2023年5月17日水曜日

断想: 「明治の人」漱石の明と暗?

夏目漱石の作品の中で『三四郎』といえば今でも人気が高い。名句も多く、中でも次の下りは漱石の「リベラル」な社会観と先見性を証明するものとされていて、思い出す人も多いと思う。

三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、

「滅びるね」と言った。

熊本から上京する汽車の中で三四郎が広田先生に初めて遇会する場面である。


作家を知るには、断片的な片言隻句にとらわれても駄目だ。漱石は明治日本の行く末を洞察できるだけの知性を持っていたかもしれないが、現代日本の価値観(?)からみれば異質の社会哲学をもっていた点も見過ごすべきではない。

リアルタイムで夏目漱石という人と会って話ができた人であれば当たり前であったことが、作品を通してしかその人を知ることが出来ない後世代の人間には見えにくい側面もある。そんな意外な側面はどんな人でも想像以上に多いはずだ。話が分かると思ったお爺さんが、意外な面で頑固であることに吃驚することは、小生も経験した当たり前の日常である。その日常を後世代の人は共に生きられない。


例えば、いま「旧・西側陣営」では共有されているはずの価値である「民主主義、選挙、投票」というやり方について、漱石はこんな意見を発表している。当時発行されていた雑誌『太陽』が各界の人物評価ランキングを行い、その結果、文芸分野では夏目漱石が第1位に選ばれたときの漱石自身の反応である。

(私は)一般投票と云うものに対しては常に善くないことだと云う考えを抱いている。・・・ 

投票なるものは、己れの相場を、勝手次第に、無遠慮に、毫も自家意志の存在を認める事なしに他人が決めてしまう、多数の暴君が同盟したと同じ事である。

・・・議会の投票なども公平だからやると思うのは間違いである。ああしなければ決着が付かないから仕方なしに不公平なことを敢えてしているのである。従って、今日開明の世において、人々自意識を有して、己れを評価しうる自由を与えられつつある以上は、なるべくこの自由を奪わないようにするのが正当である。投票は多数の声を借りて間接にこの自由に圧迫を加える手段になりやすい。だからやむを得ぬ場合の他はやらん方がよかろうと思う。 

・・・全体、人に対して誰と誰とは何方がえらいなどと聞くのは、必ずその道に暗い素人である。素人は真っ暗だから、何でも自分に覚えやすいように無理無体に物の地位関係を知りたがるの結果として、かかる簡単極まるとば口の返答を得て満足するのである。

これは当時の『東京朝日新聞』に掲載されたのだが、簡単のため江藤淳の『漱石とその時代―第4部』から引用した ― 仮名遣いなどは現代風に変更した。


やはり夏目漱石は「明治の人」。こう言っておけば「なるほど」と了解されるわけだ。どんな人も、先人の肩の上に立ってモノを考える。その人が生きた時代の中で当たり前のように判断されていたことは、無条件に是となるのである。それについて、後世代の人間があれやこれやと論じても、意味のある結論は出ては来ない。ただ事実として受け取るのみ、である。

それにしても、明治という時代に個々人の「自由」、「自意識」という論点がいかに普通の話題であったのか、今日の日本の現状をみると、改めて驚かされないだろうか。他者評価などはつま先で蹴っ飛ばして、あくまでも自己の努力と自己評価において決して妥協しない人生を貫くというのは、本来、日本人が理想として来た武士道にもつながる生き方だと感じるが、どうだろう?


この下りを読んで、少し前に本ブログに投稿した内容を思い出した。<世論 能力>でブログ内検索をかければ、他の関連投稿と一緒に出てくるが、

それほど「多数者の意見」というものを尊重するべきなのだろうか?

という問いに対して、

 《世論》に反して「正しい方策」を提案する少数の人々は常に存在する。《一流の人物》は二流、三流の人物よりも遥かに少ない。故に、愚論は多く、正論は少ない。このことも投稿したことがある。

こんな当たり前のことは、ずっと昔から、人類は承知していたはずである。承知しているはずの社会の実相に目を向けられないのは、イデオロギーで盲目になっているからだ。

世論はなるほど大切である。しかし、すべての重要な問題について常に《世論》は何かと報道するメディアの姿勢は、正論をしりぞけ愚論を優先させるという意味で、文字通りの《愚策》を選ばせる確率が高い。

民主主義は大切にしなければならない。しかしながら《杓子定規》に祭り上げるのは愚かである。そういうことだ。

こんな自問自答を覚え書きにしている。 

他にもこの種のテーマは小生のお気に入りで何度もその時々に思いついたことを覚え書きにしているが、

理想は確かに大事だが、社会の現実は「なる」ものであって、「する」ものではない。

この辺りが最大公約数になるだろうか。

「なる」というのは社会の変化法則によって「なる」。「する」というのは(一流か二流かハッキリしない誰かが)「したい」と願うことによって「する」のである。もちろん、自然法則を利用してJAXAが「ハヤブサ」を飛ばしているように、社会の変化法則を精密に把握したうえで望ましい政策を実施できる時代が来る可能性はある。

いま「旧・西側陣営」は権威主義と民主主義の二項対立の構図に持ち込んで頑張っているが、どんな理想も共有を強制したり、統一しようとすれば、軍事的侵略ではないかもしれないが、思想的侵略には該当する。ちょうど、権力者が信じる宗教の価値観を庶民に押し付けるのと同じで、広い意味では《侵略》に当たる。

この骨子はずっと前から小生の社会哲学(?)になっていたんだネエ、と。書いたことを振り返ると、自分のことが改めて分かったりするのも、ブログの効能というものだ。

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