2021年3月30日火曜日

コロナ1年:日本のジャーナリズムの最もさびしいところ

感染拡大の核になっている営業形態が確認されているのであれば、それをターゲットにして感染抑止のための政策資源を集中投下するのが行政オペレーションとしては効率的である。

コロナ禍での感染防止政策を推し進めるには、戦後日本の民主主義で暗黙の前提とされてきた色々な大前提と矛盾するような行動をとることが求められている、という点こそいま最も悩ましいところなのです・・・というのがいわゆる「良識派」とされる人々の心理だろうと推測している。

かなり以前だが、こんな投稿をしている:

ターゲットの確定は、店舗・区域・自治体など様々なレベルがありうる。

しかしながら、ターゲットをどのように決めるにしても、ターゲットを決めること自体によってその政策は国民に対して<差別的>に働く。その意味で、ターゲットにされる側の基本的人権を侵害することにもなるという理屈はありうる。

しかし、公益拡大のため<差別的>に作用する政策が不適切ということであれば、便益平等の公共サービスの財源にするために累進的な所得税を課することもまた本当はおかしいという理屈になる。

公益のため一部の人たちに我慢を強いるのは人権を侵害する。「だから、みんなで我慢しようヨ」という考え方は、要するに「一蓮托生」のロジックであり、公益を名目として国民に「連帯責任」を求める思想と同じであろう。

小生はこのような考え方には反対する立場に立っている。

この何日か後では、こんなことも言っている:

 小生: 「経済」なんて、どうしてこんな抽象的な言葉でお茶を濁すんだろうね。「みんなの仕事の数」って言えばいいんだよ。

カミさん: 仕事の数って?

小生: 「経済を抑える」というのは、要するに仕事を抑える、客を減らす、注文を抑える、要するに、みんなの仕事の量を減らすってことだよ。仕事から外される人を増やすってことなんだよ。

カミさん: 確かにねえ、でもそうしないとコロナの感染は減らないんじゃない。

小生: 歌舞伎町でもススキノでもそうなんだけどサ、いくら注意しても言うことを聞かないホントに心配な店は、もう最前線の担当者には頭に入ってるんだよ。そんな店をターゲットにして、夜中にマスクをせずに盛り上がっているその最中に、突然踏み込んでサ、『これから緊急衛生検査を始めます。この部屋を出ないでください』ってね、店の経営者には『衛生検査令状です』とか、もしこんな行動がお上に許されればね、これは感染予防には正に一罰百戒ってものになるさ。ススキノが感染拡大の核になるって状態は、絶対確実に止められる。これは間違いないよ。

カミさん:「令状」って、そんなのないでしょ?

小生: そこさ、問題の本質は!できないんだよ、今の法律では。憲法上できないってことはないと思うんだけどね、みんなが助かるんだからさ。踏み込まれた店以外の店は、一生懸命にガイドラインを守ってるんだから、何のお咎めもないんだしね。でも、これが出来ないのさ。

 足元では、『これまでに実行されてこなかったピンポイントの新しい方策を実行しなければ感染拡大は抑えられない、国民は自粛に疲れてきた、こういうことではないでしょうか?』、『検査拡大に舵が切られてはいるんですが、広い地域を対象となると、なかなか追いつかない』、『やはり対象区域をしぼって、ということでしょうか?』・・・、いやまったく、エンドレスで同じテーマについて話し合いを続けているのが現時点の日本社会の実相であろう。

こんなことは遠く北海道の港町で世相をうかがっているだけでも分かるほどの簡単な問題である。

隠れた問題を発見するなどという高度の知性が要るわけではない。

当たり前の対応を的確に実行するだけで大いに前進するはずのことなのだ。

それが出来ないで来た。

出来なかったのは何故か?

担当部局の内部で「理論上、もっとも適切な対応方針」を提案した人が一人もいなかったはずはない。いなかったのか?誰がその提案を抑えたのか?なぜ却下されたのか?

この疑問に踏み込んでほしい、というのが視聴者、読者の最大の希望であると思うのだが、東電福一原発と同じように、問題の本質にストレートに迫って、ストレートに社会に公表するようなメディアは、日本にはどうやら存在していないようである。

日本には、結局、ウッドワードもハルバースタムも生まれないし、生まれたとしても社会が育てないのである。

「事実」で勝負せず、「話芸」で勝負する人物ばかりがメディア業界で目立つのは、日本社会のそんな傾向のためであると思っている。

そのことが最も深刻にさびしいところである。

2021年3月25日木曜日

ホンノ一言: 1万分の1未満の重みしかない現代日本の政治家の言葉

2019年7月の参院選広島選挙区における大規模買収事件で、公選法違反罪に問われた元法相のK.K.議員が、ようやっとと言うべきか、議員辞職願を提出したそうだ。ご本人は

皆さまの信頼を裏切ってしまったこと、万死に値すると考えます。お金で人の心を『買える』と考えた自らの品性の下劣さに恥じ入るばかりです。

と所感を述べているよし。

フ~~ム、「万死に値する」ということですか・・・。

昭和20年8月15日の朝、陸軍大臣の阿南惟幾は

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

との遺書をのこし割腹して謝罪した。 

後者は「一死」をもって謝罪するという言葉をその通りに実行した。前者は「万死に値する」と述べながらも、(多分)言葉を実行する意志はないとみる。

軍国主義時代の日本の陸軍大臣の言葉より、民主主義国に変容した現代日本の国会議員の言葉は、その重みにおいて、1万分の1未満の価値しかないという理屈だ。

「政治主導」、というより単に普通選挙で当選した「政治家」主導というべきだが、形容できないほどの「軽さ」にはただ呆れるしかない。実績評価、能力評価なしで誰もが立候補できる普通選挙というのは、誰かが必ず当選するもので、本人がどんな人か分からないままに投票する現状では《クジ引き抽選》とあまり大きく異なるところはないとみる。「支持政党なし」という階層が主たる階層である現代社会において、上のような状況になっているのは理の当然だろう。

2021年3月24日水曜日

ホンノ一言: 反乱とレジームスイッチの前兆は?

