2021年6月28日月曜日

先日投稿の補足: 人材輩出のトリレンマについて

《リーダーシップ》というキーワードは世間の井戸端会議だけではなく、例えば世界中のビジネススクールでも必ず授業として開講されているくらいで、現代社会の大問題になっている。ということは、たやすい問題ではない、ということでもある。

しかし、この「リーダーシップ」とは、どう定義されるものなのかとなると、簡単に合意できるものではないはずだ。実際、ビジネススクールの授業でも「リーダーシップの一般理論」というものはないはずで、したがって授業はたいていケーススタディで進められている(はずだ)。ことほどさように、リーダーシップの成功例と失敗例は枚挙にいとまがない、というわけだ。

数日前の投稿でこんなことを書いている:

人間は一般に

才あれば徳なし、徳あれば才なし

というのが一般的な傾向である。このジレンマを更に敷衍すると:

才能と道徳と勇気とを同時に有することは稀である、というより不可能である

こんなトリレンマになるかもしれない。才と徳の双方をもつ者は果断な勇気に欠けることが多い。才能と勇気にあふれるものは徳を欠きがちだ。徳があり勇気をもつものは才能がないものだ。

才(=作戦立案能力、政策提案能力)と徳(=人望、信頼)と勇気(=果断な実行力、リスク負担力)の三つを兼ね備えた人物など、稀であるし、そもそも存在しないのではないかという主旨である。

これは現実にも当たっていると小生は考えているが、それでも古代ローマの英雄・シーザーや近代フランスの道を啓いた英雄・ナポレオンといったクラスになると、正に上の三条件を兼ね備えた文字通りの「大英雄」ということになるのかもしれない。正に、小生の好きな

天才は為すべき事を為し、秀才は為しうることを為す

という言葉を地で行くような「天才」は時に出現するものだ。前稿でいった「トリレンマ」というのは、厳密には当てはまっていない可能性はある。

しかし、四つ目の条件を追加すると、やはりトリレンマならぬ、テトラレンマが成立しているのではないかとも思われるのだ、な。その四つ目の条件とは《機会》である。

つまり、

  1. 才能(=作戦立案能力、政策提案能力)
  2. 徳目(=人望、信頼)
  3. 勇気(=果断な実行力、リスク負担力)
  4. 機会(=社会的な巡り合わせ)

この四条件を満たす人物は、まずいない。第4条件の「機会」を巡り合わせと注釈しているが、これは要するに「仕事運」のことである。となれば、ヒキやコネも運のうち、になるのだが、これほどの英雄を抜擢する動機はその時点の指導者にはないはずだ。自分が片隅に追いやられるだけのことだから。

めぐり合わせというのは、社会的変動がもたらす好機、という主旨だ。言い換えると、才・徳・勇を兼ね備えた英雄的人物が実際に社会のリーダーとなって未来を切り開けるかどうかは、その時の社会が崩壊・混乱状態にあり、英雄型の人物が覇権を争い、自由に生存競争を繰り広げられるかどうかが必要だ。

こう考えると、五つ目の条件として

5. 保守(=秩序の尊重、安定の維持)

を加えるとすれば、これはもう解の存在しない不能な問題となる。そんな人物が現れるはずがないという意味では、真の「ペンタレンマ(=五重苦)」である。

解決不可能な「何とかレンマ」に見えるものが、実はそうではない別の問題の一側面であるという例は他にもある:

例えば、商品のコンテンツ、費用構造など供給側の条件を所与とすれば、価格と販売とはジレンマである。高価格を設定したいが、価格をあげれば売り上げは鈍化する。ジレンマである。

しかし、価格設定だけではなく、顧客評価を上げるための宣伝(advertisement)も自由に操作しうる戦略変数として追加するなら、価格を引き上げながら売り上げを伸ばすという目的を追求することが可能になる。

一般に、複数の目的を追求するなら、目的の数を上回る政策手段をもたなければならない、というのは経済学では「ティンバーゲンの定理」と呼ばれている古典的な結論である。だから、「解決困難」と一見そう見える問題であっても、実は政策手段を狭い範囲に限定して考えているだけの事は多いのだ。

真の問題は、複数の目的自体に矛盾があり、どんなに政策手段を増やし、どう組み合わせても絶対に解決することができない、その意味では《真の意味で不能である問題》、確かにそんな問題は解決すること自体が不可能であるわけだ。直面している政策課題が、そもそも解決可能であるのか、論理的に矛盾している不能な問題を解決しようとしているのか、その辺の見極めや判断も、専門家の役割であろう。

新型コロナのようなパンデミックの抑制、経済回復という二つの問題は、決してジレンマではないという点については、これまでにも何度か覚え書きにまとめている。原理的には大して難しい問題ではない、ということだ。その意味では、日本は切羽詰まっているという報道が主流のようだが、決してそうではなく、政治行政分野における人材のレベルに帰着するというのが、適切な表現ではないだろうか?

