2022年7月2日土曜日

電力不足?: 「東電」という会社は元のように復活可能なのだろうか?

 今年は東京電力が実質国有化されてから10年目になる。節目となる時機だという主旨だろうか、今年初の日経ではこんな風に書かれている:

東京電力が実質国有化されて2022年で10年になる。11年の福島第1原子力発電所の事故をきっかけに、持ち株会社制の導入、他社と火力発電事業統合など経営改革を進めてきた。今なお福島の復興は道半ばで、収益改善は原発再稼働頼みという体質を変えられていない。成長戦略を描き実行できなければ、次の10年も停滞しかねない。

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC204RZ0Q1A221C2000000/

Source:日本経済新聞、 2022年1月3日 4:00

小生の印象でしかないが、仮に東電が所有する新潟県柏崎原発 — 福島原発は第一、第二とも廃炉が確定済みである ― が再稼働するにしても、東京電力という企業に対して日本人の信頼が戻ることは、ちょっと無理ではないだろうか。稼働中であっても、些細な理由で停止命令が出る事態が多分頻繁に生じるのではないかと予想している。真っ当な経営にはならないのではないか。

つまり

東京電力が原発施設を運営するのは、ほとんど「不可能」とは言えないまでも、国民の大多数が抱く強い拒絶感を政治家は無視できないのではないか?

内閣支持率、与党支持率が急低下する政策は、いかにそれが理に適っているとしても、実行は無理なのである。それが民主主義社会だということは本ブログでも何度も投稿済みだ。 

良薬は口に苦し、良言は耳に痛し

この格言は民主主義社会には応用できない。例え良言であっても、国民が反発すれば「間違っていた」と謝罪を求められるのが現実である。 

なので、東電という会社が元のように復活することはない。電力会社としては《死に体》であると言っても過言ではない。そう思って観ている・・・一面的に過ぎるのかもしれないが。


どうしても首都圏、というより日本国内の電力供給安定のために、原発施設を再稼働するのであれば、東京電力とは別の責任主体が存在しなければならないのではないかと感じる。

というか、東京電力は現在も無配である。マア、公的資金が注入されているので仕方がないが、それでも株価は北海道電力とほぼ同水準、というより本日現在で北海道電力の株価より高く、500円から600円程度を目安として変動している。東日本大震災前に比べれば、随分下がったが(北電はともかく)公的資金も返済できない東電にしては(?)むしろ意外なほど安定している。

北電は(原発を停止しているとはいえ)配当利回りが4%台である。高利回りだと言える。電力株は一時代昔なら退職サラリーマンの絶好の投資先であったのだ。繰り返すが、東電は無配である。持っていても仕方がない。値上がり期待だけが保有する動機である。国有化されたのは「潰れる寸前」であったからだ。そんな東京電力が北海道電力と同水準の株価をキープしている。この事実に戦後日本の資本主義がもっている限りないイカガワシサ、と言うか「汚らしさ」が象徴されているように感じるのは小生だけだろうか?


悪いことは言わないから(?)、『日本原子力発電公社』を設立すればいい。先ずは新潟・柏崎原発を国有財産にして経営分離させ公共企業体として電力供給に当たればいい。売電収入は財政再建にも寄与するだろう。民営化と公共企業体とのバランスはいま逆方向に振れ始めている。年金保険は赤字体質になり民営化で効率化する方がよいが、エネルギーは安定した利益が見込める分野だ。安定した利益が見込めるからと言って、民営であるべきだという結論に必ずしもならない。これも認めるべきだという現実がここにある。そういうことではないか。民主主義社会は理屈通りにはならない。やはり《現実》を観なければならないということだ。

同じことはずっと昔にも投稿したことがある ― 予測が小生の生業なものだから、何でも予想の対象にするのは半ば趣味なのだ(例えば、この投稿では長期予測の棚卸をしている)。


最近、どこかで読んだのだが(ポール・ナース『What is Life?』だと後で分かったので引用部分も直しておいた)

数学は完璧を目指す学問。物理学は最適化を目指す学問。生物学は、進化があるため、満足できる答えを目指す学問だ。(ステップ5『情報としての生命』から)

満足できる答えとは「何とかやっていけるやり方をみつける」という意味である。最大効率、最短経路が実現されるわけではない。故に、生物は複雑化の一途をたどる。非合理、かつ非効率にもなる。

生物の集団である社会も同じなのだろう。現実の社会は、最適化から発想する物理学的センスでは本質を把握できない。生存のための工夫の積み重ねが現実の社会をつくると理解するべきなのだろう。最近流行の用語を使えば《自己組織化》ということだ。一度破壊してゼロからやり直すほうが効率的なのだろうが、そうするには余りに調整コストが巨大になる。

出来ないことは出来ない。ならぬものはならぬと同じことです。

やはり現実を直視して実行可能な選択肢から最善の方法を選ぶべきということか。


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