2023年5月6日土曜日

断想: 「美しい」という言葉の意味もマチマチなようで

三島由紀夫の長編小説は(中身を今も記憶しているか、していないかは別として)大体は読んでいるが、その中で『美しい星』は未読であった。そもそも主人公が「宇宙人」であるという設定と作家のイメージとがどうにも整合しない感覚があったのだ、な。それをGWでどこに行っても混雑するので拙宅に引きこもって読んでみた。

評判では、終盤も始めになるが、白鳥座61番星の遊星から来たという人類撲滅主義者達との論争が『カラマーゾフの兄弟』の名場面である「大審問官」に匹敵すると言われているようなのだが、<神 vs 人間理性>というか、<信仰 vs 共産主義>という弁証法的テーマが明確に提起されていたドストエフスキーの展開に比べると、三島由紀夫が言いたいことはもう一つピンと来なかった — 思い込みの能力がまだ高い青年時代に読んでおけばもう少し分かった気になったかもしれない。

ただ、主人公家族の昇天にさしかかる所で出てくる次の章句は三島由紀夫が現代社会に抱いていた想念を伝えているのかもしれない:

しかし、落ち着いて考えてごらん。真実から目を覆われていることの幸福は、いかにも人間特有の憐れっぽい幸福だが、今われわれが問題にしている虚偽や真実は、もっと微妙な性質のものなんだよ。たとえば我々が世間に向かって、宇宙人であることを隠しているのは、真実がこちら側にあって、人間どもには虚偽の仮面をみせておかなければならぬからだ。人間同士はそうではない。あいつらはえてして虚偽を隠すために真実の仮面をかぶるのだ。

真相を実は知っている臆病な人間たちが、胸中の真実から逃避するために、フィクションを真理だと言いくるめて空っぽの哲学を仲間内では語っているという情景は、まさに今日的現象でもある。


上の下りを読んで、どことなく文体や表現法まで含めて、村上春樹の作品を連想してしまいました。

というか、安倍元総理がとなえた『美しい国、日本』の「美しい」と三島の『美しい星』の「美しい」とは意味が正反対だ。


《美》という同じ言葉を使っても人によって意味は正反対になる。同じことは《義》についても言えるだろう。人によって意味がマチマチな言葉を使いながら議論をしても、まったく無意味であるということである。多数決で決めるとしても、それで意味が出てくるわけでもない。


三島由紀夫は、人間の人間らしいことの本質を《時》、というか《時の一方向性》に見ているようだ。もしも将来を確実に見通せて、過去・現在・将来の区分が消失するなら、人間は完全に合理的であり得ようという三島の洞察は(多分)正しい。が、三島が触れていないもう一つの要素がある。それは《人生は有限》ということだ。例え将来を先取りできて一切が合理的計算によって決められるとしても、人生が有限で、死の直前の自分自身がいかなる思考をするかが分からない以上、人間は人間らしく生きるしかないだろう。

・・・などと書くより、ズバリ、

理性は自分自身の死を決して予感せず、受け入れることもしない。

と、何だか誰かが既に言っているような気がする。合理的議論は人間がもっとも人間らしい側面を考慮しない。自らの普遍妥当性を勝手に前提する。だから、合理的な結論は嫌われるのだ、と。最近はそう思っているのだ、な。

この辺りの《反・理性主義》は『葉隠入門』とも根っこの部分で繋がっている。

【加筆】2023-05-07


0 件のコメント: