2022年8月22日月曜日

断想: タコつぼ社会と責任の取り方、意外と根は深いようで

<現場を知らないダメな上>とは世界でもよく口にされる日本評だ。

もしこの「ダメな上」が客観的真相であるとすれば、ダメなエリート達を作っているのは、外ならぬその現場であるかもしれない。これもまた真実ではないか。そう考えるようになった。いわゆる「タコつぼ社会・日本」の議論である。

タコつぼ社会・・・誰だったかなあ、これを言い始めた人は?

そう思って、調べてみると戦後日本有数の政治学者・丸山真男であった。名著『日本の思想』に登場する概念だ。

読んだのだがナア・・・ドラマと同じで、忘れた部分が多ければ、再見も初見も同じである。かといって、本もドラマも暗記しておく必要はないのも事実だ。知識の形成は難しい。

さて、タコつぼ社会的な台詞の例としてこんな言い方がある。

現場は現場に任せてくれ

しかし、こればかりを言っていると、中枢部から現場視察に来たエリート達に弱みを見せたがらなくなる。弱みをみせると現場の責任を問われるかもしれない。それは怖い。そんな現場の雰囲気が出来る。それで、問題個所を中央には隠そうとする。

確かに現場の問題個所は現場に原因がある場合もある。その一方で、現場の問題は全ての現場に共通するシステマティックな原因から生起しているものもある。

そのシステマティックな問題点を確認するために、中央のエリートは現場を頻繁に観なければならない。しかし、それを嫌がる雰囲気が日本の現場にはある・・・。だとすれば、現場を知らないダメな上を作っているのは、当の現場である。それも一面の真実ではないか。


とはいえ、問題によっては、現場がいくら頑張っても現場では問題解決できないときがある。そんなシステムレベルの問題もあるのだ。

一般に、客足の悪いレストランがあるとして、

責任はホールやシェフにあるのではない。経営者にある。

「誰かがそう言ってました」が、けだし名言である。小さな問題の原因は現場にあるが、大きな問題の責任はトップにあるわけだ。

ということは、現場レベルを超えた大きな問題を解決する責任は中枢部にある。解決できなければ、中枢部が責任をとらなければならない。

それが出来る仕掛けになっているかがポイントである。

実は、タコつぼ社会ではそれが出来ない。

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おそらく、現場は現場の責任にされるのを嫌がって問題を隠し、エリートは責任を追及されるのを嫌がって問題個所を発見しようとしない。そんな実状だろうが、だとすれば、根底にあるのは《責任》という観念が実際の場でどう働いているかである。

問題があり解決が求められている時、現職の首を思い切って切り、新たな人物を充てる方がシガラミを断ち切り、速やかに対応できる・・・そんな組織戦略が有効な状況は確かにあると思う。日本史にもよくある話だが、江戸・旧幕時代では、問題が発覚した時の責任者が「問題が発生した」という理由で腹を切り、新たに着任した人物がその後の対応をするという解決手法がよくとられていた。現在の日本社会にすら、そんな感覚が色濃く継承されている。

しかし、環境が激変する時は、システム全体が危機に陥るので、問題は構造そのものに原因がある。そんな状態で現場責任者に切腹ばかりさせていると、最後には人材が一人もいなくなるのは当たり前である。実際、幕末の最終段階ではそんな人材切れの状態に近づいた。

責任の取り方と人材活用と。どちらを優先させるかは時代環境によって違う。

こんな当たり前のことは誰でも分かっているはずだ。

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2022年という現時点の日本社会でも、伝統的で固いモラル観を前提にした議論が後を絶たない。

19世紀後半の幕末、1920~30年代の国際政治環境の激変期には、日本の政治システムが対応できず、常にハードランディングを演じてきたのは、戦争モードと平和モードの転換が社会レベルで出来なかったためだろう。

