2023年9月11日月曜日

断想: 男色と混浴。西洋と日本の文化的関係も考慮するべきなのか?

今日は同じ事を視るにも色々な切り口があるという趣旨でメモしておきたい。


日本は歴史的に<混浴>の国であった。式亭三馬が『浮世風呂』で描いている銭湯も混浴である。江戸幕府は公娼ではない私娼の巣窟になるので時々禁止令を出したが、混浴の習慣は明治まで続いた。明治維新で西洋列強の習慣が輸入されて来るに至り、明治政府は混浴を野蛮で恥ずかしい習慣として徹底的に取り締まり、ついにその撲滅に成功したのである。そして、「覗き見(=窃視の罪)」という犯罪概念が日本人の社会心理に深く刻み込まれた。故に、男性(女性)が女性(男性)のヌードを隠れてみるのは、更に他のありうるケースにおいても、覗き見は犯罪であり、まして盗撮などは憎むべき罪悪であることを、今では誰もが承知している。

とはいうものの、それは現在だから言えることで、明治の初め、混浴禁止に猛反発する女性達がいたことも資料に見る通りだ。禁止の徹底に対して平均的な日本人が感じた当惑や困惑、反発と怒りは、今日の日本人も何となく想像できるのではないだろうか。

それまでは大目に見られていた習慣的な行動が、『今後は一切禁止する』と上から命令されるとき人々は何を感じるだろう。そして、その根拠は『西洋にそんな習慣はない』というのだから、明治の文明開化に生きた日本人はかなり屈辱的な思いをしたと憶測もできる。

俺たちは三流民族というわけか

こんな風な怒りが鬱積したとしても自然である。何しろその数年前までは尊皇攘夷で外国人排斥に血眼であったのが日本なのである。

「本当はいけないのだけれど、長年の習慣で大目にみていた事」というのがある。混浴とは違うもう一つが《男色》である。習慣というより、<風俗>とも<習俗>とも言えるが、ここでは習慣と呼んでおこう。

豊臣秀吉は基本的に女性を相手に選んだそうだが、織田信長も徳川家康も少年を相手に性愛を満たしたことは確認されていることである。江戸幕府の三代将軍・徳川家光も少年を愛するあまり女性に関心を持たないことに春日局は心配を募らせたということも歴史好きには周知の事である。


さて、最近の騒動の種になっているジャニーズ事務所だが、創業者社長が自社の少年たちを相手に自分の性欲を毎夜(?)発散していると、ずっと昔、最初に耳にした人たちは、

こんな愛欲をもち続ける経営者がまだ残っていたのか

という感覚で聞いたかもしれず、発覚した20世紀後半から21世紀までの間、特に男性中心の報道業界では、おそらく大雑把にいえば

ホントかよ。好き者というか、傾奇者というか、今時なんて人だ…

と。そんな「豪傑ぶりに」呆れる感覚があったかもしれないが、極悪非道を断罪するという思考には至らなかったのではないか。小生はそんな憶測をたくましくしている。

何故なら、日本的性道徳において、男色は(少数派でありこそすれ)自然な性愛の一つで犯罪ではなかったわけだから ― ここがカトリック聖職者による児童虐待とは異なる。そして、そんな行為はパブリックな性格とは真逆の私的に秘められた内緒ごとでもあったからだ。

つまり、倫理や道徳は万国共通の理性に基づくのではなく、その国民が継承してきた感覚、感情によって決まる。要するに、多分に文化的側面がある ― だと言っても、尊重するべきだという意味ではない。

この言い方が抽象的に過ぎるのであれば、

日本人が最も嫌悪する悪行は何か?少年を愛する行為か?女性に対するストーカーか?そうではない。日本人が最も嫌うのは(凶悪犯は別にして)公職にある人による汚職(と、最近は不倫も?)である。

ではないか?いかに歴史的偉業を成し遂げた大政治家であっても、金銭を不正に受け取った事実が露見した段階で(裁判の判決を待つより先に)日本では「一発退場」となるのだ ― たとえ「不正な金銭授受」の金額が軽自動車1台相当の150万円程度であってもダメなものは駄目、レッドカードは覆らない(はずである)。日本で公職にある人には、プラスに着目する加点主義でも、プラス・マイナス両方をみる合計点主義でもなく、マイナスを数える減点主義で人物評価を行う。こうした思考パターン、というか日本的感性もまた日本文化の一つの側面をなすのである。

こんな自問自答に対する回答が日本的道徳観をつくっている。そして、やはりここには日本的国民性というものがあると。その感覚が日本における「重大犯罪」を概念させている。そう思っているのだ、な ― もちろん、この日本的重大犯罪の概念について個人的な私見というのはある。

