2021年10月5日火曜日

ホンノ一言: 論功行賞人事は「自然の理」だと思うのだが・・・

 ずっと昔から、世間の話しで分からないことがある。それは

論功行賞人事はよくない

という話しである。

新しく発足した岸田内閣にも論功行賞人事がうかがわれる、というので批判的に論じる人が多い。

なぜいけないのかナア?

という疑問がずっと昔からある。

例えば、民間企業の人事では、年功序列は(それなりの根拠はあったが)今では非合理な慣習として批判のターゲットになり、事後的な《成果主義》、事前に推測できる《能力主義》が良しとされている。おそらく、論功行賞人事がダメだという人は、<功>や<行>ではなく、<能>や<才>を評価基準にするべきだ、と言うのだろう。

まあ、実際に可視化された<功>や<行>と、その人の<能>や<才>とはまったく違うのだという見方も、結構突っ込みどころはあるのだが、マアマア、分からないでもない。

それならば、今回の岸田内閣では当選回数3回以下の若手をはじめとする初入閣者が多数指名されている。その人物たちにどれほどの「能力」や「才能」があると期待されるのか? どんな仕事ぶりをしてきた人物であるのか? そういう点に関心を集中させるのが理に適うのだが、どうもそれとも違うらしいのだ。「そういうことではなく、選挙で争った大物をなぜ使わないのか」と。要するに、高市早苗幹事長、河野太郎官房長官のような布陣をなぜしかないのか、と。どうもこういうことらしく思われるのだ、な。


どんな分野であれ、その世界の「四番バッター」を総ざらいして獲得して、ドリームチームを編成すれば、当然ダントツだよね。負けるはずがないヨネ、優勝できるよね、と。人気も出るよね、無敵だよね、と。

何だか子供が考えそうな、「政界のオールスター」、「政界のオリ・パラ」を願望する心理が透けて見える・・・

しかしネエ、というのが小生の感想である。

政治は、ショーでも、エンターテインメントでもないし、単なる人気商売でもない。日本社会全体のマネジメントが仕事で、必ずしも事務手続きが定まっておらず、(内外の)利害対立や不確実性が基本にあり、そんな問題の(政治的)解決/方向付けを請け負うプロ集団が政治家であるのが理屈である。求められるのは政略や交渉力、決断力、勇気などの政治的対応能力であって、人気ではない。民主主義社会では人気はいるが、人気一番である必要はない。人気はソコソコあれば十分で、過ぎればかえって束縛されて決断が鈍るだろう。この大原則を忘れて論評するのは、非常に滑稽にみえる。人気ばかりを論じれば、出てくるのは誰かサンのような<政治俳優>、<政治女優>である。

人気が高まるなら互いの見解が違っていてもどうでもよいというわけにはいかない。俳優や女優であれば脚本どおりに演技して話芸を見てもらえばいいが、政治家はもう少し高等で中身のある仕事である。

「選挙」で勝った側が影響力を強め、負けた側は影響力が弱まる。これは民主主義社会(に限らず全ての人間社会)の原理原則で、ルールであるとすら思うのだが、どうなのだろう?

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