 国快で審議される政府提出法案に相次いで(単なる誤字・脱字・誤変換を超える)ミスが多発して大問題となっている。こんな報道もある。

政府が提出した法案に相次いでミスが見つかった問題を受け、野党側は政府が法案の再点検を終えて国会に報告するまでは、衆議院のすべての審議に応じない考えを示しました。

(中略)

これまでに出てきた法案のミスは12府省庁にわたり、合わせて19法案、1つの条約です。

(出所)livedoor NEWS, 2021-03-24 14:30配信

(URL)https://news.livedoor.com/article/detail/19904331/

法案等の条文校正作業は担当課の課長補佐レベルの責任である。そこが機能しなくなりつつあるということは、省庁内部で課長以上の管理職が下の実働部隊の作業をグリップできなくなってきている。そんな状況が中央官庁内で相当広がっているのではないかという憶測が出てくる。


上が下をグリップできなくなるとどうなるか?

戦前の例を思い起こす必要もなく、実働部隊による組織的怠業、抗命、意図的改竄、隠蔽等々という行為が蔓延するということである。

その果てに、組織的な権力奪取を敢行する人間集団が出てくるか否かは、最終的には、カリスマ性のある人物が枢要なポジションにつくかどうかで決まることである。

***

そんな人物が枢要なポジションにつくかどうかは、多分に偶然によることだ。が、もしそんな人物がいま現実に(どこかに)存在するなら、力をつける絶好な世相になっている。

「政治主導」への幻滅、感染防止・医療政策への幻滅。ポストコロナ時代の経済ヴィジョンを語らない政府に対する落胆。政治家の野放図振りへの義憤。幻滅と落胆、義憤のカクテルだ。

理性を失いがちな悪酔い状態。こんな世情になると、どんな事が起こるか?エネルギーが発散されないまま溜まって時間が経過すればするほど、それだけ将来のある時点でより大規模な激震が予想される。危ない兆候がいま観察されているのだと小生は思う。前兆を見過ごすのはコロナだけで勘弁してほしい。一つの統治機構の終わりが意識されていなければ幸いだ。

戦後日本では「戦前日本の失敗の始まり」として周知の「満州事変」だが、当時のリアルタイムの報道では、選挙で選ばれた「民主的な」な政府ではなく、「暴走」しているはずの関東軍の方を大多数の日本人は支持したのである。やはりその当時、第一次大戦後の政党・陸軍主流派による上層部は中堅以下の実働部隊をしっかりとグリップできなくなってきていたのである。「中国危機」と「世界大恐慌」が盤石に見えた大正デモクラシー以降の政党政治を崩壊させる契機となったのだった。憲法も護憲もどうでもよくなり、当時の日本国民は「国民精神総動員」への道を選んだ。

2021年3月21日日曜日

『別の言葉で言い換えてみるとどうなる?』は常に有効な確認法である

 最近の疑問を簡単にメモにしておきたい。

『価値観を共有できるかどうか』が、ここ近年の決まり文句になっている。ところが、その価値観なるものを聞いてみると、人にとっての普遍的価値は「幸福」であるでもなく、「命」にあるでもなく、「福禄寿」でもなく、要するに「人権、民主主義、法の支配」だ、と。

「何だよ、それ」と言いたくもなるのだ、な。

***

『そんなもの、あっしにゃあ、かかわりのない事でござんす』と言いたくなる。

《人権・民主主義・法の支配》の3点セットに対しては、《統治権・徳治主義・賢者の支配》を持ち出すとしても、個人的にはそれほど反発を感じない。前者のセットでは国民は幸福になり、後者を認めてしまえば国民は必然的に不幸になるとも思われない。いい時はいいし、ダメなときはダメ、社会体制に関して最適解などはないと小生は思う。

フランスは旧体制(=アンシャン・レジーム)を打倒して民主的な新体制を確立したが、旧体制から新体制への前と後で、平和になったか、落ち着いた暮らしが出来るようになったか、善い人が増えたか、悪い人が減ったか。小生は体制選択などは単に好き嫌いの話しだろうとさえ思っている。

結局、「民主主義は善い」という大前提を置いてしまうかどうかで以後の議論は決まるのである。困ったら「この公式がありますよね」という不変の真理に訴える感覚だが、実際にはそんなものはない。民主主義が体制の最終形であるかどうかは、歴史的にも反例が多数あり、空間的にも反例が多数あり、その普遍的価値が実証されているとは言えない。

であるにもかかわらず、民主主義は善いという公理をおいて議論を進めることは科学的でない。

こんな空虚な議論につきあうよりは、昔ながらの

惻隠之心 仁之端也 (惻隠の心は仁のはじめなり)

羞悪之心 義之端也 (悪を羞じる心は義のはじめなり)

辞譲之心 礼之端也 (辞を低く譲ろうとする心は礼のはじめなり)

是非之心 智之端也 (是非を知ろうとする心は智のはじめなり)