戦争モード単一社会は<総動員体制>になって息苦しい。が、平和モード単一社会も<平和ボケ>が露呈して大きな問題に対応できないという欠陥がある。

「戦争」を「緊急時」と言い換えても議論はほぼ同じだ。

「戦争モード」と「平和モード」と、この二つのモード転換を行う責任をもつのは、統治構造のトップ、つまり明確に定義づけられた国家元首以外には考えられない。


ところが、日本においてはその国家元首が、実は平安時代に遡ってまで、ずっとハッキリしない。「と思っている」と言う方が正しいが、明らかな事実だろうと主張したい。

岩波新書『日本の近現代史をどう見るか』(シリーズ日本近現代史⑩)の第2章『なぜ明治の国家は天皇を必要としたか』にはこんな指摘がある:

天(天照大神)と君主が血統で直結していれば、「革命」は起こりえず、仁政を否定し人民を戦争にかりだしても君主権はゆるぎません。「万世一系」はむしろ近代にこそ”適合的”な君主論であり、・・・

こんな下りがあるのだが、これを読んだときは大げさに言うと目から鱗が落ちるような気がしたものだ。

君主が徳や仁を失えば「天」に見放され革命(王朝交代)に至る、という考え方

これが伝統的儒学の認める「易姓革命論」なのだが、もしこの古い政治哲学を日本人が確固として持ち続けていれば、1930年代以降の軍国主義が日本で進行することは、社会理念上、容認されなかったはずだ。他方、幕末時の危機においては、儒教と水戸学に忠実であった最後の将軍・徳川慶喜は、文字通り、統治の責任をとって「大政奉還」したわけだ。


統治権を脅かされることがないという建て前の天皇に仕えるのが官僚と言うエリートであった。天皇の臣下であるエリートが統治の対象である国民の暮らす現場にどう向き合うかと言えば、

統治責任を負うことなし

という姿勢になるのは非常にロジカルな結果である。であれば、国民の側にさまざま発生する問題を解決する責任は現場にあり、つまり国民の側にあり、トップにつながる上層部には責任が及ばない。こんな法理が導かれるのは自然だ。そして、こんな法理が認められるなら、究極的な統治責任につながるような構造改革が実質的な革命と意識され、実行不能になるのも、ロジカルな結論としては自然である。こうして「保守派」の岩盤が整う。

むしろ連帯責任が原則の江戸幕府においては<タコつぼ社会>という感覚は希薄だったのではないか。それは武威を背景に形成された<幕府>という実力政権が、統治責任を天皇の朝廷から奪い去り、自らが引き受けていたというロジックにも適うことだ。だからこそ政治状況に応じて<倒幕>という行動が理屈としてありえたわけだ。日本史の教科書では「明治維新」と現在でも書かれているが、「明治維新」は統治権の移動、その後の激しい社会変動を伴った明らかな「革命」であった。それを日本では「革命」と呼んでいないのは、「革命」を認めない明治政府の方針があったからだ。

そこで議論は、本稿の中段に戻る。

「万世一系の天皇」という概念は結果責任を含めず

という理屈になる。その原理が戦後日本の統治構造にも水で割られたウイスキーのように残っている。

「ダメな上」と「頑張る現場」とは、言い換えれば、「無責任な上」と「責任を怖れる現場」という言い方になるだろう。

《責任》という概念と《天皇》という伝統と。前者は「(最後は)国家元首が負うべきもの」であり、後者は「(永遠に)不可侵」。この二つは水と油だ。不可侵な存在は、理屈上、統治システムの中に居場所はない。現在のイランは、「神聖」なイスラムと統治という「俗事」を代表する二人の元首を置いていて、まるで江戸時代の「ミカド(天皇)とタイクン(将軍)」を連想させる。日本は未整理なまま21世紀を歩もうとしている。このまま行けるのだろうか?そんな大きな問題意識に思い至っているのだな。


話しが広がり過ぎた。今回はこんなところで。


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