2023年5月30日火曜日

断想: 歴史の授業を逆さまにしたほうがイイ勉強法になるという持論について

 カミさんはワイドショーもそうだが、クイズ番組も好きで、特に一部の教授達(?)からは「俗悪番組の典型」と非難されている<東大王>は大好きである。

今日も又、東大クイズ研OBが出演するのがあって、そこで「ン」の文字が入る米国大統領を10人挙げよという問題が出た。

(ワシントンやバイデンの名が挙がる中で……)

カミさん: リンカーンって大丈夫だよね…

小生:ンがつくからイイんじゃない?

(ハリソンやらトルーマンやらが出てくると)

カミさん: あと誰がいるんだろ?分かんないなあ…

(一先ず10人あがった段階で)

小生: ウィルソンを挙げないかネエ。

カミさん: ウィルソン?

小生: 知らないの??

カミさん: 知らない。

小生: ・・・「国際連盟」って知ってる?

カミさん: う~ん、聞いたことあるかなあ…

小生: 日本は国際連盟を脱退したんだけど、習わなかったの?

カミさん: 世界史の授業は最後の方はしなかったんだよネエ。

小生: 世界史?フ~~ム、ま、世界史でもあるけどねえ。

(食器を下げて二人で洗いながら)

小生: ネエ、ネエ、「満州事変」ってサ、知ってる?

カミさん: だから「世界史」はあまりやらなかったんだって。

小生: 日本がやった事件だよ、満州事変って。

カミさん: そうなの?

小生: 「鎌倉幕府」は知ってるよね?

カミさん: いい国つくる鎌倉幕府、1192年だよネ(笑)

小生: 大化の改新、覚えてる?

カミさん: 645年、中大兄皇子でしょ?その辺は先生、結構丁寧にやってくれたから。

小生: これまで何かの役に立ったことある?

カミさん: あるわけないでしょ!

日本史にせよ、世界史にせよ、学校授業の教え方は大体似たようなものだろう。そして、何の役にも立たないということも…。マ、学校の授業は役に立つべきなのかどうかは、これまでにも投稿したことはある(たとえばこれ)。

学校の授業が日常生活の役に立たないからと言って、非難するべきことでもないのではないか、もっと基本的な事柄の役には立っているかもしれないと述べてきたのだが、上のような会話をカミさんとするに至っては、やはり歴史常識の伝え方がどこか間違っているのじゃあないかという気にもなってくる。

小生とカミさんはこんな話をするからまだマシかもしれない。が、概ね800年前の鎌倉幕府の設立年は正確に(?)記憶しているが、満州事変はよく習っていない、というのは、歴史知識としてかなり奇形的で、ヤッパリ問題だと思うのだ、な。

歴史とは要するに「整理された記憶」である。肝心なことはどう記憶するかだ。

たとえばスケールを縮小して「家族」の場合、苦楽は様々であろうが多くの経験を共有することで、強い絆が形成されるものだ。その経験は、例えば去年の旅行であったり、3年前の運動会であったりする。思い出話を始めると、段々と過去に遡り、子供たちがハッキリとは記憶していない幼児の頃にまで話が及ぶこともある。そんな時、自分では覚えていない兄弟姉妹のエピソードを両親から聞くことで、同じ時間と空間を共にしてきたことを改めて実感するのが、家族という共同体の基盤になるものである。記憶という言葉と絆というリアリティが結び付く。ヤッパリ、歴史の勉強はどこかでリアリティとつながっていないとまずい。そう思われるのだ、な。クイズの材料になるだけでは駄目だ。

国民も同じではないかと小生は思う。


これは若い時分からの小生の持論で、友人たちに話すたびに『お前、何言ってんだよ…』と笑い飛ばされるのがオチであったのだが、それは歴史の授業は、先ずは大正・昭和からスタートし、次に明治に遡る。明治という時代の前には江戸・旧幕時代が250余年間あったこと。その江戸時代の前には織田・豊臣政権が短期間ではあったが、刀狩による武装解除、全国惣無事令による私戦禁止、検地による国勢把握、度量衡統一等々の重要政策を断行したこと。その織豊政権の前には室町幕府下の全国内戦状態があったこと……もちろん摂関政治から更に天平時代、大化の改新まで遡っても良いし、そうしたければ卑弥呼の時代まで遡及していっても良い。

こんな風に歴史を逆向きに学んでみてはどうか。その方が、

この時代に、なぜこんな事をしたのか?

自然に《歴史的問題意識》という現時点で最も大事な社会感覚が自然に共有されると思うのだ。というのは

どの時代も、何かを解決しようとして、解決したと思うと、次代になってその解決策が問題になるのである。

要するに、いまこんな事をやっているのは前の時代の反省、というか前の時代から渡された問題を解決しようとしているからだ。未来を向いた面もあるが、過去に縛られている面も確かにあるわけだ。しかし、前の時代は前の時代で、その前の時代から継承された問題に悩んでいた。大正時代は明治時代に、明治時代には幕末に、縛られていた。こういう風にすぐ前の時代に対する反省や束縛の下で、先祖は努力していたわけである。これが歴史的ロジックだと思うのだ、な。

今日の意思決定、行動選択においては、やはり直近の経験が最も役立つものである。過去に遡れば遡るほど、現在の行動、現在の結果とは直接の関連性はなくなるものである。この辺りは、まさに統計モデルの一つである《自己回帰モデル》と同じであって、今日の日本の現状に最も直接的に関係しているのは、やはり第二次世界大戦に敗戦してGHQによる民主化を経た後の「戦後日本」という時代である。とはいいながら、GHQによる民主化にも関わらず、継続された多くの側面が「戦前期・日本」の社会にはあったわけである。それは大正・昭和戦前期を勉強すれば自然に分かることだ。その時代の問題点がなぜ明治時代には顕在化しなかったのかという疑問は明治史を学べば分かってくる。

標準的な歴史の授業のように、過去から順に現在に向かって勉強すれば、過去から未来に向かう進化する過程として社会を見る姿勢につながる。理想を追う過程として歴史を観ることになりがちだ。つまり目的論的である。

確かに人間集団は社会を形成して、何かを目的にして行動するものだ。しかし、社会が全体として行動するための制度や思想、人的・物的資源など統治可能性の現状はそっくり前の時代から与えられるものである。理想主義的な目的を追求するよりは、過去から引き継いだ多くの問題に対処するためにエネルギーの大半は消費されてしまう。これもまた現実であろう。社会も人間も必ずしも<自由意志>のとおりには行動できないのである。過去は未来の原因である。そんな因果論によって歴史をみる見方、歴史の勉強法もやはり重要であろう。

目的論的に社会をみれば<自由>を何よりも重んじる姿勢になるし、因果論的に考えれば<宿命>、ひいては<神意>の働きを視ることになる。どちらが正しいかではない。どちらがその人の趣味にあっているかというレベルの話しだと思う。マ、実践的にいえば、両方ともやっておくに越したことはないわけだ。


だから、今でも《歴史遡及法》は小生の持論であり続けている。エジソンや野口英世の伝記も最後から第1章に遡って読むと、実に面白くて、偉人の人生が理解できるような気がする。

どう理屈づけても、鎌倉幕府が1192年に出来たという知識より、満州事変や日本の国際連盟脱退に関する知識の方が、現在の日本社会、東アジア世界を見るうえで、より役に立つ洞察力や理解力を与えてくれるのではないだろうか?


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