ところが、明治になって風呂に男女が一緒に入るのは(その当時の)西洋からみれば極めて野蛮な習慣であったのとまるで相似形のように、令和の現在、今度は会社の社長が社内の少年たちを相手に性愛行為を繰り返すのは極めて野蛮で恥ずべき行為だ、と。残酷だ、と。社長は加害者で少年たちは被害者である、と。BBCが憤慨の報道を今年の春にしたわけである。

日本は先進国ではなかったのか

そういう図式のようにも感じられるのだ、な。

LGBTは愛の多様性をさす言葉だ。しかし、今回の件は支配者による強姦に等しい。煎じ詰めると、そういう非難である。ここには個人主義の発達した西欧の精神が溢れている。そもそも「人権」という概念は「共同体」に先立って存在するべき「個人の人権」なのであってヨーロッパ的精神の所産である。

明治維新から150年余が経つが日本人はこの個人主義を体得するのがいまなお苦手である。

日本人は、報道業界も含めてジャニーズ社内で起きていることを(うすうす?)知っていたはずだ。何しろ週刊文春による名誉棄損で争った際の最高裁判決で事実の認定はされていたのだから。ところが、今年の春になってBBCは「それは許されない犯罪だ」と。「児童虐待だ」と。そんな主旨で報道されるに至った。これに接した(日本の報道業界を含めた)日本人に当惑、困惑の心理が萌したとすれば、小生もまたその気持ちを共有できる部分がある、率直なところ。


確かに善くはないけれど、それほどの重大犯罪ですか?殺人や汚職じゃあないンですよ。ずっと前の時代の事を今の感覚で裁いてイイんですか?等々、「被害者」が言いたいことはあるが、「加害者」の方も言いたいことはあるかもしれない、というわけだ。

これまた現実の一つの切り口ではないかと感じる。

英米やフランスがそんなに憤慨しているというなら、正直ピンとは来ないですが、従いますヨ。エエ、ジャニーズの創業者は悪い人間です。放置した会社は悪い会社です、ハイ。ああ、東京五輪の汚職、あれもスイマセンでした。関係者はもう処断しました。言いたいことはありますけどネ。エエ、ジャニーズには退場してもらいましょう。しかし、私たちもある程度は分かってたんですよネエ…そんなに重罪とは感じなかったンですけど。マ、今はそれを恥ずかしいと思ってます。でもネ、外国のメディアがなんでここまでするんです?これほど本気になって何故怒るんですか?日本のためだと言うんですか?日本に圧力をかけるのがそんなに面白いですか?

つまり、ジャニーズの件については、色々な観点から言いたいことのある人が多数いると思われる。 

(核兵器ももっている)超大国・中国なら、

それぞれの国にはそれぞれの国の歴史があり、文化、習慣がある。守るべき倫理があり、容認される行為もある。一夫一婦制の国もあれば、一夫多妻制の国もある。自分の国と違った習慣だからといって、他国の習慣を非難するのは傲慢というものである。

北京の報道官はこんな風にBBCの非難を上から目線で却下するかもしれない ― そして(自国の法律事務所でなく)外国の報道機関に「被害」を訴えた自国民を「非国民」として軟禁するかもしれない。

が、哀しいかナ、日本は超大国ではない。故に、自分たちは完全にピンと理解はできないとしても、BBCが非難するのであれば、

ジャニーズは社長の犯罪を放置した悪い会社だ。その悪い会社を永年報道してこなかったメディア企業は不作為の罪を犯した。心から反省し罪を償うつもりだ。

こんな結論にするしか日本には選択肢がない。そして、この結論と矛盾しないように、後の事を逆算的に決めていくということである……


親鸞が『歎異抄』で言うように、善人と悪人がいるのではない。善人であっても意図することなく悪を為すのが現世に生きる人間という存在である。故に人間はすべて罪人である。社会も又しかり。意図することなく罪は犯される。他力本願の仏教がこんな社会観をもっているのに対し、キリスト教社会にはパスカルも信じたジャンセニズムがある。あらゆる人の善意を疑い、その罪業を責めるなら、自らの罪もまた見つめるべきであろう。ジャニーズという一企業とBBCをみるとき、不図、こんな事を連想してしまった。


いずれにせよ、資源と市場を世界に依存しグローバル経済の中で生きていくしか道はないのが日本という国の宿命といえる。自分では割り切れなくとも世界の、というより「欧米先進国」の感覚でビジネスをするしか選択肢はないのである。

【加筆】2023-09-15、09-29


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