孟子による徳の四端説の方が余程ピンと来るというものだ。社会で大事な要素は、権利、主義、支配という言葉ではなく「思いやり」であろうという指摘は、現代日本社会の現実を見る限り、いわゆる「共有するべき価値」よりも遥かに有効性がある。

正直、そう考えてしまいますがネエ・・・

***

ここはデカルトの昔に戻って『我思う、故に我あり』。健全な懐疑主義に立脚して、世の中で正統派とされている議論は、全て疑ってかかるのがよい。

価値観を共有できるかどうかが鍵だ、というのは言い換えると「俺たちの側につけ」という恫喝と本質的には同じであるとみる。

2021年3月17日水曜日

断想: 「選択的夫婦別姓」の議論百出に想う

森喜朗・前オリパラ委員長による「女性蔑視発言?」を契機に、一挙に標題の話しまでが本格化してきているという。まさに一寸先の展開が読めない闇の時代である。

もちろんこの問題に「正解」はない。あるはずがない。

夫婦が、一夫一婦の社会であろうが、一夫多妻の社会であろうが、他のどんな社会であろうが、夫婦はそれぞれいかなる苗字/名字を名乗るのが正しいか?

ロジックで結論を出せるはずもないし、実際、日本の歴史の中でもその時代、その時代、都合の良いように移り変わっている。

その以前に、それほど重要な問題でありうるのだろうか?

***

自然科学の中身は実は「仮説」に過ぎず、ただ「精密科学」であるが故に機能している。社会科学においては確立された仮説すらもないのが現時点における知の限界だ。故に、標題の「選択的夫婦別姓制度」は是か非かという問題にも、「正解」がないのは当然で、どう結論を出すにせよ、多数の日本人が「納得」できるか否かという点だけが問題となる。大体、「苗字/名字」というのはどこの国でもそうだが、便利なように自然発生的に出来てきたものである。稀な例外を除いて政府の命令に基づいて決まった苗字はない。全て自然に発生して当人がそれを使ってきた。

はるか古代においては「氏」があった。藤原氏や源氏、平氏などがそうで、いわば(父系)の血族的所属を明らかにするものである。その「氏」は子孫が分派していくうちに「姓」に分かれ、「家」が形成された。例えば、藤原氏は「藤原北家」や「藤原式家」等に分かれた。更に家から「流」が派生して、藤原北家からは「近衛」や「九条」など五摂家が生まれてきた。これも「▲▲家」である。その「近衛」や「九条」だが、血縁集団を示す「氏」ではなく、同族の中で「近衛大路」に屋敷を持っている家は「近衛」、九条通りに住んでいる人は「九条」と呼ばれるようになったわけである。つまりは名字は識別のための呼び名であった。

武家も同様だ。源頼朝は氏である「源」を名乗っていたが、嫡流から外れた傍流の源義国流の家系は暮らしている土地の名前を苗字とした。長男の義重流は「新田」、次男の義康流は「足利」を名乗るようになった。その足利も全国に枝葉を広げるうちに子孫は「細川」、「斯波」、「畠山」などと別の苗字を名乗り、分家が増えていった。その分家も更に分かれて「〇〇流」などと区別されるようになる。鎌倉幕府を支えた北条家も最後には多数の「流」や「家」に分かれていた。これはもう家系図の世界であって、専門に研究している学者も数多い。

ここから分かる事は、そもそも個人の名前とは

個人名としては〇〇、所属する家の名は●●、その家の発祥は◇◇

を含む情報から構成される固有名詞であり、それが世間が求める識別情報として十分であれば名前としては通用したわけである。

通用させたい空間が武家社会であれば、苗字に加えて源氏であるか平氏であるかが重要であったかもしれず、その空間が自分のムラであれば、活動範囲も限られ、地名を苗字とする必要もない。

この辺りの事情は、ヨーロッパの例えば古代ローマにおいても同様で、有名なシーザーはガイウス・ユリウス・カエサルが本名だ。個人名はガイウス、氏族としてはユリウス一族(日本で言えば、たとえば源氏)、家の名はカエサル(例えば、源氏の中の足利家)という意味である。

これに加えて、幼名が通称として使われてもおり、また名を与えられることもあったので昔の人は度々自分の名前を変えている。長尾景虎が上杉家を継いで上杉政虎に、そして将軍・義輝から輝の一字を受けて輝虎と名を変えたのはよく知られている。これに幼名の虎千代、法名の謙信があり、謙信が通称として最もよく使われているので実に面倒だ。

とはいえ、人の名前とは都合によって実は自由に変えられるものなのだ、と言う点はよく分かる。そして、本来は自分の名前くらいは自由に変えられるものであって当然だろう。これが「あるべき形」だろうと思われるのだ、な。

***

江戸時代までは日本の一般庶民は苗字/名字をもってはいなかった。名字をもつというのは、世間に対して明らかにするべき「氏族名」、「家名」を有している場合において意味をもつのであって、特に歴史的な勲功や豪族の一員でもなければ、名字を名乗る必要はなかったわけだ。

こんな事情であったのが、明治8年になって「平民苗字必称義務令」が施行され、全ての国民が苗字/名字を名乗ることになった。《戸籍制度》を拡充して確実な徴税を目指した大蔵省が主導した政策である。徴税だけではなく、徴兵や義務教育の浸透にも寄与したのは当然の成果であって、デジタル技術などがない明治維新期においては今日の《マイナンバー制度》に相当するような抜本的な改革であったのだ。

「戦前」という時代、全ての日本人男性は兵役の義務を負っていた。召集令状に応じる義務があった。召集を受けた日本人は現住所にかかわりなく本籍地を管轄する連隊に入ったのであった。戸籍制度と戦前日本の行政システムは裏腹の関係にある。そして、全日本人の「苗字/名字」は戸籍制度をどう設計するかによっている。

