2022年7月26日火曜日

ホンノ一言: 国内大手メディア企業のジャーナリズム失格が伝わってくる言葉の一例

加筆:2022-07-27


小生にとって《現代日本メディア企業批判》は何だか話題が枯れた時のキラー・トピックになってきた感がある。今日もそんな話題で・・・


日本国内の(ちゃんとした?)大手マスメディア企業は、もうずっと以前から《報道精神》、というか《ジャーナリスト・スピリット》というか、まあアメリカで言えばピュリッツァー賞にも値するような報道を長時間(かつリスクの伴う)取材に基づいて敢然と行う、こんな意志などはとっくに捨てているという事実は、国内メディアなどはもうどうでもよいと見切りをつけた小生にもハッキリ感じられてくる今日この頃である。

新聞、出版物というより政府から事業認可を受けている大手電波メディアに当てはまるのだが、最近もまた報道現場の基本姿勢がよく表れる言葉を耳にする:

いまの法制度では・・・とならざるを得ないわけです。

いや、マア、腹が立って仕方がない。

何を言いたいのか、と。

問題意識があるならば、「今の法制度がこれで良いかどうか考えるべき時です」と。率直にそう伝えればいい。いまの法制度の問題点を具体的に指摘すればよい。国会の怠慢を批判すればよい。New York TimesやGuardianのようなリベラルの証になるだろう。反対に、今の法制度を良しとするなら、「法の裁きとして受け止めるべきでしょう」と。ズバリ、そう伝えればよい。これならFox Newsのような保守系として筋が通る。


何だか21世紀になった頃から接客現場、営業現場で流行り始めた

取りあえず・・・させて頂きますネ

という言い回しと同じ価値観が共有されているではないか ― フランクに『・・・しておきます』と言えば済むことだ、と感じるのが世代ギャップなのだろう。学校のクラスで宿題をやってきたかどうかを聞かれた生徒が『宿題、させて頂くつもりでしたが、忙しさの余り休ませていただきました』なんて言えばギャグとしてもブラック過ぎる。シンプルに『テレビをみたのでやって来ませんでした』と言わなければ意味が通じない。但し、こんな価値観というか、感性が共有されている空間は日本という狭く限られた範囲ではある。イヤ、かなり昔、ある時代劇で『アヤツ、殺しますか』と言う所を『アヤツ、死なせますか』と言ったセリフには笑ったものだ。まさかふざけ半分のコミカルな台詞が大真面目にビジネス現場で使われるようになるとはネエ・・・


マ、ともかく、メディアは、伝えるべき事実を取捨選択している段階で既に暗黙のうちに一定の価値観を主張している。にも拘らず、報道する言葉の表現においては、自社の立場を曖昧にしておくというのは、あまりに不誠実だ。

こんな鳥だか獣だか分からない 蝙蝠 こうもり だか ぬえ のような報道姿勢は、不愉快というよりも、気持ちが悪くって仕方がない。

こんな気色の悪い報道姿勢は(それほど事情に精通しているわけではないが)欧米、というか海外では稀なのじゃないだろうか ― そもそも自社の立場を曖昧にするという戦術で損にこそなれ得にはならないだろう。


経営の勘所は《選択と集中》とよく言われるが、これは商品メニュー、つまり製品戦略について言っているのではない。潜在顧客の全てに売ろうとするのではなく、自社製品を高く評価する顧客層を選んで集中せよ、ということだ。裏からいえば、その他の顧客は切り捨てよ、ということである。「視聴者はすべて神様です」などと考えているようでは、早晩、日本の民間放送業界は絶滅するであろう。全国民向けのNHKが存在すれば十分だ。

視聴率をメイン・インディケーターに置く限り、『選択と集中』などはスポンサーの手前、夢であることは分かっているが・・・というか、スポンサーを選び、コンテンツを絞るということか・・・やはり、広告媒体ビジネスである地上デジタルとショッピング・エクスペリエンスを提供するデパートと、基本的にはオワコン化しつつあるのだろう。

日本国内の大手マスメディア企業が、(ごく一部を除いて)軽んじられ、見限られつつある流れは、今後ますます加速するのではないかと予想している。

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