2022年7月17日日曜日

ホンノ一言: 「殉職」による2階級特進を連想しました

安倍元首相の「国葬」について、結構、異論がある様子で、こんな状況では海外から弔問に来日する方々も日本国内の一方の勢力に加担するようで何だか気が引ける、もしこんな居心地の悪さを感じさせてしまうとすれば、どこか葬式当日に衆人環視の中で家庭内不和を露呈する遺族のようでもあって、実に決まりが悪いというものだ。

国葬だろうと、国民葬だろうと、内閣・自民党合同葬だろうと、小生にはどうでもよい。『あっしには関わりないことでござんす』と思うが、ほとんどの人にとっても、事情は同じじゃあないか。盛んに発言している人は、要するに、野党議員か何かで反安倍関係者であるか、でなければ暇で、時間がタップリあって、何かの思い込みがあり、発信しないではおられないのだろう、と。そんな風に憶測しているのだが、だから悪いってことではありませヌ。職務は職務で、信条は信条で、忠実に為さればよろしい。幕末、尊皇攘夷に燃えた志士たちも、その時はその時で、マジで「攘夷」と叫んでいた。もし長生きしていれば、めでたく倒幕を成し遂げたあと、正反対の方向に国が進んでいく非条理な現実を見ざるを得なかった。非命に斃れた人こそ夢の中で死ぬことが出来た。その意味では寧ろ幸福であったかもしれませヌ。

大村益次郎が上野の山に立て籠る彰義隊を掃討するため砲撃を加える様子をよそに、ウェーランド(Francis Wayland)の『経済入門(The Elements of Political Economy)』をテキストに授業を止めなかった福沢諭吉は、確かに一つの見識ではあった。

為すべき事を為すという選択にも、その人の感性、志は反映されるものだ

ま、そんなところだろう。


「安倍首相」でブログ内検索をかけると、長期間にわたって内閣を率いたからか、夥しい投稿がかかってくる。その中でも、まだ第2次政権初期の頃であったが、その頃の投稿で記した感想はずっと絵画の下塗りのように主観的な印象を彩り続けた。


明治維新以来の歴代の国葬、国民葬で送られた人たちをWikipediaでみると、元首相はやはり「国葬」というより、「国家、もしくは国家機関が関与した葬儀」であるほうが、ピッタリと来るように感じる。ではあるが、元首相は選挙遊説中に凶弾に斃れたいわば「殉職」に該当する。のであれば、二階級特進があっても、おかしな処遇ではない。理解は出来る。そんな人も多いのではないだろうか。

まあ、そうであっても、現職総理として「殉職」した原敬、浜口雄幸、犬養毅といった人たちは「国葬」でも、「国民葬」でも送られていない。どの人も、在任期間は長いとは言えないが、信念のある歴史に残る名宰相であった。殉職ではないものの「大正政変」で志半ばで急逝した戦前の大宰相・桂太郎ですら、国葬・国民葬いずれでもない。更にあげれば、普通選挙導入を決断した憲政会内閣の総理・加藤高明は総理在職中に病死したが、やはり国葬・国民葬から外れている。原敬と加藤高明の二人を外せば、近代日本のデモクラシーは語れないはずだ。それでも外れている。やはり与野党対立が激しかったという時代背景が見送り方にも影響するのであろうか。

とすれば、今のように元首相をどう見送るかで、異論・反論が出始めているのも、これはこれで自然な成り行きである。

色々と感想を書いたが、結局、どれほど大勢の人が別れを惜しんで集まるか。単なる「国葬」であるか、「国民葬」であるか、何であるかは、形式ではなく、結果としての実質で決まる。これに尽きるのだろう。

ただ冷静に事の進展を観ていれば十分ではないだろうか。よほどの政治好きでなければ利害得失には縁のない話だ。面白い資料がネットにある。

簡単にいえば、

これが岸田首相の政治のやり方である

異論を出すなら反主流派、賛同するなら主流派。そういうことだと思う。マ、言葉の意味だけから考えれば、「国葬」の意志決定ができるのは国家元首以外にはないはずだ、とも思われるのだが、そこはコロナ対応でも明らかになったように、法的筋論には緩い日本ならではの<融通がきく>という長所でもあるわけで。全ての性質についてアリストテレスが<中庸の徳>として強調したように、ルーズでイイ加減であるという短所の裏面にはフレキシブルであるという長所がある。



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