***

現時点の日本の行政に日本人が全て戸籍上の「苗字」をもつ必要性はないのではないだろうか。

個々人はすべてデジタル化時代の国民管理システムである「マイナンバー」を通して把握されている。そのマイナンバーで徴税、資産管理、医療、福祉等々、国家と国民が関係するあらゆる側面を制御していくというのが、いま日本社会が進んでいる方向である。マイナンバーは人為的に生成された番号だが、DNA情報が出生時に公的に登録されてしまえば、ナンバー変更すらも可能になる理屈で、いずれそんな時代になるだろう。

思うのだが、日本国にとって必要なのは一人一人がどう名乗るかという氏名ではない。ナンバーが確定されれば、誰であるかは直ちに識別できるのである。もはや、手続きを行おうとする日本人が「鈴木太郎」という氏名を名乗っているかどうかは、どうでもよい。マイナンバーを正確に入力してくれれば、行政上必要な事柄は確認できる。

このような現代日本において、どんな苗字を名乗るか、どんな名前を名乗るか、それが公的な意味をもつとは思えない。

というか、江戸期の日本に戻って、苗字は不要と考えるなら、昔のように「五作」、「市兵衛」、あるいは「はな」、「しの」、「アンナ・マリア」などと自由に名乗るとしても、公的になにも不都合はないはずだ ― セキュリティ上は、その時点で届けている「名乗り」をパスワードとしてマイナンバーと紐づけておく設計は必要になるだろうし、更に第2パスワードも要るだろう。が、つまりはマイナンバーシステムのセキュリティ管理に属する問題で、夫婦同姓が善いか、夫婦別姓が善いかという不毛の論点とは無縁の事柄だ。

戸籍において、「苗字」を必要記入欄から外してしまえば、夫婦別姓であろうと、夫婦同姓だろうと、どちらでもよいという理屈だ。2代あとの孫が住んでいる地名をとって別の姓を名乗り始めるのも自由である理屈だ。もちろん「細川」とか「島津」とか、子々孫々(?)伝えていきたい苗字を有している人は、その苗字を大事に守っていくだろう。が、これは個人個人の自由裁量に委ねるべき事柄で、法律を規定して国から「こうこうするべし」と命令することでもないはずだ。

意味のない議論などは中止して、現時点の技術水準を前提として制度設計を行うべきだろう。人がどう名乗るかという行為は、本来は国家が決めることではなく、まずは両親、家族、成長したあとは本人が固有にもっている権利であるはずだ。



2021年3月15日月曜日

「奇跡の10年」という時代も時にやってくる?

テレビドラマ『天国と地獄』に影響されたからか、今年になってからベートーベンを聴くことが増えた。そういえば昨年はベートーベン生誕250周年であったのだが、コロナ・パンデミックでフルオーケストラの演奏会などは自粛に追い込まれ、全く盛り上がらないままに年が変わってしまった。

交響曲第2番はごく最近になってから愛聴するようになった。ベートーベン32歳の年に作曲されたそうだ。難聴が酷くなっていた頃である。実はこの第2番が"Pre-Eroica"と言ってもよい程の深みと広がりをもつと思うようになった。若い頃とは好みや感性が変わってきたせいか、この歳になってから最も頻繁に聴くようになった。ブラームスを想わせる「オヤッ」と思う響きを感じるのは不思議だ。というか、モーツアルトには古さも新しさも感じないが、ベートーベンにはある種「モダンさ」を感じる時があるのは自分だけだろうかと思ったりする。

ベートーベンの第2番はモーツアルトの交響曲でいえば第38番『プラハ』辺りに相当するかもしれない。年齢的にも近い。『プラハ』はモーツアルト30歳の作品である。こちらは第39番以降の三大交響曲の前の"Pre-Greats"とでもいったところだ。

ベートーベンの交響曲は第1から第9までを通しで聴いても時間が惜しくはないという人もいるだろう。小生は、中でも特に第2から第3の"Eroica"を経て7番に至るまで、ベートーベン32歳から42歳までの10年間は、「奇跡の10年」であったと思っている。

モーツアルトの40番、41番辺りを聴いていると、これを超えて完璧な交響曲はありえないと思ったりするものだ。

が、ベートーベンを聴いていると理屈ではなく心が揺さぶられる。初めてベートーベンの音楽を聴いたゲーテが落ち着きを失い『こんな騒々しい・・・』とブツブツとつぶやいたそうだから、凡人がただならぬ気持になるのは当たり前だ。

モーツアルト晩年の1788年とベートーベン32歳の1802年。その間、14年。「十年一昔」というが、楽想の変わりようは個性の違いを超えて信じがたいほどだ。フランスから発した《革命》は、全ヨーロッパの社会秩序から人々の暮らし、感性、あるべき社会像まで、全てを変えてしまった、音楽もまた津波のような社会的激変の中に流された。やはり《奇跡の10年》であったのだろう。今流の表現をすると、あるはずのない時代、間違っている時代、つまり《ブラックスワン》である。

振り返れば《革命》であったことが分かるが、リアルタイムで生きていた人々はただひたすら《混乱》だけが見えていたかもしれない、というか多分そうだったろうと思う。巨大津波で消失した古い街並みや旧式の暮らしにもよいところは多々あったはずだ。後になって、より進んだはずの社会から懐かしい時代を思い出したりするのも人間の性だ。


