2022年7月31日日曜日

コロナ第7波: 政府は一体どうするつもりなンでしょうネ?

加筆:2022-08-01、2022‐08‐03

2019年末近くに登場したCovid-19ウイルスを知らない人は世界にもう一人もいない程の馴染みになった。文字通りの《馴染み》である。

「馴染み」から「順応」、「順応」から「共存」へは生存のためには決まりきったルーティンだ。この理屈に抵抗してみても矛盾が表面化するだけだ。これが本来のロジックなのだろう。

インフルエンザもそんな軌跡をたどって今では馴染みの感染症になった。つまり、勘所は「慣れた」という感覚をいつ持てるのだろう、という点だけだ。


小生の学生時代を思い出そうとしても、毎年のインフルエンザ流行についてはスッカリ忘れてしまっている。ただ、大雑把な目安で1シーズンに1千万人が罹患して、1万人が死亡する、大体そんな目安だったと記憶している。

それを確認しようとネットを検索してみると(ここが情報化社会の利点だ)、以下の図が得られた。


URL:https://honkawa2.sakura.ne.jp/1955.html

インフルエンザを死因とする死亡者数データは確定した数値が得られ難く、毎年の超過死亡数から推定するしかないわけで、その推定方法によって結果は異なるものだ。それでも、マア、上の図を見ながら感じる所をメモっておきたい。

まずインフル死亡者数1万人というのは大仰で、高度成長時代であっても多い時に7~8千人というオーダーである。その後は大きく低下したが、2000年に入って以降、死亡者数は再び増え始め、最近年は3千人程度で推移していた。

ずっと以前にはなかった特効薬が現在はあるとはいうものの、例えば『タミフル』が本当に特効薬という名に値するかどうか、色々意見はあるようだ。実際、死亡者数は最近になって増加してきているが、これは多分、高齢化の進行によるものだろう。

いずれにしても、日本人の10人に1人はシーズンが来るとインフルエンザに罹って不思議ではなかった。小生も学生だった頃にはインフルで病院に行ったものだが、投与されるのは解熱剤と雑菌に感染しないための抗生物質だけだった — それでも大いに安心したものだ。マア、後知恵だが薬の効能としては、寧ろ『麻黄湯』、『銀翹散』などの漢方薬で十分だというのが、薬学的な説明なのだろうが、それでも余病を併発しやすいアレルギー体質である小生としては予防的な抗生物質には信頼を置いていたものだ。現在は、抗ウイルス作用のある『板藍茶(=板藍根)』を日常的に愛飲しているので、この10年程は風邪にもインフルエンザにも罹ったことがない。

要するに、特効薬がなくても、やれることはあるし、投与できる薬はある。


いまコロナ第7波というので世間は浮足立っている。

例えば<インフルエンザ>でブログ内検索をかけると、例えばこんな投稿がかかってくる:

確かに2019年末に確認され世界に拡散した新型コロナウイルスによる混乱は、程度の見方に違いがあるにせよ「ブラックスワン」、ある意味で「アノマリー」とも言える異常変動であった。それが、既に地球上に拡散し、定着し、今後の新型コロナ感染はウイルス側の変異と人類側の免疫適応とのバランスがとれた定常的な進化プロセスに収束していくだろう、という予測である。

日本人の感性であれば上の引用のうち

集団免疫力が高まるにつれ、死亡者数はいずれ大きく減少するだろうと同氏は言う。その代償として、コロナに最も感染しやすい人々の間で病気や死亡が増える公算が大きい。

という「言葉」には、それなりの社会的反発があるだろうし、世間の反発を怖れる日本国内のマスコミは、決してこんな表現はしない、もっとマイルドな文章で「一部の識者にはこんな見方をする向きもある」などという言い方をするはずだ。日本は何事も人の心を忖度する「ものも言いよう」のお国柄である。

とはいえ、小生は『アメリカ人ならこんな考え方をするだろうネエ』とも思った。


上に引用したのは、Wall Street Journalの2021 年 12 月 24 日付け記事に感想を述べたものだ。

中国のように<ゼロ・コロナ>の基本戦略を当初方針通りにどこまでも徹底するか、西洋のように<コロナとの共存>に舵を切るか。その中間の道を選んできた日本は、今に至ってから「さてどうしたものか?」と、道に迷っているようだ。情けないナア・・・

社会的合意に到達できないでいる日本の悩みは深い、というところか。

実は、《社会的合意》を文字通りに実現しようとすれば、言うは易く、行うは難し、である。

民主主義社会で実現可能であるのは《相対的多数の合意》に過ぎない。それを社会的合意として擬制できるのは、あらかじめ整備された法に基づいて議決するという《手続き》によるからである。

たとえ共産党支持者であり、共産党が国会で反対した法案であるにもかかわらず、いったん可決された法律には日本国民として従う義務があるのは、そのためである。

戦前期・日本のように総理大臣の任命と国会の多数党とが必ずしも連動しなくともよい制度の下では、内閣が求める法律や予算案を可決できず、政治的な不安定性を解消できない事態もあったわけだが、現在は議院内閣制である。内閣は多数党が編成する。故に、必要なことは国会で議決できる理屈だ。

にも拘わらず、日本全体として何か漂流している感覚が蔓延しているとすれば、国会が意思決定するに至らない。与党が多数党としての統治責任を果たそうとしていない。その理由を推しはかると、政権与党が相対的多数としての意思を貫こうとすれば、その議会運営振りに国民が反発して、次の選挙で敗北するかもしれない、と。そんな心配が先立って、多数党が少数党に遠慮する。そんな憶測もあったりするわけだ。だとすれば、一見筋が通っているように見えるが、まったく滑稽で奇妙な話であろう。

多数党が、議会で多数を占めている事実に基づいて、政党の目的を達成しようと努力しないのであれば、そもそも議会を中心にした民主主義が機能するはずはない。

行政、立法を含めて、「政治」への責任は、最終的には、時の政権与党が集団として負う。野党に責任はない。

世間では国会が紛糾して審議が遅れるとき、野党の対応を批判する御仁が多くいたりするが、反対だ。政策の企画、審議、実施は与党に完全な責任がある。野党には全く責任がない。野党が行うべき仕事は政策の評価だ。でなければ、「政権交代とは一体なんですか?」と聞きたいくらいだ。

これが今日の結論のようなものだが、7月最後の投稿だ。もう少し思いついたことをメモっておこう。

少なくない人たちは

投票率が50%か、60%である状態で多数を占めても、その結果は真の多数とは言えない

と、こんなコメントを加えることだろう。極端な物言いだと「投票率50%で半数の支持を得ても、全体の中では25%の支持を得たに過ぎない」と。ホントにネエ・・・阿呆じゃないか、と。未投票の半数は全員が不支持に回ると思い込んでオル。統計学(に限ったわけではないが)の知識から自由な御仁は(文字通り)自由自在に屁理屈を展開できるものだ。古代社会を支配した迷信と同じだ。

出口調査の結果と最終結果との間に大きな差は生じない。逆に言えば、何分の一かの票を集計するだけで全体の結果は概ね分かるということだ。極端な事をいえば、投票者を有権者という母集団からランダムに抽出して投票率をせいぜい1%に抑えても、結果の信頼度はそれほど大きく揺らぐものではない。投票率がたとえ90%を超えるとしても、政党別当選者数は実際の投票率で得られた結果と大きくは違わないことを確認するだけだろう。選挙の投票率が低いという問題は、世論とかけ離れた結果になることではなく、民主主義の土台である参政権行使への意志が弱まってきているということにある。

投票率の低下はむしろ今日の議会運営が招いた最終的な結果だという見方もある。選挙において多数を占めても少数野党への過剰な配慮を常に求められる。多数党の目指す政策を(なぜか?)実現できない。であれば、選挙結果とは関係なく、社会全体の最大公約数的な政策だけが進められる。どの党が勝とうが、多数を占めようが、選挙の前後でほぼ何も変更されない。となれば、投票しても結果は同じだ。だから、しない。確かに一つのロジックだ。もちろん別の見方もある。与党の政策には反対だが、野党が弱すぎる。だから最初から投票しようとはせず、諦める。投票率が上がれば野党の得票率は上がっていたはずだ。本当は与党の議席数はもっと少ないはずだ。こんな主張もあるかも。これもロジックだ。何だか白紙委任状を出して総会を欠席しておきながら総会決議にクレームをつけるマンション居住者に似ている面もある。まだ問題はあるという指摘もあるだろうがキリがないので止める。

なにが真相であるか分からない。

ともかく、こんな風では政策方針を変えるツールであるはずの選挙制度は機能しない。世界のどの国においても、選挙は戦いの場である。それは勝った側が目指す政策を実現できるからだ。こういう情況になれば、日本の投票率も必ず上がるはずである。

というより、たった1日の選挙の結果に基づいて、勝った側の政党が負けた側の反対を押さえて自党の政治目標を追求する状況を許してよいのか?日本人の心の奥底にはこんなホンネが見え隠れしていると感じるのは、小生だけだろうか?だとすると、ホンネのところでは、日本人は「選挙不信」、「与党不信」、「反・多数派支配」の感情を隠しもっている ・・・。まさかネ、とは思う。が、人様の気持ちだから、分かりかねるところがある。マ、そんなところだ。

議会の為すべき職務は、必要な法を立法する。法改正が必要な法はサッサと改正する。当たり前のことだ。行政府に「うまくやってくれ」では法治主義に反する。

議会の与党は、自党の代表者である総理と内閣に圧力を行使するべきなのである。仮に、内閣が自党とは異なる官僚組織の主張に従っているとみられる場合は、政党が中央官庁の意志を押さえ込まなければならない。民主主義の本質は、そうすることが制度上できる、という点にある。これ以外に民主主義の強みが何かあるのだろうか?

《政治主導》というのはこういうことだろう。国内のマスメディアも、内閣の無策を非難するよりは、議会の怠慢を非難する方が本筋だろう。調べてみればいい。G7諸国の国会の中では、日本の国会は最も仕事をしていない立法府になっているはずだ。人的資質のレベルが平均的に低いのだろう。候補者選定の党内手続きに問題があるに違いない。マスメディアは、A議員やB議員など個別議員に露見した金銭スキャンダルや、もっと下らない失言の類を、芸能ゴシップよろしく指弾するよりは、日本の<政党>というものに対して、もっと強い関心をもたなければならない。そう思うのだ、な。マ、マスメディア社内にも人材の多様性があるはずなので、解剖医のように政党内部に切り込んでいくような蛮勇(?)をもったメディア企業が日本にあるのかどうか、小生にはそこまでは分からないが。


ヤレヤレ、今日はコロナから政治主導とその泥船的様相に内容が飛躍した。まとまりのない投稿になってしまった。




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