2023年9月16日土曜日

断想: 「女流作家」。価値観は確かに変わりつつあるという実感か?

カミさんが『ミステリーと言う勿れ』の原作漫画を読みたいと言うので1巻から12巻までをマトメ借りしてきたのが数日前。大方読み終えたところだ。

原作ファンの中には同作のTVドラマに違和感を感じる向きもあったそうだ。

なるほどネエ……、原作のイメージを一部改変している点はあるネエ。ストーリーや台詞はほとんど同じだが。これは、ひょっとしてキャスティングされた女優さんや俳優さんの年間スケジュールが合わない所があって、やむを得ずウェートを置く役どころを変えたのか、と。そんな印象もある。


原作を読んで直ぐに感じたのは、

いかにも女性読者向けに女流作家が書いた作品だネエ

というものだ。もちろんネガティブな意味ではない。多くの読者を獲得するというのは、多くの人に受け入れられているからだ。つまり新しくて「今日的」なのである。

今日的であるというのは、創造的でイノバティブということでもあるが、よく思い返すと、今に至っていかにも女流作家的な作品がますます多く、一層広く社会に受け入れられているのは、ずっと以前から予想されていたような気もするのだ、な。

日本文学の最高の代表作とも言われる『源氏物語』を主に谷崎訳で読んでいる。谷崎訳は原文と照合しても、ほぼ正確に平安期の日本語を現代日本語に置きなおしているのが分かる。かつ現代日本語としての文学的レベルも高い。主語がないのも原文に近い。思うのだが、『源氏物語』という小説は、確かに大河小説ではあるが、ディケンズやモームとも異質であるし、バルザックの『人間喜劇』とも全く違う世界を描いている。それはマア、当たり前ではある。平安期・日本の貴族社会に近代的個人主義などありようもなかったから。

個人主義的価値観など全くなかったはずの世界で描かれる大作であれば、ほぼ必然的に事実の展開と英雄や民草の行動記録、つまり《叙事詩》としての大作になるというのがロジックだ。例えば、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』。日本文学をみても、平安時代が過ぎて鎌倉時代になって以降に現れた『平家物語』や『太平記』。これらは『源氏物語』とは別の意味で日本文学を代表する作品で、文学的香気にも溢れているが、書かれている事柄は出来事の記録であって、故に《叙事詩》である。これに対して、『源氏物語』はかつてあった時代を回想するという形をとっていながら、決して叙事詩ではない。

そういえば、平安文学の特徴の一つとして女流作家の日記がある。「土佐日記」は紀貫之が女性の振りをして書いた作品だが、「更級日記」や「蜻蛉日記」は正真正銘の女性による日記である。他にも「和泉式部日記」や「紫式部日記」もある。今日に伝わっていない作品を含めれば多数の日記作品が読まれていたに違いなく、作者の多くは女性であったと推測される。その日記だが個人としての《自意識》が先になければ日記の体を為すまい。女性がその意識をもっていたのは、日本の歴史でも平安時代の興味深いところである。


『源氏物語』は古典中の古典と言われているが、その作品世界は、極端に単純に例えてしまうと

人物A:あんな聞き方をされたから、こう答えたワ。そしたら、こう言われるのヨ。私、言ってやったワ。

人物B:何て?

人物A:「◎◎」って…

人物B:ワ~オ、よく言ったわネエ。

人物A :言っちゃったワヨ、あの人、言わなきゃ分かんないんだからサ。

人物B:そしたら何て?

人物A:何だか、何も言わなくなってサア、黙って窓の外を見てるの。あたし、萎えちゃってネ…そのままそおっと帰ろうとしたのヨ。そしたら、これこれの和歌を歌うの。歌うってか、ささやくようにネ、独り言だったのかなあ、それともあたしに聴かせたかったのかしら?