やはり、何事によらず「この世の一寸先は闇」である。


2021年3月12日金曜日

一言メモ: 「理念」を冷やかし、「言葉」をこきおろす投稿

 今夏に開催が予定されている東京五輪。その備えに中国がワクチンを提供するとの申し出をIOCが歓迎しているという点に対して、こんな批判が飛び出している:

新型コロナウイルス感染症の発生源である中共の、国際的な枠組みに入らず、自国本位のなり振りかまわないワクチン外交に、IOCが加担するというのはどういうことなのでしょうか。そもそもIOCの財政収入は多くは米国のテレビ局の放送権料です。米国の金で中共のワクチンを買って、世界に供給して、中共のお先棒を担ごうというのでしょうか。

 IOCは、中共だけからワクチン提供を受けることは、オリンピック憲章が定める「五大陸にまたがる」「5つの結び合う輪」「政治的中立」等に反するものだと言わざるを得ません。

URL:https://blogos.com/article/522536/

筆者は自民党所属の参議院議員である。


う~んと唸りながら、思わず失笑してしまいました(≧Д≦

オリンピックの理念は政治から独立するという点にある。例え、戦争当事国であっても競技の場に選手が出場することを許し、スポーツの形をとって決着をつけるというのが、古代ギリシア以来のオリンピック精神だろう ― 現実にはどれほど「西側先進国」の政治家に翻弄されているとしてもだ。

五輪憲章の明文規定の一言一句、法律家のように解釈して、IOCの行為の是非を論ずるよりは、原点となったオリンピック精神から逸脱しているか否かがはるかに本質的であろう。

ワクチンを提供されて、「五輪開催」のどこが困るのだろう?十分にあれば謝して辞退すればよく、なくて困っているのであれば有難く受け入れれば済むのではないのか?そこに「政治」を関連付けること自体がオリンピック精神を冒とくしているのではないか?

そもそも、自民党の国会議員が「政治的中立」を論じるという行為自体が、オリンピック運動に政治を持ち込んでいるということにならないか? 

そう思いますがネエ・・・

★ ★ ★

話しはまったく変わるが、宇能鴻一郎は芥川賞作家であると同時に、古典的ポルノ小説を開拓したイノベーターであり、かつミステリー作家としても独自の境地を築いた《天才》であると小生は目している。

同氏の最晩年(と言うのは甚だ失礼の極みなのだが)に発表されたのが『夢十夜』であるが、これがまたミステリー的要素がふんだんに含まれたポルノ的純文学になっている。悪く言えば「ごった煮」であるが、よく言えば「総合文学」である。

が、最も奇抜な警句に満ちているのは巻末の「あとがき—気のむくままの謝辞と補注」である。

男はタネをばらまく性だが可憐な相手はつい愛してしまい、すると広くタネを散布できなくなる。男にとって愛は性の敵だ。女は男を育児に協力させるために愛で縛る。だから女は愛と性が一致している。

小生:近頃は、「なんで女が男を愛さなければならないの」というジェンダーフリー思想が市中で蔓延して、愛じゃなく、法律をこさえて男を縛ろうとしていますヨ。

先生: へえ~~~、そんな法律を大真面目に作ろうって政治家先生がいるのかね?

小生: 世の中の半分は女ですからネ。それに齢をとると女の方が数が多いし、元気です。政治に出張ってくれば法律も思いのままで、そうなりゃ男は女に縛られる一方でさあ・・・

夢でこんな会話をした。

一番面白いのは次の一句だ。平和主義者にしてサラリーマン小説を幾編も書いた山口瞳について。

彼は「平和憲法を守って滅びた国が一つくらいあってもいい」と言った。「全国民が死んでも日本精神は残る」と言った軍部を連想する。

本を読んで勉強して、「言論」というと聞こえはいいが、つまりは「話芸」、「話業」 で国の方向を考えようという人たちの不毛さがよく表現されているではないか。

統計分析家の座右の警句に

All models are wrong. Some are useful.

モデルは全て間違いだ。が、役に立つものがある。

この伝でいうと

頭で考えた「理念」なんて全て間違いだ。中には世の中の役に立つものがある。

世の中の役に立つとは、インフラを支えている人、生活の役に立つモノを作っている人、役に立つモノを作るためのモノを作っている人、そんな人々の役に立つということである。

アダム・スミスは、「生産的活動」から全てのサービスを除外した。しかし、商業や運輸は明らかに生活の役に立つ。そこでサービスの一部が生産的活動に入るようになった。

医療もそうだ。理髪店、美容院もそうだ。金の貸し借りを仲介する金融活動も生産的だと見なされるようになった。

そして最後に芸能、お笑い、ニュースキャスターまで世の中の役に立つ活動に含まれるようになって、今日に至るのだが、少し広げすぎたのではないか。

金銭的報酬をうけとるからといって、何の役にも立っていない(ようにしか思われない)活動は確かにある。それどころか、「大麻販売」のように金銭的報酬を伴うが、世間に害を与えているような「反社会的活動」もある。逆に、家庭を支える主婦、家族、親族、あるいは近隣、町内を支える活動をしている高齢者のように、金銭的報酬はないが、世の中の役に立っている活動をしている人は厳としている。《生産の境界》(Boundary of Production)の問題はいまでもなお今日的である。

