2021年10月26日火曜日

断想: 「齢をかさねたマルクス主義者」を思い出す

今日は漠然とした投稿。

まだ10代の頃だったか、父から《マルクス主義》という言葉を初めて聞いたときの情景を覚えている。具体的に何歳だったのか思い出せないが、小生は非常なオクテであったから、《マルクス》という人名も正確には知らなかった。ましてや、そのマルクスがどんな思想をもっていて、どんな主張をしていたか、その頃の小生の知識には入っていなかった。

若い頃にマルクスに関心をもたないとすれば、その人はどこか問題がある。

そして齢を重ねてもマルクス主義者である人は、その人はどこか問題がある。

確か父はそんな風なことを語っていた記憶がある。

若い頃に関心をもった理念を生涯を通して持ち続けるのは、それ自体はすごいことじゃないかと、そのときは思ったものだが、その頃の父より齢をとってみると、ある意味、父の言っていたことは、その通りだと。父はひょっとして、誰か具体的な人物例を頭に思い浮かべながら、そう話していたのかと、改めて思い出したりする。その頃の父は、新規事業の立ち上げを任されながら、事業提携先の労使紛争激化で物事が進まず、懊悩の極にあった。


TV画面にもよく登場する(自称?)「専門家」という人をみていると、若い時分にはラディカルな反政府運動で随分名をあげていた人もいる。そんな元・活動家が、今は政府からも一目置かれるような政治評論家になっていたりする。

そうかと思えば、若い頃は地味で真面目な学徒・研究者であったのが、いつしか「●●主義者」に変貌し、いまでは反政府的な発言で世間を煽り続けている。そんな人もいる。

前者は、父が語っていた人物観によれば、典型的な人生航路を歩いてきたことになる。他方、後者は上とは真逆の逆コースを進んできたわけだ。


まあ、「人はいろいろ」だから、好きなように人生航路を選んで歩けばイイのだが、やはり若くて世間との係わりが少ない時分はどうしても考え方が純粋で、それ故に反権力、反政府的な怒りをぶつける気持ちになるのは、仕方がないと小生は思っている。それが、齢を重ねるにともなって現実の資本主義社会で自分も給料を得て、その中で仕事をして実績もあげてくると、自分が生きている生活基盤自体が「間違っている」と否定する心情にはならなくなるものだ。これも自然な感情であろう。何か問題があれば、問題発見と解決法を提案すればよいわけで、もし自分にそれだけの能力があれば、問題解決のために汗をかけばよい。


若い時分には問題意識をもたず、現実の社会を受け入れておきながら、齢を重ねてから批判的な姿勢を強め、ついには反権力、反政府、反執行部の立場から自分が現に暮らしている社会を声高に非難するという生き方は、ちょっと小生の感覚には合致しない。何だか<あつかいにくい犬>と似ている。


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