2021年1月3日日曜日

ほんとに「世論」って奴は……という話し

 Youtubeの活用法に開眼して以来、モーツアルト偏愛が続いてきたが、ごく最近になってハイドンをよく聴くようになった。

ハイドンはベートーベンに通じる所があるとずっと感じてきた。特に最晩年の大傑作「交響曲104番ロンドン」などはそうである。リズム、強弱、儚さとは正反対の構造的感覚とでも言えばいいのだろうか ― どちらにしても小生は音楽は聴くばかりの素人だ。

モーツアルトとべートーベンとの違い、ハイドンとモーツアルトの違いは多くの人が指摘している。勉強したり、研究したりするのは、微妙な違いを理解することである。それは分かっている。しかし、似ているものは似ているのであり、違いを強調する思考は本筋を外す確率が高い。

ハイドンとモーツアルトはかなり似ている。例えばハイドンの「交響曲77番」の第1楽章など、最初に聴いた時はこれはモーツアルトそのものではないかと感じたくらいだ。実際、年齢の差に拘わらず、モーツアルトがウィーンに出てきて以来、二人が互いに影響を与え合っていたことは周知のことだから、似ていると感じても寧ろ当然のことなのだろう。そのハイドンとベートーベンがどこか似ているわけだから、結局、モーツアルトとベートーベンも似ていることになる。そんな意味でこの3人は「ウィーン古典派」という総括的なグループに属している。まあ、理屈としてはこうなるのだろう。

素人の印象に過ぎないが、ハイドンはお手本となる彫刻を創った人。モーツアルトはその彫刻に血を通わせ、涙をたたえたり、微笑んだり、千変万化する表情を与えた人。ベートーベンはハイドンの作った彫刻に理想、というか作曲者自身の想いを吹き込んだ人である。そんな「個性の違い」があると感じている。が、違いは違いとして、やっぱり似ているというのは、理屈としてもそうなのだ、ということだと思う。

「伝統」とか、「時代精神」というのはそんな働き方をするのかもしれない。伝統を共有していれば、どれほどの独創を発揮しても、師弟関係を遡って文化史を辿ることができるわけである。同じ時代に育った人は、どことなく同じような考え方をするのも、仲間意識や同調圧力などというものではなく、やはり時代精神の影響をともに受けて、同じ価値観をもつに至ったからである。

感染症のような「流行」とは違う。何かといえば「根拠」や「エビデンス」という言葉が使われていて、えらく流行っているが、これらは単に「データ」を指しているわけではない。データから何を読み取るかという「思考」の全体をさして「エビデンス」という言葉は使われるべきだ。とすれば、「思考の体系」や「学問的伝統」に関心をもつところまで行ってはじめて実のある話になる。

「民主主義」や「人権」という言葉がそれと同列であるわけではないことを祈るばかりだ。

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今日、毎年恒例の「箱根駅伝」があり、最終区で滅多に見ない大逆転劇があった。そんなレースとは別に、世間という外野席では『新型コロナ感染防止で三密回避が叫ばれている状況の中、箱根駅伝は禁止にするべきではなかったか。沿道に出て応援する人たちは排除するべきではなかったか」と、こんな風な声が結構出て来ているのには、文字通りビックリ仰天、天を仰いでしまった。

小生: 箱根駅伝はアマチュアだよ、プロじゃあないんだ。客を集めて儲けるのが目的じゃあない。大学の行事で教育の一環だよ。それも団体競技でも、格闘競技でもない、一人で走る競技ヨ。客を集める商売にしているのは読売新聞社なんだヨ。新聞社が手を引いても駅伝はやるだろうね。これを禁止しろって言うなら、何なら出来るんだろう。相撲は禁止、スピードスケートも禁止、フィギュアも禁止を言わなけりゃならんし、大学入試センター試験だって危ない、デパートの開店だってダメ、スーパーだって閉めろ、首都圏4都県は学校も閉鎖、授業日数が足りずに原級据え置き、卒業延期ってことになるんじゃないかねエ? 言うならそこまで言えよって、そう言いたいわな。ま、大混乱の大騒ぎになるだろうけどな。

カミさん: 禁止って、誰が禁止するの?出来る人、いるのかなあ?

小生: いないヨ。禁止できる法律を作れって言いたいんだろ。

カミさん: でも、沿道に出て応援するのは止めたらいいんじゃないかなあ。

小生: 天下の公道を歩くのに許可を得る必要があるかい?大体、外出を禁止したいなら、水、食料はお上が配給することにして、それを担当する人員を動員して、徹底実行するのが王道だ。それじゃあ財政がもたないから、買い物には行ってイイと、スーパーは営業してもイイと、水道管が凍ったら修繕にきてもらってもイイと、停電になったら早く直すのはイイと、世話ないっていうか、たとえは悪いけど、世間の言う「外出禁止」なんて、「韓国の反日不買」のようなもんだなあ。

まあ、「訳の分からない小言」は、世が荒れてくると、日本では色々とよく耳に入ってくるもので、これが時間つぶしのおしゃべりネタなら害はないが、民放TVのスピーカーを通して、案外に世論を動かしたりするので誠に危ないところがある。


坂口安吾の『日本文化私感』にこんな下りがある:

・・・僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。

こんな風に、自分が従事する「文学」についての観方を述べている。この下りを、小生、以下のように修正・敷衍したいと思っているのだ。

僕の暮らす日本という国の世論が、全く、それと同じことだ。正しく思わせるための一行があってもならぬ。正しさは、特に正しさを意識して言われたところからは生まれてこない。どうしてもやらねばならぬこと、やる必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、やりつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、正しさを生むのだ。実質からの要求を外れ、理念とか民主主義という立場に立って一本の柱を立てても、それはもう、たわいもない細工物になってしまう。

かなり唯物主義的世界観だと思う。作家であるにもかかわらず、言葉に溺れていない。「言葉が何より大事なのです」などという空っぽのナルシズムというか、世迷言とは無縁の頑健な知性をもっている。 この情け容赦のないザッハリッヒな態度をマルクス的だというなら、小生もまったく同じだ。

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