2021年6月24日木曜日

不必要な「ワクチン差別批判」に熱中してガラパゴス化するのは損だ

 Newsweekによると米国・モルガンスタンレー社が思い切った方針を打ち出したそうだ:

米金融大手・モルガン・スタンレーは、新型コロナウイルスのワクチン接種を完了していない社員と顧客を対象に、同社のニューヨークのオフィスへの出入りを禁止する方針。事情に詳しい関係筋が明らかにした。

ニューヨーク市と近郊のウエストチェスターにある同社オフィスに入館する社員、顧客、来客者にはワクチン接種完了の証明書提示が義務付けられ、接種が完了していない場合はリモートで業務を行う必要があるという。

7月12日から適用される。新たな方針に伴い、オフィス内のマスク着用や対人距離の確保といった制限は解除される見通し。

Source:  Newsweek日本版、2021年6月23日(水)10時07分

URL:https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2021/06/post-96560.php

カミさんに話すと・・・

カミさん: それって「ワクチン差別」になるんじゃないかなあ・・・

小生: そりゃ、そうだわな。でも、これって、いまアメリカで進んでいるマスク着用義務解除とかさ、元の日常に戻ろうっていう方向とあってるヨネ。

カミさん: いま位の接種率でそんな風にしていいの?

小生: 積極的に打とうっていう人はもう大体は打ち終わって、あとは「どうしようかな」とか、「私は打たないから」っていう人ばかりになっちゃったからね。ここで思い切って自粛を解除すると、ワクチンを打った人は守られている、だからマスクをしない。で、それを観て、ワクチンを打っていない人まで安心してマスクを外す、外食をする、おしゃべりをする。するとサ、ワクチンを打っていない人や1回だけでやめた人が感染して、クラスター爆発が起こるよね?それが狙いだよ。打っていない人は「キャアーッ」って怖くなって接種する。そうなるじゃないか。

カミさん: そうなの?そんなこと言ってないよね?

小生: 言うわけないだろ。言わない方がいいって政策もあるのさ。「言わぬが花」って諺があるくらいだからね。モルガンスタンレーの方針もそうだな。こりゃ大変だってことになって、迷っていた人もワクチンを打つだろうサ。社会の問題はサ、政府があれこれ指図するより、それぞれの人や会社が、自由にそれぞれが決めていった方が速く解決できるんだよ。

カミさん: でも、どうしても打てないって人もいるんじゃない?かわいそうだよ。

小生: そんな人は、多くいるわけじゃないよ。少ないケースなんだから別に対応策をとればいいよ。大多数がOKなら、まず大多数を相手に手を打って問題をまず解決しておくって方が合理的じゃないか。解決すれば、また別の社会状況になる、そこでまた考えればいいんだよ。

まあ、恒例のようなやりとりだが、こんな話をした。

確かに、カミさんがいうとおり、例えば日本の野村證券が

野村證券は、2022年1月以降、コロナワクチン未接種の全ての社員・顧客に対して、本社屋入館を禁止する方針を固めました。

ないけどネ、もしこんな報道があれば、その直後から「ワクチン差別反対」というキーワードが社会にあふれてサ、大炎上することは間違いない。それで撤回するヨ、と。

思うのだが、「思いやり」や「仁愛」、「弱者救済」という言葉はそれ自体として間違いではないし、尊重するべき倫理的価値である。

但し、「倫理的価値」というのは、どれもがその効果を科学的に観察して定量的に測定できるものではなく、要するに人間の大脳が組み立てた《観念》である。

言い換えると、自然世界は朱子学を代表とする儒教が理論化しているように、《五倫》や《三綱五常》で進行しているわけではない。自然には自然法則が貫徹している。人類社会も自然の一部である。この理屈は、西洋では16世紀以降の科学の興隆以降、骨身に浸み込んできた「ものの見方」である。そうして、宗教や超越的な倫理から人間が解放された。この認識はとても大事だと思う。

自然科学よりは儒学の伝統が上位にあった東洋では、この辺りが非常に弱い。近代になって、技術革新や生活水準向上という面で、東洋が西洋に後れをとった根本的原因は宇宙の本質を物理学(=窮理学)や化学ではなく、純粋哲学、つまりは理念的で倫理的な価値基準に求めた東洋的精神にあった。「なぜ遅れたか」というこの認識では、福沢諭吉の観方に100パーセント賛同しているのだ。「モラル」から発想する態度と、「神」の信仰から発想する態度と、小生は似た者同士にみえる ― もちろん、それはそれで非常に善いわけだが、政治や経済までその線で行かれたり、まして「反進化論」とか「正気の歌」などと言われると、とてもじゃないが危なくてついていけない。イノベーションがもたらす果実を様々な《べき論》で切り分けて超越的に批判する語り口も、福沢諭吉が幕末に語った愚昧度尺度《バカメートル》で測るのが適切だ。

何度も本ブログでも同じ主旨の事を書いているが、

正しい(に決まっている)原理、正しい命題から論理にそって導き出された結論は正しいに決まっている。正しい結論は実践的にも適用していくのが当然である。

現代の日本人ですらこんな思考回路に沿って考えていることが露わになっている例が無数にある。

差別よりは平等が正しく、差別は誤りである以上、差別に該当する行為は絶対に止めるべきである。

この種の議論に何と日本人は弱いことだろう。

カント流に言えば「分析的判断」と「総合的判断」を識別する力が日本人は弱いのじゃないかと感じている。だから「理の当然」とすぐに言い出すのじゃないかと思っている。危ないネエ・・・

すべての命題は、その命題が正しいかどうか、経験的検証を通して判定されなければならない。

近代科学の大前提に《経験主義》がある。実験が可能な時には実験をして命題の真偽を観察する。そうでないときにもデータを統計的に解析することで命題の真偽を検証する。正邪や善悪を、ではない。真偽を、である。偽であると判定された命題について、それが正しいかどうかなどを理屈を立てて論じるなど、頭の無駄づかいである。

より良い結果を志す《功利主義》を「目的のためなら手段を選ばない反倫理的思想」であると非難する人は多い。が、しかし、正しい前提から出発する空理空論を人が信じる社会では、結局のところ、暮らしを楽にし、不安をなくし、幸福な社会を実現するのは無理である。

