2021年1月11日月曜日

一言メモ: 特措法改正と罰則導入、民主主義の関係は?

 新型コロナ感染拡大で一部の「識者」はヒステリー症状を呈するというか、TVの情報番組でも「情報を提供する」という番組編成目的から離れて、自らの意見を声高に主張するという風景が日常的に放送されている。『公共の電波を使って個人的意見を主張することが許されているというのは誰が許したのか?』という根本的疑問を感じたりもするのだが、まあ、比較的ロジックの通っている意見なら『なるほど、こういう考え方も確かにあるなあ』と学習することもあるので、主観的には許容範囲にあるという感じが続いている。

それはともかく、

「特措法改正」で「罰則」が検討されているわけなのだが、TV画面に登場したりする専門家が『罰則、というかペナルティを検討することも……』などと言いにくそうに話したりする姿をみると、何だか笑ってしまうわけである。

罰則、というかペナルティを・・・

罰則=ペナルティであって、日本語を英語に言い換えただけである。ことほどさように、日本人が自ら処罰の必要性を指摘するのは遠慮らしい、ということでこの辺が国民共通の意識なのだろう。

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民主主義社会は、「民が主」であるが故に、単なる弱肉強食社会にならないためには「法律」が必要であるのは当然の理屈だ。つまり民主主義と法治主義は表裏一体である。

法律は適法な行為と違法な行為を分ける規則である。プラトンが暮らした古代アテネにおいても、法の抜け道を利用して利益を得るのは悪ではないという主張があった。「力は正義なり」という主張はどの社会にもあることだ。違法行為を処罰することの必要性は、法を守るものが結果として損をする事態を避けるためである。法を定める以上、法を守るものが利益を得て、法を破るものが損失を負担するという論理は、平等や人権とは別に、公正(=フェアネス)あるいは正義(=ジャスティス)から導かれる結論である。

故に、公権力が公権として「法」を定める行為は民主主義社会では不可欠の事だが、法を定める以上、法を破る者は処罰しなければならない。これが民主主義社会の基本的なロジックである。

法を破っている者に対しても、そこには惻隠や憐憫の情が示されなければならないと強調するとすれば、それは「情」に訴える感情であって、人治主義の良い点を懐かしむ気持ちから発している言い分である。君主には感情があるが、社会は抽象的な存在であって、実存する感情はないのである。まして「国家」には感情はない。裁判官には確かに感情があり、時に情状を斟酌するのだが、裁判官はあくまで法に縛られるのである。

つまり、法を求めながら処罰を避け、法を破るものには破る者の事情があるに違いないと考えるのは、法治主義の考え方ではなく、名君による人治主義の考え方に近い。民主主義は単に「人民に優しい政治」を目指すものではなく、TVで放映されている坂口安吾『明治開化 安吾捕物帖』でもリンカーンの言葉を活用しているように『人民の人民による人民のための政治』のことである。刑罰を君主が決めるなら非民主主義であるが、人民が決めるのであれば、民主的であるという理屈だ。民主主義社会が時に過酷な社会になるのは君主制と変わるところはない。

日本社会は、どうしても理念型としての「民主主義」に徹底できないところがある。どこがどう徹底できないか、よく分からない部分もあるが、どこかで出来ていない。なぜそう感じるかが分からない。集団主義ゆえに自立精神が未熟なのだろうか?だとすれば、責任意識も未熟である理屈だ。法を尊重する。法に違反した時は処罰を受ける。この辺の覚悟が弱いのかもしれない。しかし、近年の日本社会ではむしろ集団主義の風化、家族の絆の風化が指摘されている。あるいは、有権者から選ばれている政治家の基本姿勢かもしれない。日本の政治家にとってのロール・モデルがいま一つハッキリしないこともある。国家機関の一部として仕事をやり尽くすより「優しい父権社会」の遺制の如く何かを恵みたいという気分を引きずっている、そんな政治家が多いのかもしれない。あるいは、高級官僚の間にいまなお牧民官のような指導者意識が残っているのかもしれない。とすれば、指示はするが処罰は避けたいと発想するだろう。逆の意味で、戦前期の軍国主義のトラウマから反・官僚、反・政府というイデオロギーが好き・嫌いを超えるほどの力を持っているのかもしれない。

つまり、分からない。分からないのだが、日本の民主主義は脆弱である。健全ではない。かなり以前から、小生、そんな風に感じることが多い。日本には日本のリアルな民主主義は確かにあると思うが、それは欧米がいう「民主主義」とは相当違っているようだ。

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