2021年1月19日火曜日

一言メモ: 「政治(家)主導体制」が崩壊に至る道筋に入ったか・・・

新型コロナにとどまらず「公衆衛生」は「国家安全保障」の核心の一部だ。が、「公衆衛生」というこの分野は、総理や、総理補佐官、官房長官など首相官邸で毎日を過ごす何十人(?)かの指導部がいくら頑張ってみても、その人物集団だけではとうてい結果は出ない。そんなタイプの問題なのである。

公衆衛生で結果を出すには、日本全国を網羅した官僚組織、医療専門家など関係諸機関の全体を動かさなければ、無理なのである。

例えは悪いが、1,2日で勝敗がつく「海戦」ではなく、勝敗がつくまで時に100日もかかるような「陸戦」に近いのが「防疫」という課題である。最終的な解決までには何年も要する持久戦になることが多いのも「陸上戦」と「防疫」とが似ているところである ― もちろん海軍にも「護送船団」という持久戦が課されることはあるが。要するに、最終的解決までに何年もかかるかもしれないことを覚悟し、消耗戦を耐え抜く決意を形成することが出発点である。そうすれば、その何年間かを耐え抜くために必要なインフラやシステムを考えるように自然になるはずだ。

「いつまで頑張ればいいんでしょう」などと聞くのは、その覚悟がないからであり、その覚悟の必要性を訴えずに今に至っているのは、政府上層部がサボっているからである。

やはり、ここ日本ではいつも「現場は頑張るが、上はダメ」なのである。

首脳会談でトップが会談を行い、基本的方向について共同声明を出せば、あとはトントンと事務的折衝で最終合意に至る。そんなタイプの問題も確かにあることはあるが、ウイルスが相手の「公衆衛生」は、そんな手法は役に立たない。

ウイルスに知性はない。知的会話や演説、ユーモアなどは無用なスキルである ― 戦う相手はウイルスであって国民が相手ではない。国民から政治的勝利を得ても大した意味はない。自チームの応援団から熱烈な支持を得ても、敵が強ければ試合には負ける。やはり意味はない。同じことだ。ま、これは最近気になっていることで、付け足しまで。

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粘り強く統制された組織行動でこそ解決ができるのだから、本来、感染症対策なり公衆衛生という問題領域は日本人にとって得意な分野である。小生はそんな印象をもってきた。

ところが、「政治主導」という旗印の下で、想像以上に日本の官僚組織は中央、地方共に劣化してしまったようである。

弁舌に長けた何人かの個々の人物が好きなことを声高に主張して日本社会全体をあらぬ方向へと引っ張っていった戦前期の1930年代を思い出すというものだ。

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フラクタルで有名なベノワ・マンデルブロが『禁断の市場』の中で強調しているように、無数の消費者、企業から形成される市場経済の本質とは、どの主体も粒状の微細な存在だという点にある。個々の主体がそれだけで全体に影響を及ぼしえない小さなスケールの存在であってこそ、株価形成には正規分布が当てはまり、派生商品価格に使用される標準的なブラック・ショールズの方程式も成立する。ところが、地球上の岩石のサイズ分布、企業の規模分布などには正規分布は当てはまってはおらず、いわゆる「べき乗分布」が現れる。それは他のすべての実現値を相殺して、全体の傾向を左右するほどのスケールをもつサンプルが時に出現するからである。どのサンプルも粒状の小さなスケールでそろっているという大前提は現実の経済社会には当てはまらないのだ。

現実の市場経済は決して粒子状の多数の経済主体で運営されているわけではない。市場経済に期待するメリットは、多分、「民主主義」にも期待されている特性なのだろう。民主主義が安定して政治的判断を形成し続けるためには、どの有権者も政治主体もその一人だけで他の人物の意向を帳消しにできるほどの影響力をもってはいけないという理屈だ。

おそらく何らかの数量化を行えば、政治現象にもまた安定的な正規分布は当てはまらず、自然の混合物に多く見られる「べき乗分布」が該当しているのだろう。とすれば、極端な結果は人が思うよりはずっと頻繁に現実のものになる。「ブラックスワン」は人が思っているよりはずっと頻繁に社会に現れる。そう考えておいた方がよい。

現実の市場経済は教科書のとおりではないし、現実の民主主義社会の政治現象も政治学の教科書のとおりにはなっていない。

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話しを戻そう。

一人か、何人かの政治家が、大きな影響力を社会に行使して、動かしていく社会状況は決して健全ではないと小生は思う。その人物がとんでもない偏った目的や理念を心の奥に隠し持っている可能性は常に排除できないからだ。なにもヒトラーを引き合いに出すまでもない。

というか、それほど大きな影響力をもった政治家ですら、公衆衛生という課題は極めて不得意な分野であるに違いない。

多くの人を信頼し、動員し、組織化することでしか、善い結果を得られないからである。組織の中では、大政治家ですら一つの機関に過ぎなくなるのである。

「あの人なら信頼できる」とか、「この人ならイイようだ」・・・などという発想では「防疫」に結果を出すのは無理である。

『司令塔がない』とよく日本の事情を批判する人がいる。しかし、司令塔だけを中央に作ってもダメである。日本に欠けているのは「組織・ヒト・資源」である。明らかではないか。

つまり「大政治家」だから「防疫」という問題を解決できるわけではない。平均並みの凡人集団が相互連携して、組織的、集団的に解決していくのが本筋である。

そして、本来は、こうした集団的問題解決は日本人なら得意であったはずである。その伝統的な解決能力が毀損され、劣化させられてきたのは、小生は2000年以降の「政治主導」が背景になってきたと思うようになった。

これが分かってきたことがコロナ禍の歴史的意義ではないだろうか。

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ホンネについて語り合ったことは最近はないが、多分、40代未満の若い少壮官僚は今回のコロナ禍によって、この20年間の「政治主導」が崩壊に至る事態を待ち望んでいることだろう。

確かに、外から眺めていると、1990年代の当初の理念はともかく、特に内閣人事局が設置された2014年以降の「政治主導」は、高級な意味合いの「政治による主導」ではなく、低級な「政治家支配」そのものであった。

1920年代の政党政治が崩壊して軍部主導の日本になったのは、今日の日本人からみると何故それを当時の日本人が受け入れたのか、実に不思議に感じる。しかし、歴史に不思議なことは実はないのだ。社会には全体としてそれほどレベルの高い知性も感情も備わっていない。が、それでも社会的な変化はそうなるべくして、そうなったものとみるべきだと思う。とすれば、これから「政治主導」が信頼を失い、何年もかけながら「官僚組織主導」に戻っていくとしても、リアルタイムで生きている今の日本人にとっては「それも仕方がない」と。そんな歴史になっても小生は驚かない。

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