2021年1月24日日曜日

一言メモ: そんなに「法改正」が重要なのでございますか?

 新型コロナに対応するための法改正が、法整備と称して国会の場で審議される予定だ。TVのワイドショーは「罰則導入」がいいのか、悪いのかで、持ちきりだ。これからは「ワクチン」と「罰則」で視聴率がとれるのだろう。

まあ、これまで外国よりはずっとノンビリと対処してきたことのツケであるとも言えそうだし、アタフタという印象もある。

現実が先に進行して、後付けの理屈で法を整えるのは、日本の得意とする政治戦略である。

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どちらにしても、知事による時短要請、営業自粛が緊急事態宣言によらずに実行されてきた現実があるので、今さら「私権制限」などと言われても、「既に法的根拠なくしてやっているではないか」と言いたくもなる。

政府が新たに設ける『まん延防止等重点措置』なるものは、政府による「緊急事態宣言」がなくとも、知事の権限として時短要請などを可能とするものだ。これまで実際ベースでやってきたこととツジツマを合わせる窮余の一策であるのは、もう「見え見え」である。

『三人寄れば文殊の知恵』と言われるが、政府部内には有能な人材が多かろうに、むしろ「バカ」じゃないかと感じるほど、愚かしく、やっていることの底が割れているのは、一体どうしたことだろう、というのが正直な感想である、な。

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大体、法の条文をどんな文章にするかという問題はあまり日本では意味がない。

更に言えば、憲法の条文をどう改正するかとか、護憲を貫くとか、そんな問題も日本では意味がないと小生は思っている。

大体、考えてみるがいい。

戦前の明治憲法は、典型的な君主制で欽定憲法であった。天皇は国家元首であり「神聖にして侵すべからざる」存在であった。天皇は帝国陸海軍を統帥する大元帥でもあった。しかし、1930年代の陸軍首脳は、天皇の意志とはまったく反しながら、行動をし続けた。1931年の満州事変の際には、朝鮮軍司令官である林銑十郎が天皇による命令(奉勅命令)を受けずして、国境を越えて軍を動かした。しかも、処分はされず、1937年には総理大臣にもなるという無法図ぶりであった。

ここ日本では、たとえ憲法にどう書こうと、現実には守られず、その時々の現実のままに行動がさきにとられ、それが事後的に追認されていく。そんなお国柄なのである。

いまもホンネでは変わってはいないと考えるのが素直な見方だろう。

日本の国家元首は誰であるか、どこにも書かれていない。天皇は「日本国民統合の象徴」であって、政治的な権限は有していない。それでも、例えば今般、韓国から駐日大使が日本に到着すれば、韓国の国家元首である文大統領が発した信任状を日本の天皇に奉呈するのである。現実には日本の国家元首であるのは天皇陛下であることが歴然としている。

日本人にとって何よりも大事なのは、いま生きている自分たちが「納得できるかどうか」である。法治主義の本質とは「自分たちは納得できないが、そう決まっているなら規則に従う」という正義の観念が共有されていることだと思うのだ、な。

どうもそうではないと思う。書かれている規則よりは、納得できるかどうかのほうが重要だと日本人は考えているような印象を受ける。これは昔から変わっていないのじゃあないか。

このようなお国柄である日本において、法律に何を書くかはさほど重要ではない。書こうが、書くまいが、現実の転変に応じて、いくらでも行動はされていく。法律の条文に何をどう書くかは、事後的に理屈が通るように決める。

それが良いと考える国民性が日本人には備わっている。これまた日本人の「ファクターX」であると小生は考えたりしている。


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