信念などは役に立たないので持たないことにしているが、敢えていえば、これが小生の信念らしきもの、といえるような気はする。

なので、例え「差別」であるかのように外観は見えるとしても、それが社会的に良い結果につながるなら、それは社会的には良い政策であると。そう思うのだ、な。

そう割り切って、世界の変化に着いて行かないと、またまたガラパゴス化する失敗例を一つ増やすことになるだろう。何しろ「ワクチン・パスポート」や「陰性証明書提示義務」とか、「集団接種」、「強制検査」等々、今後、ありとあらゆる「これまでにないことの制度化」が進んでいくのは確実だ。日本は変わる世界に着いて行くことが大事である。

 

2021年6月21日月曜日

ほんの一言: 五輪問題は、結局のところ《外交>内政》と考えるか否か、になるか・・・

 来月開催が(ほぼ)確実になってきた東京五輪。開会式の観客上限がこれまで説明されてきた1万人ではなく、IOC関係者やスポンサーも上乗せした2万人になる見込みだと言うので、また一騒動になっている。


開催機関(IOC、東京都、実行委)と日本政府と、開催サイドにいる関係者の誰も口にしないが、

パンデミック禍のさ中にあっても、東京五輪を曲がりなりにも開催することがプラスであると。そう考える国際社会(の一部)が現にある。

つまり、東京五輪開催はここに来て文字通りの《国際外交戦略の選択肢》になってきた。来年の北京冬季五輪を考えると、ぜがひでも東京五輪を成功裏に開催しておくことの意義は大きい、と。

どうもこういうことではないかなあ・・・と邪推しているところだ。


だとすれば、仮に東京五輪がきっかけになり、ワクチン未接種者の感染が拡大し、結果として重症者数、死者数が増えたとして、それもまた「国際外交」、つまり「日本の国益」を追求する中での「犠牲」として受け入れる。上層部は(雰囲気として?)こんな風な思考回路で考えているのではないか。そんな気もしたりするのだ、な。

「国」と言ってもそんな名前の人間がいるわけではない。「社会」と言っても、そんな名前の人間が生きているわけではない。すべては観念か、せいぜいが法的にそう決めている人工的構築物であって、自然に実存するものではない。それでも、国で仕事をしていると、「国の利益」や「社会の利益」を語るようになるもので、そんな感性はやったことがあるので小生も分かる。

しかし、詰まるところ、そんな利益は幻である。国の利益、社会の利益は誰かの利益のことである。国益を求めるための犠牲は、言葉のマジック、マインド・コントロールの所産であり、犠牲が出るとすれば単なる犠牲でしかない。

だから、説明しにくいのだと思う。

2021年6月17日木曜日

コロナ禍による社会的混乱はロジカルであり必然かもしれない

コロナ禍の混迷で日本社会には様々な不満、不安が鬱積している。こんな事情は、ワクチン接種先進国では解消に向かいつつあるようだが、外国でも同じだと思われる。

不満と不安は、直面する問題の解決に手間取っていることが根本的な原因であることくらいは、誰にでも分かる。そこで、とりあえず政治家や官庁、その他公的機関にヤリ場のない怒りが向けられるのは仕方がないことだ。偶々そこにいるだけで藁人形のように怒りのターゲットになる気の毒な役回りの人がいるというのは歴史にはよくあることである。要するに、『政治家が無能なので、日本はダメなんだ』という罵詈雑言は、この1年間で大なり小なりどの国にもあったことだろう。

しかしネエ・・・と思ったりする。

確かに《有能な人物》に問題解決を任せるとすれば、日本にだって非常に有能な人物は多々いるはずだ。

しかし、公的権力を行使して感染症蔓延防止、経済再生に必要な政策を実施するとなれば、その担当者は政治家であるか、あるいは政治家が全ての責任をとって委任することになる。となれば、有権者(≒日本人の大半)が信頼し、賛同することが不可欠だ。ところが

有能な人物は必ずしも信頼されるとは限らない

この制約を本当に現代人は理解しているのだろうか?

*** 

最近になって経済学畑で流行している認識だが

感染抑制・経済再生・行動の自由(=人権尊重)を全て同時に実現することは不可能である。

こんな《トリレンマ》が指摘されるようになってきた。

つまり、どれか二つを選べば、残りの一つは実現不能になる。日本は、感染抑制と行動の自由を尊重したから経済が犠牲になった。いわゆる「西側諸国」はそうである。他方、中国は感染抑制と経済再生を重視した。だから人権が犠牲になった。このように、三つ同時は実現不可能、故にトリレンマとなる。

これは新たなトリレンマであって、その昔は国際金融のトリレンマ

「資本移動の自由」、「為替相場の安定(=固定相場制)」、「金融政策の自由」の三つを同時に確保することは不可能である。

これは今でも大学の国際金融論や経済政策の授業で重要な出題範囲であると思う。

今回、新たに「コロナのトリレンマ」が提起されてきたわけである。 

Wikipediaにはこんなトリレンマも挙げられている:

グローバル化(国際経済統合)

国家主権(国家の自立)

民主主義(個人の自由)

例えば、世界市場にビルトインさせながら共産党独裁の国家機構は維持したいなら、中国は民主主義を犠牲にしなければならない。個人の自由を守りながら、グローバル市場の恩恵も受けたいなら、日本は国家主権をある程度まで犠牲にせざるをえない。こういう理屈だ。

