでは積み残しの問題が残る。周囲はモヤモヤ感を感じたりする。要するに、自分が解決するべき《課題設定・目標設定》が苦手なのだろう。今回の「英断」もいかなる課題を解決するための「意思決定」なのか、関係者の間で合意されているようには思えない。明らかに「緊急」なのだ。
つまりは、緊急に背水の陣を布くという決定だ。
背水の陣を急いで布くと言ったってネエ・・・背水の陣っていうのは別動隊がしっかり動く大作戦でしょ?連携作戦だ。大きなプランでがんすヨ。そんな急いでやるもんなんですかい?
シミュレーションも見通しもない。だから、どうなるかは予断を許さない。そう予想しておいたほうがよい。
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『経済対策を中止することが感染対策になるのは本当か?プラスとマイナスを合計して社会状況は改善されるのは本当か?』という疑問はまさに泉のようにわいてくる。おそらくデータ分析もシミュレーションも見通しも何もない上での決定なのだろう。要するに、これも一種の「緊急事態」なのだ。緊急事態のつもりが、ケリをつけるタイミングを失い、ズルズルと泥沼に陥ってしまった経験はこれまでにも何度かありませんでしたか?
もしそんな風になるなら、これもまた日本人の国民性はあまり変わっていない証だろうと感じる。
しかし、特にマンパワーの面で医療資源が脆弱なのであれば、欧米の何分の1というこの程度の感染者増加によっても、医療現場が逼迫し、経済対策の足が引っ張られる可能性が出てくることは予想しておくべきであった。
マンパワーが不足しているなら、補充可能な物的資源(設備、機器、素材等々)は十分に手当てして医療分野の戦力拡充を行っておくべきであった。この位は、政府(及び都道府県、市町村)に反省を迫ってもバチは当たらないだろう。
日本の政治家は民意や世論調査ばかりを怖れるからダメだ、いっそのこと組織マネジメントに長けた超一流の「民間企業経営者」に全体の指揮をとってもらったらどうかと思うこともある。(アメリカは当てにならないので)中国政府から《新型コロナウイルス感染防止対策顧問》を派遣してもらうよう「緊急要請」するのはどうだろう。今回来日した日中外相会談では「新型コロナ感染にかかわる情報交換、協力」も合意の中に含まれているらしいから。
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