学校の運動部で体罰は許されるのかで世の中結構盛り上がっているようだ。
誰かが話していた。「体罰に頼るというのは、指導者が勉強不足だと思うんです。技量をあげるための方法がこれだけ進歩している中で、練習方法をよくするのではなく、できなければ体罰を加える。これは指導者の力不足ですよ」。・・・まあ、ほかにも100を超える理屈を作り出せるだろう。願わくば、自らの仕事において、ビジネスや研究開発を前進させる真に創造的なロジックを構築してほしいものだ。それがイノベーションであり、その人がやるべき最も大切なことである。
「進歩」というのは、思い通りには、なかなか捗らないものである。ちょうど開こうとする花にも似て、水をやりすぎても、放置しすぎても駄目である。そして開く花は形や大小、色合いだけが大事なのではない。良く咲いた花だけを残して、あとを摘んでしまうとかえって台無しになることもある。大きな花だけをとって花瓶に活けてもダメである。だからこそ華道も成立すれば、茶を点じるための花も別に選ばれてくる。
学校で行うスポーツは、原則は自己修養=自己完成のために行うものだろうが、勝負には勝ちたいはずである。勝てば、その勝利が学校の名誉、OBの満足、親の満足、町の名誉につながる場合は特にそうである。今回の悲劇は事故であったと言い切ってしまうと亡くなった人には大層気の毒である。とはいえ、不祥事が絶対に起こらないようにせよと言ってしまうと、トップには有難く、すべての学校が安全に練習するようになれば、それが一番良いのだろうが、その時にはハードな練習に敢えて挑戦した学校が勝利をもぎとる確率が高まるであろう。
人間は努力するものであり、敗北よりは勝利をつかみたいと願う動物である。この本性が変わらない以上、<やりすぎ>による負傷や死は、どれだけ練習システムが改善されても、根絶することはできないだろう。ちょうど陸上競技の記録がどこまで伸びるのか見当がつかないように、人間の努力がやむ時は永遠に訪れないし、努力する限り失敗の悲しみを飲み下すことも時に必要だろう。
数字や勝ち負けで結果がはっきり出てくるのがスポーツだが、芸術でもコンクール、展覧会における受賞がある。そんなことをいつも考えるようになると、やっぱり音楽、美術の世界でも不祥事が発生するメカニズムが形成されてくるものだ。
前の日曜日にアップした作品に虹を入れるとどうなるか試みに描いてみた。細部は少し変えているが、大体は同じである。
虹は光の魔術だから、光と格闘した印象派の巨匠クロード・モネなら虹を描きこんだ作品が一つはあるはずだ。そう思って探してみたが、画集にもネットにもどこにもないのだな、これが。本当に一つもないのだろうか?
ただモネが範とした英国人ターナーは何枚か虹を描いていた。
Turner, The Rainbow, 1835
Source: A Tale of Two Sisters
う~ん、大胆にして、シンプル。そりゃ、歴史に残る大画家と一素人である小生の絵を比較しても仕方がないのは分かっているが、ある人にはできて、ある人にはそれができない。時に、不思議なものだと思う時がある。
高校のバスケットボールであれば、「お前もできるはずだ、できないのはやる気がないからだ」と。そんな風に言うべきだと考える指導者もいるだろうし、むしろそう言ってもらうと、はじめて奮起できる若者も多いのではないだろうか。
夫婦と同じく、師弟も本当の胸の中は当人どうしにしか分からないものである。
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