***

どの項目を重要視するかは、誰かが決めなければならない。それを決めるのは、政治的に有能な人物でなければならないが、しかしその人物が後の方策を立案するのに有能であるわけではない。人間は一般に

才あれば徳なし、徳あれば才なし

というのが一般的な傾向である。このジレンマを更に敷衍すると:

才能と道徳と勇気とを同時に有することは稀である、というより不可能である

こんなトリレンマになるかもしれない。才と徳の双方をもつ者は果断な勇気に欠けることが多い。才能と勇気にあふれるものは徳を欠きがちだ。徳があり勇気をもつものは才能がないものだ。

いずれにしても、あらゆるステージでトリレンマやジレンマに直面して、

あちらを立てれば、こちらが立たず

という状況が問題解決の現実である。

民主主義社会で、効率的に問題を解決するには、何かを犠牲にするという論理は確かにあるのだろう。ただ、この論理を日本社会がよく理解できるかといえば、大半の人は理解できないだろう。故に、問題が発生してから長く社会の混乱が続くのは、必然的であると言えるかもしれない。


 

2021年6月14日月曜日

一言メモ: パンデミック禍の中での五輪開催と国益

どのTV局も朝から話題にするのは「コロナ感染者数」ばかりで、最近は「ワクチン接種」も主なトピックであったのが、足元では「オリパラ開催」に変わってきていた。それが、今日あたりになると、もう「五輪開催」は既定路線ということになったのだろうか、開くとすれば有観客か無観客か、どちらが「正しい」か、いやはや情報番組(?)のプロデューサーが毎日の編集方針を決めるのに四苦八苦している様子が伝わってくる。それもあってか、各テレビ局ごとにメインにとりあげる話題もばらけて来ており、コロナやワクチンよりは、この夏に予想される集中豪雨被害への対応を早めに話している局もあったりする。

今朝は、朝食をとりながら、「情報番組サーフィン」をしたのだが、カミさんとこんな話をした:

カミさん: (都心への人出増加を観ながら)これじゃあ、オリンピックに観客入れてもいいよネエ・・・

小生: これだけ余裕のある生活をしながら、コロナで大変ですからオリンピックは出来ませんて、欧米は本気には受け取らないだろうな・・・日本は儲けそこなったんで、五輪を開くのが嫌になっちまったんだろうって、こんな受け取り方をされるのが落ちだろう。

カミさん: それはちょっとヒドい言い方じゃない。

小生: 親父がずっと昔に話してたんだけどネ、夏の甲子園で東京や大阪とか、大都市の代表は勝つときは完勝するんだけど、ある程度を超えて大差をつけられると「今日は負けだな」と諦めちゃって、シュンとなるんだよ。で、あっさりと土俵を割るんだって。なんか「都会のチームに大逆転劇はなし」って、そんなことを言ってたよ。まあ、報徳学園の「奇跡の大逆転」もあったりするけど、特に東京代表は淡白っていうか、勝つときは見事に勝つけど、負けるときもキレイに負ける傾向はあるなあ・・・

カミさん: だから何?

小生: もう東京五輪、勝負はついたじゃない(笑)。要するにサ、《あ~あ、もう嫌になっちまったヨ、やめだ、やめだ、こんな五輪、それよりかコロナを何とかしてくれよ》、いま東京都民の心の奥って、こんな感じだと思わない? 東京じゃなくってネ、これが広島五輪か、仙台五輪だったら、ここまで「嫌になっちまった」って雰囲気にはならなかったんじゃないかなあ・・・もう少し、地元で団結して、何とか工夫をして乗り切ろうって、まあ、分からないけどね。

カミさん: そうかなあ・・・東京の人たちの気持ち、わたし分かるけどなあ・・・

小生: 東京がオリンピックを開かせてくれって、頼み込んだんだよ。それも猛烈な誘致運動までやってサ。

カミさん: それはそうだけど、事情が変わったんだから。

小生: 「事情」っていえば、それで済むって話でもないよ。アメリカやヨーロッパは選手団を送るからって言ってるんだからサ。何とか日本には頑張ってもらって、やってくれって、来年には北京であるしさ、東京がひっくり返って、北京は盛大に成功じゃあ、困るっていうのも「事情」といえば「事情」なんだろうよ。

カミさん: でも引き受ける日本人には迷惑だよね。

小生: この世では色々なことが起こるんだよ。いい時ばかりじゃないって事さ。一度開催を引き受けた以上、頑張ってくれって来る方がいうなら、迎える方は出来る限りのことはさせてもらいますって言うのが男だろ。

カミさん: 国に男も女もないんじゃない(笑)。


100年前のスペイン風邪流行の最中にベルギーはアントワープで五輪を開催した。IOCに頼み込まれたようだが、1920年の4月20日から9月12日まで、ほぼ半年間をかけて開いたという説明がWikipediaにはある。100年も過ぎたいまでは「貧相だった五輪」として記憶されているわけではなく、むしろ豪勢だったベルリン五輪の方こそナチスの政治プロパガンダに利用された悪縁が指摘されているのだが、五輪旗が初めて掲揚されたのはアントワープ大会であったし、熊谷選手が男子テニスで日本選手としては初めてメダルを獲得したのもアントワープである。

足元では評判の悪い五輪だが、いざ開催されればIOCは「五輪の意義」について何かを言うのではないか、と。

追い込まれて、嫌がって、総崩れになるよりは、逆境にあっても、というか逆境だから、逆に前向きの新しいトライアルに挑戦する、まあ「心意気」と言っても、いまの日本社会ではバッシングを浴びるのが落ちだろうが、

東京五輪、大変だったが、あれはあれで意義深かったよなあ・・・

と、そんな記憶が残るようなら、日本の国益にも合致するだろう。「いま五輪を開くことがなぜ日本の国益になるんですか」と主張する人が多いが、「国益」を正確に理解するには、人間の器の大きさが重要なファクターになるのも事実だろう。

2021年6月13日日曜日

一言メモ: ジャーナリズムとは「傍観者の仕事」なのか?

