2021年10月28日木曜日

覚え書き: 古い投稿を読み直すことが役立った一例

何度も書いているが、ブログとはWebLogの略称、つまり「航海日誌」という意味合いで、「作業日誌」と言えばそれですむ事柄ではある。それをWeb上に保存するからブログと呼んでいるのだが、このご利益は世界のどこにいても書けるし、読める。これが最大の利点である。さらに強力な検索機能があり、ノートを持ち歩く必要もない。これらの利便性から世に普及したわけだ。


時々、以前のブログを眺めるだけでも「思考の再発見」、「問題の再確認」に役立つことが多い。例えば、


仕事の方向性を決めるのは部下ではなく、上司、というよりトップであるが、全員が目的感を即座に共有できるわけではない。故に、日常の習慣としては上司の身になって、聞いた言葉の真の意味を思い返すことが習慣となっていた。これが「忖度」である。

自分の属する組織はプラスになる事をやっていると信じなければ仕事をする気にならない。しかし、組織は目に見えず、自分こそ組織であると信じるのは自信過剰だ。なので、まずは上司の真の意図を理解しようと努める。当たり前であったな・・・・。


こんなことを2年前に書いているのだが、すっかり忘れていた。これに関連して、追加的な疑問が浮かんできた。



ごく最近、世間で強調される言葉に《リーダーシップ》がある。「トップがリーダーシップを発揮して・・・」とか、「いま求めても得られないのはカリスマ性というもので・・・」など、「リーダーシップ」という意味の言葉が、色々な場面で、色々な期待をこめて、使われている。特にマスコミ業界に従事している人は頻用している印象がある。


ところが、引用した上の文章通りのことを公の場で主張すると、


仕事の方向性を決める前に、まず人の声に耳を傾けることが大事です。独善はいけません。コミュニケーションを忘れるべきではありませんヨネ。


というコメントがほぼ確実に誰かの声になって、はね返ってくるはずだ。つまり、これが最近の世相であって、おそらく誰しも同じ印象をもっているのではないだろうか?



鎌倉時代に数度にわたる弾圧にも諦めず自らの主張を貫いた日蓮の言葉


敵百万人ありとても我ゆかん


という強い意志こそ、リーダーシップにつながっていく本質ではないだろうか。


人の声にまず耳を傾けて・・・というのは、リーダーシップ型の人物像とはかなり違うし、ましてカリスマ型の人物とは180度正反対にあると感じる。


西郷隆盛はカリスマに近かったが、それは配下の薩摩武士の総意を代弁していたから、「数の力」で指導力を発揮できたのか、それとも薩摩武士の集団が西郷隆盛と行動をともにしようと集まったのでリーダーでありえたのか?つまり「人望」というのは、自分たちの願いを聞いてくれるから多くの武士があつまり人望となったのか、反対に西郷隆盛の願いをかなえてあげたいと人が共感し、多くの人が集まったので人望ができたのか?


小生は後者だと思うのだな。というのは、「総意」というのは崩れやすいものであるし、もっと願いをかなえてくれそうな人物が現れると、そちらに流れる可能性がある。一方、特定の一人の人物はブレることさえなければ、一貫した一人の人間として生き続け、実存し続けるわけだ。どちらがリーダーシップに近いかは明らかだと思われる。



「総意」というものについては更に議論がある。


経済学の消費者行動理論では、消費財の組み合わせに対するその人の選好を順序集合として前提するが(効用関数を前提するといってもほぼ同様だが)、一人一人の中では矛盾のない選好であっても、多数の人間集合について社会的選好を多数決によって定めようとすると、それはどうやっても矛盾が発生する。非論理的なケースが出てくる。つまり、社会的な順序付けを定めるのは不可能であることが分かっている。いわゆる《アローの不可能性定理》である ― 肯定的な結論であれ、否定的な結論であれ、このような問題意識をもって純粋学問的な探究を続けること自体、民主主義国がその民主主義を本当に深めることの努力の証でもある。


明らかに両立しない矛盾した要求が言葉となってマスメディアにしばしば登場するのは、


世間とはそういうものだ


といえば、それですむ話しだが、むしろそれが「世論」というものの本質であって、それに振り回されてしまえば、政治的意思決定そのものが非論理的になるのは必然の結果だ。


なので、一人のトップが最終決定者としていなければならないのは、当然の要求である。世論の矛盾は世論形成の限界として認めることが、どんな民主主義にも必要である。



最近の世相について小生が疑問に感じるのは


かたや「強いリーダーシップ」と、かたや「多くの人の声にまず耳を傾ける」という基本原則と。一体この二つはどうすれば両立するのだろうか?


ということだ。率直に言って、この二つは両立しないと思う。


実際には難しいでしょうが、優れた人はこの二つのバランスをとれると思うんですヨネ。


と割り切ってしまえば、「それは確かにそうだよね」となるわけだが、しかし「それはそうだよね」というのは、つまりは当たり前すぎて、実は何も言っていない、何も結論付けていないということなのである。現実の社会に落とし込むには、矛盾だと思われる問題に対して、ハッキリと結論を出さなければならないし、そのための議論や時間や手間を惜しんではならない。


基本方針を定めることは、足元の利益にはならないが、長期的にみて自分たちが強くなる必要条件であるからだ。


逃げてはいかん


というのは、やはり一般的な通則であるようだ。


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