2022年7月13日水曜日

断想: 「自業自得」という理屈を言うと、いずれ自分を害することになりますヨ

元首相の背後に「統一教会」という(ずっと以前から)極めて著名な宗教団体があることが分かり、国内のメディア業界は記者クラブ所属であれ、その他の自由取材を旨とする会社であれ、俄かに力こぶが入って来た模様。マスコミはこの種の話題が大好きである。

いま世間に多い意見は

統一教会に家庭を破壊された犯人の心情と、その恨みを元首相にぶつけて殺害するという行動とは、分けて考えて置かなければならない

まあ、良識論というか、理性派というか、比較的こう考える人が目立つようだ。

そういえば、戦前の昭和7年に起こった5.15事件で犬養毅総理を殺害した海軍将校・三上卓中尉には多くの日本人から助命嘆願、減刑嘆願が寄せられたのだが、そこでもまた

現職首相を殺害したという行動と、国の事を心底から憂慮するという愛国の心情とは、分けて考えておくべきである

こんな理解の仕方が当時の日本人には多かったものと見える ― 今回の安倍元首相の暗殺事件をみる目線と方向性が真逆なような気がしないでもないが。方向性は逆であるが、日本人というのは、「あれから90年経っても変わらないもんだネエ」と。やはり「思考の国民性」というのがあるのだろうかと感じる次第。

こんな理解の仕方が増えてくると、親の死に目に会えないからと車をとばし、運悪く過失によって人を轢いてしまった気の毒な青年に対して

人を轢いたという行為と、親を心配して病院にかけつけようとする親孝行の心情とは分けてみておく必要がある

そんな理解の仕方にもつながっていくに違いない。

昨日の投稿でも書いたが、なぜそのような結果がもたらされたかという因果関係論と、そう行動した目的は何であったのかという目的合理論とは、同じ出来事を理解する異なった別々の観点であって、矛盾した理解の仕方が両方から出てくるとしても、何もおかしくはない。

殺されて当然という一部の過激な議論は、犯人はそうせざるを得ない環境、というか情況に置かれていたのであって、自分自身が思う安倍元首相との関係性の下で、そう行動することを寧ろ心理的には強いられていた。つまり事件は半ば必然的に発生したのである、と。そういう風なことを言いたいのであろうと思う。が、そう考えるのであれば、それが世界観なのであるから、今度は自分自身が何者かによって殺害されるという「悲運」に至っても、それはあくまでも「悲運」なのであって、犯人はそうせざるを得ないから半ば必然的にそうするのである。自分の身に悲運が降りかかる場合でも、こういう議論をしなければならないことになる。他人に降りかかる事件は自ら引き受けるべき運命、自分に降りかかる事件は許されない犯罪、・・・こんな勝手な世界観と言うのは理屈としてはないわけである。

厳格な因果論に立てば、法律で裁くということ自体、道理に合わなくなる。法的裁きの根底には、行動の背後に主体的な動機と目的を認め、それが善であるか悪であるかという倫理的判断を加えるという、そうした裁く側の論理がなければならない。

例えば、(いかなる状況下でも)自分は人を殺害しない、と。自分に対して自分の意志が特定行為を禁ずる。全国民がこう意思決定をして、実行すれば、過失を例外として殺人事件は一件も発生しない理屈だ。戦争も発生しない。と同時に、個人の自由意志も守られている理屈だ。『歎異抄』13条の親鸞のように

わがこころのよくて殺さぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人を殺すこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

人生を縁と業から理解する世界観はそれはそれで異様なほどの説得力をもつ。しかしながら、『決して人を殺さじ』という自分自身の良心の要求を受け入れ、それを義務として従うという倫理もまた人間であるための条件である、というのは歴史、というより自然史の歩みの中で、人類が獲得した知識の一つだと思っている。その意味でも

知は力なり

である。知は科学技術のみを生むわけではない。今回の暗殺犯が幼少期から置かれてきた境遇には(報道を通した伝聞に過ぎないものの)同情を禁じ得ないが、バランスのとれた真っ当な知識を吸収する機会を与えられなかったことにも非常な悲哀を感じる。



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