理屈で言えば、役に立つ人は頑張ってほしいが、役に立たない人は活動をやめてもいい。

宇能鴻一郎は「生産的」な行為を生業として来たのか?そう問われれば、氏は『何の役にもたっていないよ』と言うかもしれない。小生は、氏の作品を読んで楽しんでいるのだが、確かに「だから世の中の役に立っている」とは、言えないような気も実はしているのだ、な。そういう意味では「純文学」というより「戯作」なのかもしれない。戯作を書くのは、「生産」ではなくて、それ自体が「消費」だろうて。つまりは同好の士がカネを出し合って楽しむのと何ら変わらない。楽しんでいる以上、消費である。読者が払う販売価格は生産物に対する「対価」というより、楽しませてくれることへの「御礼」である。サービスの種類によっては「御礼」というより「施し」にすら似ている支払いもあるかもしれない。経済計算の用語を使えば「移転」と呼ばれる支払いに該当する。細かな話をすれば、価格に含まれる印刷経費、出版に関わった人の人件費などは、たしかに商品の裏付けがあるので「生産活動」に計上するのが筋だろう。

何を付加価値と考えるか、そこには「人類の役に立つとはいかなることか」という問いかけに関する価値判断が伴うわけだ。カネの流れと価値の生産とは別の事柄であることが現代社会ではしばしば忘却されている。

ま、「経済計算」というのは細かくて面倒だが、真面目に取り組まないと社会経済がスカスカになっていても、その事実に気がつかないことになる。


オリンピックから宇能鴻一郎に、更には経済計算へと、ずいぶん話が飛んでしまった。いずれにしても、一家族が生きていくうえでも何か問題が出て来れば手間取るものだ。解決が難しいこともあるのに、社会の問題となるとなおさらだ。その問題は現実の中から生まれる。問題解決に役立つことの中に「話芸」や「話業」はない。これは日常経験からも(実は)自明のことである。必要なことは「行為」である。ひょっとすると話し上手はマイナスであるかもしれない。これだけは時代を問わず、国を問わず、言えることだろう。

だとすると、国にとって「政治」は大切な行為であるのに、なぜ政治家に「話芸」を求める人たちが多いのだろうか?不思議な現象である。話し上手な芸術家やアスリートを多くの人は評価するだろうか?


 



2021年3月8日月曜日

一言メモ: SNSへの政治的投稿の是非について

ロシア政府がフェースブックに対して不満であるとのことだ。自由な(政治的)投稿が制限されているというのが理由だ。

モスクワ 8日 ロイター] - ロシア当局は8日、米フェイスブックに対し、一部メディアの投稿を掲載せず市民の権利を侵害したと批判した。

通信監督当局はフェイスブックに最低100万ルーブル(1万3433ドル)の罰金を科すと警告、タス通信や「RBCビジネス・デイリー」などが投稿したコンテンツへのアクセスを回復させるよう要請した。

ロシア側の主張によると、フェイスブックは、ウクライナ極右集団の支持者とされる人々の拘束に関連した投稿をブロックした。

ヴォロージン下院議長は「これは法に反しており、受け入れられない」とし、フェイスブックは知る権利や知らしめる権利を侵害したと批判。ロシアの「デジタルにおける国家主権」を維持するための法案を提出する方針を示した。

フェイスブックのコメントは得られていない。

(出所)ロイター、2021-3-8 7:28 pm配信


「報道の自由」は、「情報アクセスの権利」や「表現の自由」と併せてよく議論される問題だ。

今日は、SNSと政治との関連でソモソモ論を書いておきたい。

そもそも政治的投稿については、フェースブックの創業者マーク・ザッカーバーグが信念をもっていて、SNSは社会を構成する個人が自由に議論する場を提供しているだけであると強調していた。

ところが、大手マスメディア企業がその姿勢を非難し続ける中で、徐々に政治的投稿を厳格に規制する方向へ転換してきたという経緯がある。

その一方で、大手マスメディア企業は、自社の政治的立場を鮮明にし、先の米・大統領選挙では(是非はともかく、余りにあからさまに)バイデン候補にとって有利な紙面を編集し続けた(と言われている)。 

これは本ブログで何度も投稿した点だが、メディア企業は擬制された法人であって、具体的な個人ではない。つまり有権者ではない。

そんな組織が社会の中で自由に政治的主張をする権利があると考える一方で、SNSという場で個人が政治的主張を述べる投稿を嫌悪するというのは、身勝手であり、矛盾しているだろう。

個人がどんな政治的主張をしても民主主義社会では当たり前のことであって、必要でもある。SNSはこれを可能とするもので一人一人に政治参加への道を開く。この意味で非常にイノヴァティブなツールなのである。

他方、何十万部、何百万部もの新聞を発行したり、全国の視聴者にTVを通して自由に声を届けられるメディア企業が、政治的見解を意図的・継続的・統一的に主張することを、許してもよいのか、悪いのか? 社会の中で決定的な影響力をもつ報道機関が自由にその影響力を行使してよいのか、悪いのか?こちらの方がより微妙な問題だろう。

個人とメディア産業の巨人とは適用するべきルールが違うのが当たり前だ。

なので、今回はロシア政府の方に一分の理がある。と同時に、投稿者がメディア企業ということであれば、不当な影響力行使という理由から投稿を規制されても仕方がない。大企業がSNSで組織的プロパガンダを展開するのは、SNSの目的から逸脱している。そんな風に思うのだ、な。

その一方で、個人による投稿は、明らかに犯罪行為を扇動するという反社会的意図に基づくものでない限り — これさえも民主化運動を支えるインフラにもなることを想えば慎重に判断するべきだが ― すべての投稿を原則自由にするのが本筋だ。間違った思想や見解は、SNSという場で淘汰していく。その淘汰のプロセスを視える化するというのもSNSという仕組みの一つの目的である ― 「淘汰」に手間取るならば、それが社会の現実を視える化したということでもあり、これまた直視するべき真実であろう。