人物B:どんな歌?私にも聞かせてヨ。

清少納言の『枕草子』にも相通じるおしゃべりがそこにはある。数えきれない人数の登場人物の性格や内心の動きが言葉のやりとりの中に表現されている。似ていると言えば、近代イギリスの女流作家ジェイン・オースティンに非常に似ている。

これは決して「性差別」ではなく統計的認識として書いているのだが、女流作家の傾向として、おしゃべり好きである点を挙げてもよいと思っているのだ、な。


『源氏物語』もやはり女流文学的であって、そこで描かれている「事実」、というか出来事、イベントという意味だが、実は大した事実はない。確かに須磨に流亡した時に襲われた水害が描かれていて、谷崎潤一郎の『細雪』の第2巻など『源氏物語』の『須磨』を連想させるのだが、それとても大した話しではない。殺人事件があるわけでもなく、謀反や陰謀があるわけでもない。主人公が失脚しても獄に幽閉されるでなく、追手が矢で攻めてくるわけでもない。そもそも平安時代という時代は日本で死刑が執行されなかった時代なのだ。事件や出来事ではなく作品には言葉があふれている。言葉を語るからには語る人の心理がある。

語られる言葉には、当然、誠とウソが混じる。言葉は全てそうだ。作者・紫式部は語られる言葉を書きながら、語る人間の心理を書いている。言葉にはウソと誠が混じるが、その言葉を語る人間の心にウソはない。その時、そう思って、そう語るのが人である。例えウソであってもウソを語る人の心は真実としてある。これも人間観といえば、なるほど一つの人間観である。

人間のホンネを確かめたいなら行動をみればよいのである。しかし、行動をしない人に誠があるのかどうか?誠とは何なのか?道徳を守るということなのか?と、こんな疑問があった時代もあったかもしれない。意志と行動と組織の三つが薄弱化した「浄土」のような社会になり果てても、人間はおしゃべりを続けるわけであり、言葉がある限り人間はいつも人間的である。

正邪善悪は男性が決めるものだ(と概括してもよいだろう)。女流作家は、正邪善悪という道徳規範に縛られる気持ちが薄いのではないかと実は小生は思っているのだが、見ようによってはそれは寧ろ好ましくて、自然なことではないかと考えている。


現代に至るまでの千年の時間、忘却もされないで読み継がれてきたのは、教科書的な「もののあはれ」などではないはずだ。そもそも平安時代の日本人の美的感覚など現代日本人が共有できるはずがない。共感できるのは、人がこの世で生きる《生》が普遍的だからだろう。社会は変化するが、一人一人に分解してみれば、人間は時代や国を超えて同じように感じ、同じように考えるものだ。故に、習俗・習慣がまるで違う異境のような古代日本社会における恋愛や不倫であっても現代人にとって理解可能なのだ。


その意味で、『源氏物語』はリアリズムにつながる面を持っている。リアリズムは千年ほども前に現れた文学作品にしては珍しいのかもしれないが、しかし西洋の『新約聖書』に描かれている人間心理もまたそれに劣らず迫真的である。そればかりでなく、バイブルは事実の進行もまたドラマティックで、一編の悲劇を見事に構成している。ただバイブルには、日本人好みの人間の業や前世からの宿縁といった仏教的想念が欠けている ― ま、当たり前であるが。それもあって、現世否定的でありながら、享楽的、(平安時代にあってさえも)反倫理的でありつつ自らの宿業におののく人間の心理を描写している所に、当時の貴族社会に生きた読者は非常なディープさを感じたのだろうと。こんな風に想像しているのだ、な。

前にも、こんな投稿をしたことがある:

「ああ言われた」とか「そんな言い方はないでしょう」という言い回しもあるので、日常生活の上で言葉は大事だ。「ものも言いよう」という格言もある。

確かにマナーは平穏に暮らしていくためには不可欠な約束事である。

しかし、やはり小生は言葉の問題はレベルの低い事柄だと考えている。社会の進歩や問題を解決するのは、言葉ではなく行為である。

「どんな風に言ったか」は振り返ってみると、大した事ではないということが分かるものだ。大した事でもないのに執着する人は器が小さいからだと感じられてならない。

男性キャスターが「大事なのは言葉です」と語った場面を揶揄した投稿もある。小生は男性であるためか、おしゃべりや雑談に大した意味はないと思ってこれまではやって来た。

しかし、今は

確かに言葉は大事だ

そう思うことが増えてきた。

もし21世紀の日本で女流文学の黄金時代が到来すれば、文化的にとても豊かな時代になるかもしれない。そして、多分、森鴎外や夏目漱石、永井荷風、島崎藤村、谷崎潤一郎、三島由紀夫といった面々が創作した文学作品とは、質的に違った作品が生み出されるような気もする。


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