この何年かの毎日曜日の習慣は朝の「サン・モニ」である ― 少年時代の青春スターであった人物が今はワイドショー(?)のメンター(?)をやっているのであるから、齢をとるはずだ。

今日の話題は、アメリカの「フロイド殺害事件」を近くから撮影し、それをSNSに投稿して、事件を社会的に認知させる功労者となった女性にピュリッツァー賞が授与されたという報道だった。女性はその後の裁判でも出廷して証言を行った。

受賞者はジャーナリストではなく、たまたま近くにいた一般庶民であって、アマチュアもいいところだ。同じことが日本社会で発生した場合・・・どうだろう?『たまたまそこにいて撮影したという行為に権威ある賞を授与するのが正しい選択なのか? 何を評価して賞を授与するのか? その写真について議論を提起した発言者の方を高く評価するべきではないか?』等々の、あらゆる意見が殺到するのではないか、というよりそんな情景が目に見えるようでもある、こう想像するのだ。

何ごとによらず問題を解決する発端となった人物をフェアに評価しようとする点では多数の合意が確立されているアメリカ社会の健全な常識と健康を感じる。

多分、ありもしない「正解」にこだわらず、「意思決定」で割り切るプラグマティックな強みがこんな所にも表れているのだと思う。そういえば、小生が院生であった時分、大学の向かい側にある喫茶店で暇つぶしをしているときに、たまたま話しが実証的な計量経済学がめざしている目的になり、友人は『ただ役に立つならそれでイイってことだろ? ひどいヨ!なんて下らないんだ! そんな作業が社会科学なら、夕焼けが出てるから明日は晴れだって言うのとレベルは変わらないじゃないか! 真理を探究するって志はどこにあるんだよ!』と、まあ、その計量経済学を専攻している小生を相手に平気で言うのだから、潔いというか、変わったやつだというか、唖然・呆然・慄然の三然の状態に陥ったことがある。

よろず「正解」にこだわるのは、いま「俗悪番組」として批判されながらも人気の高い「東大王」もそうだが、《正解を覚える》ことに重点を置く、《日本的教育》に根本的原因があるのは間違いないが、「日本的経営」の低生産性を批判するマスコミ各社も「日本的教育」を自己批判する努力は、自らの高視聴率を捨てることにもつながるのか、まったくしていないのが、やはりダブ・スタに近い感覚なのだ、な。

それはともかく、サン・モニのコメンテーターである姜先生が

そこにいるのであれば撮影をするのではなく、暴行を止めるように声をなぜ上げなかったのか、ジャーナリズムが意識しなければならない問題は、やはりあると思います。

と、まあ、こんな趣旨の意見を述べていた。TVの情報番組もたまには的を射た発言を放送するではないかと感じた次第。

極端にいえば、殺害現場を目前に見て、声をあげるのではなく、スマホで撮影をしてからその動画をSNSにアップすることでも社会に貢献をすることは可能だ。それこそピュリッツァー賞をもらえるかもしれない。しかし、こんな行為が「勇気あるジャーナリズム」であるとすれば、ジャーナリストとは卑怯者の別称である。そんな理屈になる。

朝乃山関が某スポーツ新聞社の記者とつるんでキャバクラに行こうとしている現場を週刊誌記者に見られたそうである。スポニチ記者は、その週刊誌記者を恫喝して追っ払い(?)、予定通りキャバクラへ向かったとのことである。しかし、もし見つからなければ、週刊誌記者は二人を尾行し、自粛するべき遊興に耽る大関とスポニチ記者を写真に撮っていたに違いない。それで「イイ仕事」をしたことになるのだろう。

しかし、傍観して、特ダネにするのではなく、見つけたなら

自粛要請が出てますヨ。だめですよ、こんなことは!

と警告をするべきだ。こんな指摘もあってよいだろう。

確かに、健全な民主主義社会なら、こちらの指摘がより優先されるべきだろう。マ、詳しい事実関係は知らない。ひょっとして、「行かない方がいい」と警告をしたにもかかわらず、それを打ちやってキャバクラに行ったのかもしれない。それは知らないが、仮に《傍観民主主義》という言葉があったとすれば、それは古代アテネに生まれた《直接民主主義》とも違うし、近代国家がとっている《代議制民主主義》ともどこかが違っている。


2021年6月10日木曜日

FirstTrial(確認)

Blogger投稿の確認

library(tidyverse)
library(GGally)
表示されるwarning messageは、外観がきたないので(何とか整えられそうだが)、削除する。

1. 乱数生成と散布図病列

乱数を生成して散布図を描く。

x <- rnorm(100)
y <- rnorm(100)
z <- rnorm(100)
df <- data.frame(x=x,y=y,z=z)

上の3回の正規乱数を散布図行列にする。

ggpairs(df)
round(sapply(df,mean),3)
x
-0.222
y
-0.114
z
0.056
round(sapply(df,var),3)
x
0.774
y
1.061
z
0.894

母平均は$\mu=0$、$\sigma^2=1$であるから、乱数としては分布型を含めて、まあまあである。数式表示にはmathjaxを使っているが、この辺り、余計なHTMLタグが詰まっていて、ひどく面倒な修正作業がマニュアル的に必要になる。ギリシア文字を含めmathjaxは使わない方がよい。

2. データの要約

data(cars)
dim(cars)
head(cars)
tail(cars)
  1. 50
  2. 2
A data.frame: 6 × 2
speeddist
<dbl><dbl>
14 2
2410
37 4
4722
5816
6910
A data.frame: 6 × 2
speeddist
<dbl><dbl>
4523 54
4624 70
4724 92
4824 93
4924120
5025 85
smr <- lapply(cars,summary)
smr[["speed"]]
   Min. 1st Qu.  Median    Mean 3rd Qu.    Max. 
    4.0    12.0    15.0    15.4    19.0    25.0 
smr[["dist"]]
   Min. 1st Qu.  Median    Mean 3rd Qu.    Max. 
   2.00   26.00   36.00   42.98   56.00  120.00 
lm <- lm(dist ~ speed, data=cars)
plot(lm)

回帰診断のための図がまだあったが、面倒なので、みな削除した。図を多用する用途には手作業の貼り付けが伴い、今回の方式は適していない。


Written with StackEdit.

FirstTrial

これはテスト投稿です。

  1. 目的はRmarkdownBlogger投稿とを融合させる。
  2. Rコードと結果をBloggerの中に埋め込む。

この2点です。

たとえば、jupyter notebookで以下の作業を行った後、markdown形式でダウンロードする。このファイルの中身をStackEditにそのままコピーして、ブログにアップロードすればよい。

乱数を生成して散布図を描く。

x <- rnorm(100)
y <- rnorm(100)
z <- rnorm(100)
df <- data.frame(x=x,y=y,z=z)
library(GGally)
Warning message:
"package 'GGally' was built under R version 4.0.3"
Loading required package: ggplot2

Registered S3 method overwritten by 'GGally':
  method from   
  +.gg   ggplot2
library(ggplot2) # not necessary
ggpairs(df)

ただ、図はあとで別途貼り付けるしかない。もっと良い方法はあるのだろうか?

う~む、それと背景の色でRチャンク部分が色分けされていない。これをどうするか・・・である、な。

・・・

テーマのCSSの中に、

<style type='text/css'>

      .language-r { background-color: #FFFFCC; border: solid, yellow }

</style>

を加筆した。まあ、こんなものか。しばらくはこれで行こう。

Written with StackEdit.

2021年6月8日火曜日

覚え書き: 偶然要因による所得分布の変化という論点

 「成功」、というより「幸福」への条件の一つに、やはり「職業的成熟」というものがあるかもしれない。

小生は、最初に小さな役所で雑用係を始め、その後いまの仕事につながる職業的経験を得たが、一言に職業上の成熟と言っても、『言うは易く、行うは難し』だというのが実感だ。

まずは

器と修行と

この二つが欠かせないことは、誰もが分かる。

しかし、どんなに大きな器であっても、修練を続け、磨き上げなければ、使い物にはならない。そして、器に合った修行を与えうるのは、良い師匠あってこそである。

良い師匠に出会わなければ、決して良い修業はできず、自身が持って生まれた花を開かせることができない。

それだけではない。

良い師匠に出会ったとしても、その時の自分が師匠を受け入れなければ、師匠の話すことを理解できない。修練を続けることができないのだ。

自分の花を育てる良い師匠に、まさに蕾が開こうとする時機に、出会うかどうかは、ただ運のみによるとしか言えない。

もしも職業上の成功と生涯所得とに高い相関があるなら、多くの偶然の重なりで成功は決まるのだから、結果としての所得分布が(高所得層は別として全体的には)対数正規分布に従うのは、理の当然である。

この命題自体は古い結果であるが、次に確認したいのは、時点$T$における所得分布が、時点$T+1$にどのような分布に移行し、その過程で決まる資産分布がどのように変化していくかという問題だろう。

ひょっとすると、もう幾つかの結果は出ているかもしれない。調べてみよう。本日はほんの覚え書きということで。

2021年6月6日日曜日

覚え書き: 新実在論と普遍的価値の存在?

 もともとこんな風に考えている:

データを説明できる仮説は複数あるが、データを説明できない理論は嘘に決まっている。これだけは言える。「潮流」であるかどうかは、どうでもよいことだ。

だから、『こう考えるのが現在の世界の潮流です』と、堂々と語る人物は学問とは縁のない人。よく言えば、思想家、宗教家、政治家ということになるだろうが、要するに自らが信じている価値をただ主張している人である。ま、主張すること自体は自由であるから、現代はよい時代なのだ ― 主張だけで止めるべきであって、政治行動をして、特定の価値感を公衆に押し付ければ非民主主義的な抑圧になるので、要注意人物でもある。

何度も投稿しているが、現実世界のどこを観察しても、善い・悪い(Good vs Evil)を識別できる客観的なラベルは確認不能なのである。善いか、悪いかという識別は、その人が生きている時代に生きていた他の人物集団がどう判断しているかに基づくしかない。それが「社会の潮流」である。分かりやすくいえば「世間の受け止め方」である。従順な人は「社会の潮流」に従うだろうし、反骨心あふれる人は「誰かの信念」に共感して、「これからの潮流」を主張しようとする。それだけのことである。真理を探究する科学者ではない。