2021年3月6日土曜日

ホンノ一言: 「東京都」のことで、ふと思いだした投稿

 「1都3県」に対して政府の非常事態宣言が2週間継続されることになった。

あとは、都知事、県知事の権限で実行できる「蔓延防止等重点措置」を活用して何とか、と。感染拡大波の左右両側の裾部分は、「上がりマンボウ」、「下がりマンボウ」でやってくれ、と。そういうことらしい。

テキパキと出来るのかネエ・・・と不安に思っている「東京都民」は案外少ないかもしれない。政府批判に比べて、都政批判は驚くほど少ないのが現実だ。

都政批判が少ないにも拘わらず、結局、感染防止という点で良い成績をあげられていない情けない現状は、これいかに。

これまた、都民(及び近隣3県民)は、案外、気にせず都知事を支持しているのかもしれない。ふとずっと以前の投稿を思い出してしまった。

こんなことを書いている:

小生: サラリーマンわあ~、気楽な稼業と来たもんだあ~、っていう植木等の歌を子供の時に真似したんだけどネ、この伝で行くと ・・・『都の知事なんて~、気楽な稼業ときたもんだあ~』、こんな感じでどう思う? 

やや失礼なことを書いていたんだなあ、と。が、有権者でもないメディア企業が思う存分、首相、政府閣僚、官僚、国会議員を毎日悪しざまに非難、論難し、筆誅を加え、ビジネスをしているのが現代日本社会だ。平凡な一人の庶民が個人の立場から公職にある人物をこの程度は書いても、つまりは実感レポート。些細な事だろう。

 

2021年3月3日水曜日

補足: 「確率」という概念の理解不足について

 前回投稿では「確率概念の理解不足」に触れて、以下のようなことを書いている。

GOTOトラベルと感染拡大とは、関係があるのか、ないのか?

素人集団であるメディア従業者はこんな感覚で伝えていたのだろうと思う。

GOTOトラベル論争が不毛なまま続けられたのは、日本のメディア社会における「数理リテラシーの不足」、「確率というコンセプトの無理解」がもたらした現象だと思われる。

これと関連してこんなこともあったという補足をしておきたい。

ネットだったか、TVの「情報番組」であったか忘れたのだが、こんな意見を述べる人がいた。

ワクチンの副反応って、確率は100万分の1とか、無視できる程だから心配する必要はないって言うじゃないですか。でも、ワクチンを受ける当事者の立場に立てば、自分に副反応が出るかもしれない。自分に出るかどうかは分からない。なので、副反応が出るのは確率半々なんです。これは、ヤッパリ、怖いわけですよね・・・

 可笑しさのあまりふき出してしまうとすれば、これは教育上甚だしく不適切だろう。ヤッパリ、真剣な心配なのだと思う。

実際、上のような感想のどこが非合理的であるか、どこが確率概念の無理解さを表しているか、ゼミ生に質問をするとすれば、理路整然と回答できる学生は案外少ないかもしれない。

でもナア・・・この論法でいけば、こうなる。

サイコロを振って6の目が出る確率は6分の1であることは誰もが知っている。ということは、6の目が出ない確率は6分の5ということになる。パーセントでいえば約83パーセント。かなり高い確率だ。故に、次に6の目は出ない方にカネを賭けても、80パーセント超の確率で勝つ。

しかし、いざ100万円を賭ける本人の立場に立てば、6が出るか出ないかは分からない。次に6が出れば、自分はカネを失う。分からないということは確率半々。ヤッパリ、怖いわけですよ。

『おいおい、次に6が出るか出ないか分からないって、だから6が出るのは確率2分の1,6が出ないのも確率2分の1。こういうことかい?だから怖いってか?』。こんなコメントなら多くの人は出せるはずだ。サイコロを振って、6の目が出る確率はカネを賭ける当事者にとっても、誰にとっても、6分の1であるのは正しいサイコロの特性として定まっているわけだ。

その確率を大きいと思うか、小さいと感じるかという問題と、特定の事象が発生する確率がいくらに定まっているかということとは、まったく別の問題だ。更に、それぞれの可能性からどれほどの利益・損失(=負の利益)が発生すると見込まれるかという問題、そして全ての可能性をウェイトとして利益を総計した「期待利益」、利益の分散(=リスク)がいくらになるかという問題。これらも別の問題になり、各指標は各指標なりの用途がある。

あるサイトによれば、飛行機事故で死亡する確率は1万分の9であるそうだ。

もし100万分の1しか生じない副反応を怖れながら、旅行では飛行機に乗るのであれば、これはヤッパリ非合理的である・・・というのが、「合理的な議論」とされている。

ま、人間というのは「非合理的な存在」である。この点はとっくに分かっていることである。とすれば、社会全体が非合理的な行動をとるとしても、一人一人が非合理的なのであれば、これまた自然な結果である。小生はそんな風に考えている。 

マア、どこかのTV局のキャスターが

滅多に事故が起きない見通しのよい道路で死亡事故が起きてしまいました。これはタマタマなのか、故意なのか?

こんな風に報道すれば、「確率」というメカニズムを理解していなければ、この反語的疑問文から「事故は故意じゃないか」と、世間は受け取るだろう。非合理的な社会現象が頻繁に発生するのは、理解するべき科学的概念を理解していない社会であることからもたらされている・・・というのは確かに一つの見方だ。

2021年3月1日月曜日

科学情報と「語呂合わせ」の漫談について

 新型コロナのワクチン接種が始まる中で、変異種の広がりが心配されている。

TVのワイドショーなどをみていると

ワクチン接種が始まる中、変異種に対しても、効果はあるのか、ゼロなのか?

