2020年10月3日土曜日

『なにも悪くはない、愚かなのだ』という見方

新型コロナ感染拡大で日本中が政府ともどもオロオロと狼狽しているときに『韓国に感染拡大の防止策を教えてもらえばいいのでは』とか、『韓国にPCR検査支援を依頼すれば』などと言うと、嫌な顔をされたりする。

定額給付金支給で露見した日本のデジタル化の遅れ。遅れを取り戻すには、細かい反論をシノゴノ述べず、『韓国の真似をすればいいのでは』などと言うと、酷くバッシングをされて、「ここにもいるヨ」などとささやかれたりする。

こんな傾向が近年の日本社会で非常に拡大している感覚を実はもっている。


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すべて日本社会の「見栄」であって、「虚栄」であると思う。

こう言うと、倫理的な問題指摘だと解釈して、「べつに見栄は悪くないと思います」、「虚栄のどこが悪いんですか」と、そんなパターンの反論が余りにも多く、一般的に観察されるようになった。なにも「善いか悪いか」という倫理の話しをしているわけじゃあないのに…。これもまた「倫理意識過剰」の現代を象徴しているのだろう。なにしろ「国家公務員倫理規定」などが公的に定められている時代である。何かを議論すると、それがそのまま倫理の話しにされてしまう時代だ。

それほど「善いか、悪いか」が気になるのだろうか?大事な事なのだろうか?

広い世間では「アナログ志向って悪いことなんですか」、「マイナンバーカード普及率が低いのは悪いことなんですか」、「現金を信じることは悪いことなんでしょうか」と、こんな機械的表現がまるでルーティンのように多くの人の口の端にのぼっているのだろう。だとすれば、これまた最近のボキャ貧現象を象徴する話法ではある。


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何度か投稿しているが、そもそも善と悪との線引きなど不可能だと小生は思っている。善と悪は人間社会が創り出した言葉であり分類のための符号である。自然には存在しない。「〇〇は悪いんですか」という問いかけは、「神様はいるんでしょうか」という質問にも似て、客観的な実在世界を観察して実証しようがない問題である。カントはそれでも実践理性を位置づけて倫理もまた客観的実在であると議論したが、小生はそこは怪しいと思っている。

ヒトが物の世界の中で生きている限り、ヒトの内心はヒトが創った世界で「真実」とは違う。人がつかう「言葉」は、その言葉を使う人々の間に興奮を一時的にもたらすことは可能かもしれないが、ウソだと分かれば無に帰する。力をもつのは「真実」だけである。サルが言葉を使うならその言葉はサルの間でのみ意味をもつ。サルの言葉が力を持つならそれは言葉の中に「真実」が含まれるときだけである。だから、小生は『政治で大事なのは言葉でなく権力である』と考える立場にいる。

話しが戻るが、『〇〇は悪いことなんですか』という問いかけに対する回答は、『別に悪くはないサ、いいか悪いかはどうでもいい。ただ愚かである』。頑固であっても悪くはない。知らなくとも悪くはない、弱くても悪くはない、遅くても悪くはない、貧困でも金持ちでも悪くはない、ウソは悪いと人は言うが誰でも嘘はついているだろう。他力本願の阿弥陀信仰の世界では、人はすべてそもそも悪い存在であるという真実の認識から話が始まる。

悪くはない。ただゝ「愚か」なのだ。そう言えることは世の中に多い。


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『なぜ私たちが愚かで間抜けだと?どういうことですか?』。善悪ではなく真偽を考える真っ当な議論はここからスタートする。しかし、こんなやり取りをマスメディアでお目にかかったことは一度もない。同じ日本人から言われれば立腹して「そうかよ!」と言うことを、外国人に指摘されれば真面目に考える。小生も当てはまる。狭量な日本人の特性がここにもある。諦めにも情けなさにも似た感覚で小生はそう思うことが多い。


Die Wahrheit ist das Leben des Forschens. (真実は研究の命である)

ずっと昔、経済学者・大内兵衛の『経済学50年』を読んだことがあった。師の高野岩三郎から著者に贈られた色紙の写真が掲載されていた。その言葉を引用したのだが、不思議に今まで忘れずに来た。

研究の生命は学説や論文を発表することではない。「真理」が命である。問題指摘も提案も大事である。他にも大事な事は色々ある。しかし、真理を伝えたい、なぜそれが真理であるのか、厳しい実証を愛する心の余裕がなければ、どんな言葉も空っぽであると言わざるを得ない。

研究だけではなく、日常生活でも大事な事ではないだろうか。真実は残酷であることもあるが、真実を知ったうえでの行動だけが結果に結びつく。この理屈だけは時代を超えて変わらない。


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