投稿したのは去年の11月だが、 同じ主旨のことは何度も繰り返して書いているから(例えばこれも)、これこそブログの役立ちの一つなのだろうが、やっぱり自分が本来もっている観方なのだろう、と。特段「思想」というほどではないが、そう思う。

と思っていたが、最近ブレーク中のマルクス・ガブリエルに関して、次のような説明があった:

新実在論を理解するためにはまずは実在論というものがなにか、何をもって新実在論が「新」なのかについて問う必要がある。まず初めに、実在論とは存在するものを受け入れること、すなわち事実を事実として認めるということである。しかし、この考え方は時に有害なものを内包する危険性があるとガブリエル氏は示唆する。

目の前で起きている事実をそのまま認めるということは、事実から乖離して行動、発言している人間の存在を許容することを追認することにつながる恐れがある。そして、同時に異なる視点が共存することを是とする考え方を彼は相対主義と呼び、民主主義に対する脅威となりうると警鐘を鳴らす。

URL:https://agora-web.jp/archives/2051646.html

新実在論は、形而上学、構築主義と並列してマルクス・ガブリエルは述べているのだが、それによると、例えば

自然科学によって研究できるもの、メス・顕微鏡・脳スキャンによって解剖・分析・可視化できるものだけが存在するのだというような主張は、明らかに行き過ぎでしょう。もしそのようなものしか存在しないのだとすれば、ドイツ連邦共和国も、未来も、数も、わたしの見るさまざまな夢も、どれも存在しないことになってしまうからです。しかし、これらはどれも存在している以上・・・

出所:マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)

生きている間に視えるにせよ、視えないにせよ、意識するにせよ、空想したりするにせよ、夢にみるものにせよ、一切合切が「事実」としてはあると、まあ雑駁にいえばこうなる。


すいぶん以前になるが、こんなことを投稿している:

そもそも「生命」は、変化の相に存在することは明らかだ。生は変化であり、一定の状態への復帰は死を、いや死後の解体プロセスの行きつく先を意味している。

この意味では、小生は『万物は流転する』といった古代ギリシアの哲学者に賛成するものだ。だから、変化が時間の中で生まれうるものである以上、「人間」にとっての「存在」とは「時間」に他ならないと考えているのだ。

「知性」も「思考」も時間の次元においてのみありうる人間の営為である。つまり「プロセス」である。そうである以上、プロセスに従って変化している何かがそこには「存在」していることになる。簡単に言えば、知性も思考も《現象》であって、《存在》と言うべきではない。《存在》は時間ではなく、空間の次元において使ってこそ意味が通る。・・・とまあ、小生はこれ以外の思考を行うことができない。ま、ここにこそ、構築主義の誤まりがあるのだと、新実在論者は指摘するだろうことは分かっている。

だから人間社会をとりまく《自然》の中で、善や悪といった《標識》なり《ラベル》が人間とは関係のない状態の中で認識可能であるとは想像できない以上、人間社会の倫理や価値は約束事、つまりは一つの時代の中で意味をもつ歴史的な潮流であって、決して法則ではない。民主主義も同じ、現代という歴史的断面に現れた一つの価値である、と。であるからこそ、民主主義の将来もまた将来予測の対象となりうる、と。そんなことを書いて来たわけだ。 

人間社会における倫理的価値を論じるなら、蜂の社会、蟻の社会に存在している倫理的価値を考えてもよい。おそらく、(人類とは無縁だが)そんなものがあるのだろう。ひょっとすると、蟻や蜂という種族に埋め込まれた遺伝的特性かもしれない。だとすれば、何かが存在していて、そんな行動特性が現象として現れている。こう考えられる。もしそうなら、蟻の倫理、蜂の倫理という言葉で指示される客観的存在があることになる。が、それは蟻の特徴、蜂の特徴であって、人間の特徴ではない。また反対に、人間社会の倫理的価値は蜂や蟻という生物には意味のない事柄である。時空を超えた普遍的価値としてあるのではない。というより、《価値》という言葉自体、人間を前提した言葉で、ヒューマンなものであって、人間を超えた自然な、ナチュラルな意味までを持つ言葉ではない。

どうやら今日はかなり否定的なことを書いたようだ。


そういえば、思い出したのでついでに加筆しておきたくなった。最近、触れることが多い三島由紀夫の日記の昭和30年8月4日に以下のような記述がある。最後の個所である:

・・・とにかくわれわれは、断固として相対主義に踏み止まらねばならぬ。宗教および政治における、唯一神教的命題を警戒せねばならぬ。幸福な狂信を戒めなければならぬ。現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ理性のほうが(誤った理性であろうが)、人を狂信へみちびきやすいことである。

あらゆる事実を受容すると言いながらも、(明らかに)有害なものを警戒するという姿勢は、結局のところ何を受容してよいかというスクリーニングを誰が担当するのかという段階で、21世紀の中国共産党とさして変わりがない思想になるのではないか、そう思ったりもするのだ、な。

2021年6月1日火曜日

一言メモ: これまた痛快なほどの「ダブ・スタ」だねえ、という一例

テニス・プレーヤーの大坂なおみ選手が開催中の全仏オープンの試合後記者会見を拒否したというので《世界中で》物議をかもしている。

いやはや、物議をかもすにもスケールというのがあるものだと感じ入ってしまった。

ところが、世間の受け取り方はかなりネガティブなものである。例えば、

大坂なおみが全仏オープンで義務付けられている記者会見を拒否する姿勢を示し、事実、一回戦勝利後、それを拒否したため、大会主催者側より約165万円の罰金と今後の出場資格停止の警告が発せられました。この行動、賛否両論あるのかもしれませんが、少なくともメディアから聞こえてくるのは大坂なおみに対する厳しい声が多いように見えます。(メディアを敵に回したので当然かもしれませんが。)

私はナダルやジョコビッチ、更に錦織選手らが大坂なおみへの違和感の声を上げる前、つまり、初めて報道を目にした瞬間、大坂なおみは判断を間違えたな、とつぶやいていました。

URL: https://agora-web.jp/archives/2051686.html

たとえばこんな意見が非常に多い — 大坂選手が何か「正しい判断」をしなければならなかったとすれば、どんな「正しい判断」をしなければならなかったのか、「間違った判断」をしたらダメなのか、その主旨がよく分からなかったのだが。

仕事をしている人は、誰でもルールに沿って《正しい判断》をしなければならないのだろうか?