(いつものことながら)こんな《切れの良い言葉》がポンポンと飛び出している。

***

そういえば、昨年の12月に入った頃、GOTOトラベルを続けるべきか、停めるべきかで世間で激論をしていた頃、

GOTOトラベルが原因となって感染が拡大しているという因果関係は立証されていない。

政府(及び統計専門家?)からはこんな主張がされていた。 

これに対して、「良識派?」の言い分は

GOTOトラベルと感染拡大とがまったく関係ないとは考えにくい。

「関係がある」というエビデンスがないからといって、「関係がまったくない」とは言えない。

こう反論していたように記憶している。結果として、激論はグダグダと不定形の進行になってしまい、最後に政府がGOTOトラベルを止めるという判断をして激論は終わった。激論自体の結論は宙ブラリンのままとなった。

こういうことが日本には多い。調べているわけではないが、海外でもそうだろうか?

***

確かに、統計的仮説検定は「データが反証たりうるか否か」、つまり真であると前提する帰無仮説をデータによって棄却できるかどうかだけが可能なのであって、仮説に合致しているデータを列挙しても、それによって仮説が正しいことのエビデンスを示したことにはならない。これが伝統的な推測統計学のロジックである。

そもそも

「関係が無い」ということをデータから立証するのは不可能に近い。 

なので 

データから言えることがあるとすれば「関係が無いという仮説はデータと矛盾している」という反証の確認である。反証が確認されるまでは、「可能性として、関係がないと前提してもよい」ということであるが、疑いは残り、真偽は不明である。

伝統的な統計理論の考え方は上のようなものだ。

ところが

常識的に考えれば、GOTOトラベルが感染拡大と全く関係がないという可能性は限りなくゼロに近いのではないか。感染拡大と関係があるという可能性のほうが高いのではないか?

疑問の本質はこんな内容なのであるから、分析手法としてはベイズ流の立場から、それぞれの可能性が真である事後確率を(その時点で利用可能な)データに基づいて計算すればよいわけである。

TV、新聞などメディア情報を見ていたのだが、《GOTOトラベルと感染拡大とが関係していない確率、関係している確率》の計算結果は一つとして出てくることはなかった。

多分、

GOTOトラベルと感染拡大とは、関係があるのか、ないのか?

素人集団であるメディア従業者はこんな感覚で伝えていたのだろうと思う。

GOTOトラベル論争が不毛なまま続けられたのは、日本のメディア社会における「数理リテラシーの不足」、「確率というコンセプトの無理解」がもたらした現象だと思われる。

***

それにしても、いままた

変異型ウイルスに対して、ワクチンの効果はあるのか、ゼロなのか?

又々、こういう語り方をしている。

キャスターも《話業》、《話芸》であるから、どう語っても自由なのだが、

私たち地球人からみると、太陽が動いているように見えるのも事実です。この事実を否定してよいのか、悪いのか?

と語るとすれば、これはもう「情報番組」ではなく、「漫談」の世界に近い。

科学者にして随筆家としても著名な中谷宇吉郎は、こんな話し方を「語呂合わせ」と言っている。

***

中谷宇吉郎のエッセーに『語呂の論理』というのがある。サワリの部分を引用しておこう。

 ところが、仙台で小宮こみやさんの御宅おたくを訪ねた時に、丁度水曜の面会日に当ったことがある。その席上で何気なにげなくこの語呂の論理の話をしたら、同席の長谷川はせがわ君が大変面白がって、「そういえば、『北越雪譜』の中の雪中の虫のところに「金中かねのなかなお虫あり、雪中ゆきのなかなからんや」というのがありますね」という話をしてくれた。私はうっかり読み通っていたので、帰ってから早速探して見ると、なるほどちゃんとあった。そして、語呂の論理の例としては、この方が簡潔で良いので、その後はしばしばこの方を借用することにした。
「雪中の虫」の説はなかなかの傑作である。およそ銅鉄の腐るはじめは虫が生ずるためで、「さびるくさるはじめさびの中かならず虫あり、肉眼に及ばざるゆゑ」人が知らないのであるが、これは蘭人らんじんの説であるという説明があって、その次に「金中猶虫あり、雪中虫無んや」というのが出て来るのである。
「雪中虫無んや」の話は、その時は大笑いになって済んでしまった。そして西洋の自然科学風な考え方の洗礼をまだ受けていない頃のわれわれの祖先の頭の中をちらとのぞいたような気がして大変愉快であった。

(出所 )https://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/53225_49860.html

『金属の中にさえ微生物がいる、いわんや雪の中にいないはずがない』というわけだ。

金属の腐食のメカニズムの話しをしているときにダネ、『先生、カネの中に微生物はいるんです、雪の中にだっていてもいいでしょう』ってサ、こんな事をいうヤツがいるんだヨ、という話は確かに文明開化途上の大学でされていたとしても可笑しくはない。どうも思考回路が読めないネエ、というのが筆者の主旨である。これは単なる連想ゲームであって、認識のロジックがない、語呂合わせだ。漫談、落語と理解するほうがいい。そんな小話である。

しかし、言葉としては切れが良くて、頭に残る。そんな話は確かにある。特にTVという媒体はそんな話芸が評価される。しかし、だからといって、科学的な話をしているときに、ロジックのない語呂合わせをして語るのは、ヤッパリ良くないネエ。こりゃ、漫談だ。

情報番組という看板を掲げておいて、漫談をするなヨ

何だか、そう思うのだな。