2023年5月1日月曜日

ホンノ一言: 国民心理が非合理的なときの政府の責任ということか、これは?

子育て支援の財源を何にするかについて日経がアンケート調査をしたところ、以下の結果になったという:

日本経済新聞社の28~30日の世論調査で政府が検討する少子化対策の財源の確保手段について聞いた。「増税」と回答した人の比率は23%で、「社会保険料」の22%と拮抗した。「国債発行」は35%だった。

Source:日本経済新聞、5月1日朝刊 

「国債発行」を願う人が最も多いってことですか……、ヤッパリねエ、これが高齢化した日本のシルバー民主主義って奴だネエ、と。そう思いました。

国債増発で子育て支援をまかなうというのは、将来世代を育てるためのカネを将来世代につけ回すということだ。『お前たちを育てるのにカネがかかるしネ、今は払えない。他に欲しいモノもあるし生活水準下げるのは嫌だからサ。いまは国債を店に渡してツケにしとくから、お前たち、大人になってから国債を持ってきた人がいたら返すんだヨ』と、ま、そういう意味になる。親にしては無責任ではないか。「自分はもうすぐこの世とおさらばだから、後は知らんということかい」と言いたくもなろう。

『ここまで無責任社会になっちまんだネエ』と、ホント、涙がこぼれるような思いをしたのだが、年齢層別の回答傾向をみると、これがまたビックリ仰天。下図のようになっている。



Source:上と同じ

60歳以上のシニア層は寧ろ増税を受け入れる人たちの割合が高い。

子供たちの未来を心配しても自分たちはもういないはずの高齢者は、いま税負担を増やすよりは、借金(=国債)でやってくれ、と。そんな人が多いのだろうナアと憶測していたが、そうではない。反対である。寧ろ、未来になってから国債償還の負担(=借金返済)を負い、緊縮財政、税率引き上げを覚悟するべき若年世代が、国債増発を願望している。高齢者はむしろ『税が上がるのは仕方がない。いいよ』、そんな風に考える高齢者が案外多い。余命を考えると、子育て支援が実を結び少子化を逆転させるという増税の見返りは、とてもじゃないが目にすることはできない。孔明と同じ『身、先に死す』だ。損であるに決まっているのにネエ……、そんな意外な傾向が現れている。

まさに非合理。日本人の各世代は、自分たちが直面している問題の内容をまったく理解しないまま、アンケートに回答している可能性が高い。

多分、いま税が増えるのは嫌だ、と。そんな条件反射的な思考回路なのかもしれないが、よく分からない。増税を嫌がる心理は現役を引退したシニア層により強く表れるはずではないか。

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大体、いま問題になっているのは負担と受益が不分明な公共事業や補助金ではない。子育て支援である。たとえ増税でとられても、子供を育てる時に戻ってくる。増えた税を取られっぱなしになるのは、子供を育て終わった高齢者、子供を育てない現役夫婦、生涯独身派だけである。人生選択は自由であるが、子供を育てず消費や貯蓄をするほうが、子育てをするより明らかに豊かであるという情況は、社会的観点からみると問題だ。

子育てと世代交代は、豊かな未来への第1歩だ。と同時に、社会的にそう言えるだけではなく、個々の家庭においてもそう実感されるべきだ。

こうじゃなきゃあ世の中狂ってるってもンでしょう。何だか上のアンケート結果をみると、そうなっていないかもしれないという気になってくる。

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前近代から近代にかけては、子供を育て「親族」を広げることが生活保障になった。

近代から現代にかけては、「社会保障制度」が親族による生活保障の代わりになった。親族の絆は衰退し、分散居住する中で、解体されてきた。

財政危機の中で社会保障の持続性に不安が高まるポスト現代においては、ただ「カネ」だけが頼りになった。子供はコストとなり、負担に感じるようになった。だから、たとえ子育て支援のためでも増税は嫌だ、と。そう思ってしまう……


カネがかかって困るのは、「選挙」だけではない、「育児」もまたカネがかかりすぎる。それが《現代病》といえばその通りだ。

選挙は民主主義のコストである。育児は人類社会のコストである。確かにコストに見合うリターンはあると歴史は教えてきた。しかしその記憶も薄れてきた。と同時に、今の問題は、恐竜化し、金食い虫になった選挙、育児を考え直すという点にもある。

アンタッチャブルであった「選挙」、「子育て」の中身も21世紀社会にあって洗い直すべきなのかもしれない。本来

親はなくとも子は育つ

寺子屋が軽装なジャージーだとすれば、今日の教育はきらびやかな振袖のようなものだと思う。一事が万事だ。例えば、桃の節句で買ってあげるお雛様、端午の初節句で買い与える兜や武者人形を見るがいい。小生の愚息が幼かった頃に比べると何と贅沢になったものだろう。あの頃はバブル時代であったのに、だ。松平定信ではないが、奢侈に流れる現代社会を見直すことも大事ではないかと思うのだ、な。贅沢になってカネが足りないという側面も確かにあるのだ。

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国民心理が非合理的であるとき、政治まで国民心理に寄り添ってしまうと、日本社会にとってより良い選択が出来るはずがない。

社会的選択の実務を担う政府、政治家の責任は重いと言わざるを得ない。

幕末の日本を支えるエリートであった「武士」の精神をもって道を切り開いてほしいものだ。

【加筆】2023-05-02


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