そもそも「進歩」というものはどのようにして生まれるのだろう?

そもそも「パワハラ」という現象の多くは、ルールを適用するという次元において、多々発生しているのではないだろうか?

思うのだが、何か組織的ビジネスの現場で、ある種の行為、何かの受容がルール化されており、それが強要されている状態の下で、それが嫌でたまらない人が声をあげるとする。そうしたとき、世間は「パワハラ」を疑うものであるし、現にそうしてきて社会の風通しは随分よくなってきたはずだ。

複数の当事者がおり、一方が他方に何かの受容を強制できる状態をつくっている場合、どちらの側がどちらの側に行うかは分からないが、ほぼ必然的に(セクハラ、マタハラ、その他の一般的ハラスメントもそうだが)パワハラに該当する現象が発生することは、ここ近年の世界的現象であったはずだ。

それは嫌です!

と言う人が現実にいるわけであるから、それを強要してきたのは、いかにルールがそうであっても、それはパワハラではないか、ルールに問題があるのではないか、という議論をしてきたのが、最近の社会的価値観そのものではなかったのだろうか?

痛快なほどに見事な(メディア側の?)《ダブ・スタ》がここには見える。


《ルールの明文化》は、特にここ2,30年にめだつ一種の流行だが、一人一人の私的合理性がバランスする社会的な均衡状態があるなら、敢えてルールを明文化しておく必要はない。自動車が左を走るか、右を走るかは、放っておいてもどちらかに落ち着く。ルールは、交差点の安全を実現するための信号もそうであるが、同調ゲームにおけるシグナルとして機能するべきツールに過ぎない。ルールが現実に望ましいあり方で機能しているかどうかには、常に目配りが欠かせない。


徒然: 「器」ってものは確かにある

 器が大きい、器が小さい、と言う表現は、ずっと以前ほどではないが、今日でもよく使われている。

小生は、典型的な「器の小さい人物」である。大雑把な傾向があり、本質論を好むのだが、仕事柄身に着いた性癖なのだろうか、微細な箇所が気になり、転換点、変化点を検知する作業が大好きである。

微細な箇所が気になるというのは、幼いころからそうであったことを思い出す。先日もかかりつけの医者から言われたが、性格的にも、体質的にも《繊細》なのだろう(と思う) ― その割には、人を接遇することが大の苦手で、大広間の大宴会が嫌いで、前後左右の人がどんな話をしたいと思っているのか、その辺の感度が鈍いのは矛盾していると自覚しているが、これも人間本来矛盾の塊であると開き直っている。

「大宴会が嫌い」と書いたが、数人規模の飲み会は実は大好きで、もっと少なく2、3人で馴染みの小料理屋に腰を落ち着けて、深夜2時か3時頃まで座談に興じるなどは、いくらやっても飽きることがない。

つまり、小生は《四畳半を明るくする程度の器》である。もっと謙虚にいえば《行燈くらいの器》である。とても大広間を明るくする光度などはなく、まして世間に影響力を行使するような大きな器などとは無縁の人間だ。

企業のトップは、やはり器の大きな人物が就いた方が、会社はまとまるであろう。大学の学長もそうである―何事にも異論を出すことが自分の役割だと心得ている人物が多いのでそのぶん器は大きくなければならない。

この理屈でいえば、政治家もまた同じである、Statesmanという位だから、国家規模で統合の要になりうる人物でなければならない。Google Dictionaryには

statesman: a skilled, experienced, and respected political leader or figure.

と説明されている。これがWebsterでは

 a wise, skillful, and respected political leader

二つの共通集合をとると、政治技術(Skill)と尊敬(Respect)、指導者(Leader)が一流の政治家がもつべき特性であることが分かる。

う~ん、これだけ完璧な人物なら「器が大きい」ことに疑いはない。

というか、寧ろ、とっている政治技術がいかに陰湿で、謀略的であっても、器の大きさによって尊敬され、であるが故に指導力をもつ。因果関係はこうなのであろう。

その政治技術がいかに謀略的であっても、規模雄大であれば器の大きさを感じて人は感じ入る、細かなことで謀略と密談を繰り返して道を開こうとする、こんな風だと周りの人は才能よりは小さな人間をそこに見ることになる。

とすると、志が雄大であれば汚い政略や謀略も真っ当な方法に見え、小人物が同じことを真似てみても、ただ狡いとしか感じない。

この辺に、功利主義的な社会哲学と、経験に先立つ観念論的な倫理哲学と、海流が互いに混じる境界域がありそうな気もする。

確かにそんなところはあるネエ・・・浮世は舞台、人生は一場の芝居、主役と脇役ってえものが自然とあるのサ。この1年のコロナ禍で色々と分かってきたことも多いのではないだろうか。