東海道新幹線がまだ「夢の超特急」と呼ばれていた頃、小生は父の勤務する事業場がある伊豆の三島市で暮らしていた。いよいよ東京・新大阪間が開通して、三島から(まだ三島駅がなかったので)熱海乗り換えで東京まで1時間ほどで行けるようになった時、日本中が新幹線の最先端振りに誇りを感じたのだろうか、その頃の祝賀ムードはまだ記憶に残っている。中には『鉄道発祥の地イギリスの田舎ではまだ蒸気機関車が動いているんだぜ』、『ホントかよ!』などと、「昇る日本、沈む英国」を象徴するような大法螺もどこかで聴いたような覚えがある ― 本当にその頃イギリスの地方へ行くと蒸気機関車がまだ現役で走っていたのかどうか、調べてみたわけではないが、ずっと時が経過した後、イギリス人のAndrew Lloyd Webberが創ったミュージカル「スターライトエクスプレス」の中では、日本の最先端列車「新幹線」を排して、旧型の蒸気機関車が観客の拍手喝さいを集めるという筋立てだったことを思い出すと、本当にイギリス人は「蒸気機関」という技術に対してプライドをもっていたのだなあと、今更ながら思う。
小生が、某経済官庁に入って小役人の修行を始めたころ、ファックスが先進的な通信技術であった。共同通信から24時間送られてくるファックス・ニュース。シュウシュウと音を立てながら吐き出されるファックス紙には、刻々と最新の情報が印刷されていたのだが、大学では目にしたこともなかったその風景に小生は脅威を感じたものだ。ジョン・レノン暗殺事件を知ったのもそのファックス・ニュースによってだ。
いまやファックスは時代遅れの技術の象徴であるが、ここ日本ではまだ現役である。小生の両親が眠っている霊園とのやりとりはファックスか電話に限定されていてメールは利用できない。季節が来ると予約の有無を問い合わせてくる三笠市の山崎ワイナリーもファックス送信用の注文書を封書で送ってくる ― さすがにここはメールでも注文を受け付けているが。
ファックスばかりではない。買い物ではやっと電子マネーが増えてきたが、近所のスーパーのレジではまだ現金で支払っている人が多い。それも高齢者に限らず若い人を含めての事である。戸籍謄本を遠方から取り寄せたい場合、申請用紙をダウンロードして印刷し、紙に記入してから封書で送る手間をかけている。
昨年の「特別定額給付金」という名称だったかナ、オンラインで申請した内容を東京都内の某特別区では一度プリントアウトした後、記入の誤りがないかどうか担当者が読み合わせをして、それをクリアしてから給付手続きに入ったそうで、オンライン申請は人手がかかるので紙で申請してくださいという笑い話のような要請を区民にしたそうだ。
そんな情況をみて、中国や韓国の国民が日本社会の古臭いモタモタぶりを嘲弄していたと耳にすることが多い。これは丁度、小生の少年時代、日本人が遅れた英国人を嘲弄したのと同じことだろう。
その英国にも、日本は労働生産性や実質賃金上昇率、経済成長率など多くの指標で再逆転されてしまっている。20世紀後半の50年間の蓄積があるので、遺産を食いつぶしながら、まだ経済規模では英国を上回っているが、このままのペースでいけば経済規模でも再逆転されて日本の国力は明治から大正にかけての頃とそう変わらなくなるに違いない。
イギリスも古いものを残すことにこだわりがあった国だ。日本も、何でもそうだが、古いものが残る国である。
必ずしもそれが悪いとは小生は思わない。日本を訪れる外国人観光客、その中には中国や韓国の人もいるわけだが、多くの人は日本社会の魅力の核心として「古い文化がなくなることなく溶け込んで残っている」という点をあげる。
古い文物は100パーセント一掃して、すべて新しいものに切り替えれば、確かにその時代のトップランナーになることは出来る。しかし、そんな戦略を日本人は本能的にか、賢明にもか、あるいはノロくてバカだからか、拒絶するのだな。何だかそこに日本人に対して海外が感じる安心感、というか魅力があるようでもある。つまるところ
与えるものは愛され、勝利を求めるものは愛されず
人間社会の鉄則はいまも生きているのかもしれない。
盲腸は手術をして切り取ってしまえばいいわけでは必ずしもない
これはずっと昔、近所の医師から聞いた言葉だ。そのお陰で、一夏のあいだ虫垂炎で苦しみながら、小生の腹の中にはまだ盲腸が残っている。
不要になったものがまだ残っている。が、残りはしたが目に見える実質的な機能はもう担っていない。「盲腸」にまで退化している。この点こそ、最も大事な着眼点であろう。
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