明日から三泊四日で東京往復。両親の墓の植木の片側が近年の酷夏で枯死してしまい、そこに墓誌を建てることにした。工事は終わっているのでその確認だ。もう片側の植木はまだ健在ではある(そうだ)が、写真をみると何だか緑葉と茶葉を混ぜ合わせたような姿になっていて痛々しい。いずれ自然石などに置き換えなければならないかもしれない。
いま暮らしている北海道の港町は冬がもうそこまで来ている。少し前までは記録的な酷暑でみなウンザリしているのを思えばまさに、歳月怱々として過ぐ、だ。
岬回りの経路でショッピングモールまで歩いて行くと海の色に緑が混じり、雪を思わせる雲が低く垂れている。浜辺も海水浴客の賑わいはとおに無くなり、海の家の煙突からは何か調理でもしているのか一筋の煙がたち上るばかりである。
秋冷えて 炊ぐ煙や 苫のいえ
波音の つづれつづれに 雪もよい
雪虫の はかなく飛んで くも低し
今朝は早くに月参りで住職が来て読経をして帰った。来年、五重相伝が寺であるので参加を予約しておく。
最近、いつだったか何かのワイドショーで『位牌には何も宿ってないんです。木で作ったタダのモノなんですね』と、TV局お好みのテーマになった終活、墓じまいに関連した話しをしていた時だったのだろう、こんなことを言っているコメンテーターがいた。
当たり前のことを仰々しく、と。そんな感じでありンした。
『私には単に木で作ったモノにしか見えないですけど』とでも言えばイイものを、と。
まあ、小生も統計学でメシを食ってきたから、測定不能な対象は、元来は苦手であってもおかしくない。しかし、データでとらえ切れない事柄が多いこと位はわきまえているつもりだ。そもそも「企業理念」とか、「普遍的価値」など、見ることもできないし、数字にすることもできない。イメージだけの存在である。そんなことは誰でも知っているわけだ。
英国の数学者・哲学者であったバートランド・ラッセルが『西洋哲学史』という大著を書いている。ラッセルの書く本は大著が多いのだが、隅から隅まで読み通す人はそうそうはいないはずだ。小生も上の本を全部読み通したわけではないが、明瞭に記憶に残っている一節はある。
人間の知識には三つの階層があり、一つは科学によって得る知識。二つ目は科学ではないが理性の働きによって得る知識。三つめは理性とは別の直観によって得られる宗教的知識。この三つである。
こんな風に人間の知すべてを分類しているわけだ。
具体的に言い換えると、科学的知識は実験や観察など経験的事実に基づいて構成される。データによって反証不能な仮説は科学的仮説とは言えない。故に「神は存在する」という仮説(?)は科学の対象ではない。
科学とは違って、哲学は必ずしも経験的事実から出発はしない。その代わりに、自明である大前提、例えば「公理」から出発して論理的に様々な結論を得ることが多い。その意味では、数学は科学ではなく哲学の一種だ。倫理学も善悪などの価値を扱うが、プラトンの『ゴルギアス』にしろ、カントの『道徳形而上学原論』にせよ、議論はあくまでもロジカルである。経験を超越する概念をあつかう形而上学になると初学者には敷居が高くなるのも哲学の特徴だ。
哲学と宗教は似ているようで全く違う。哲学は《懐疑》から出発する。懐疑から議論を初めて結論を得るにはロジックが要る。そこが宗教とは異なる。宗教にとっての出発点は「神の存在」や「浄土という世界」を疑うことなく信じるという行為である。哲学者はすべてを疑うが、宗教者はある存在については疑わずに信じる。それが《信仰》という行為である。
深く信じることが宗教であるから、「**主義」もまた宗教と同じような色彩を帯びる。狂信的**主義者と狂信的▲▲教信徒は非常に類似した行動をするものだ。
魂という存在、その魂の行方、あるいは宇宙を支配している輪廻という思想に経験的根拠はない。それは事実であるとも、事実でないとも言えず反証不能である。もちろん疑うことによって哲学を展開することは可能である。デカルトやパスカルはそんな宗教哲学を展開したが、両者の議論はまったく異なる。それは観察事実に基づく科学ではないからだ。それでも宗教という知の世界があるのは精神的安定、つまり心の救済を感じる人が多いからに他ならない。
言い換えると、科学によって人間の精神的安定が得られるとは限らない。科学は、むしろ、私たちの生活水準向上に資する知識である。
さてト・・・位牌の話しに戻ろうか。
信仰に基づいて位牌というモノをみるとき、その人は観察可能なモノを目で確認しているだけではない。位牌の向こう側、つまり目に見える《此岸》という此の世界と目には見えないが超越的に存在しているはずの《彼岸》の世界と、その二つの世界の境界にある《扉》をみていると言うのが正しい理解であろう。
いま「扉」と比喩的表現を使ったが、広く使われている言葉は「偶像」である。信徒が偶像をみるとき木で出来た美術作品をみるのではなく、その奥にある存在を感得する……、まあ150キロのストレートをバットでどう飛ばすかなど、打てるようになるまで自分で試みるより他に方法はない。哲学と違い、宗教や信仰は本を読んで「分かった」というものではないわけだ。
即ち、同じ位牌を見る時も、信仰に基づいてみる人と、信仰なく科学的見地から見るヒトと、二人とも外見としては「視覚情報」を受けとるという同じ行為をしているのだが、その視覚情報をどのように処理し、悟性によって何を認識しているかにおいて、同じ行動をしているわけではない。
小生はもともと唯物論を支持するものだが、生命現象や生物の記憶、理性、理論などが現に存在していることを考えると、既に投稿したように唯物論と唯心論は同じコインの両面なのじゃないかと思うようになったわけで、であるからこそ単なる木で出来たモノに潜在している超越的存在をイメージするとしても、そんな認識には意味があると考えているわけだ。
長くなったが、
信仰という前提がなければ、位牌も仏像も、十字架も、鰯の頭も、豚にかけた真珠も、どれも物理的存在という点では共通している
と、一先ずの結論を出しておいてもよいだろう。
それにしても、人類の知的財産の全てが経験から得られる科学的知識ではないこと位は、中学や高校でも数学や音楽、美術などの学科があるわけだから、当然、分かっていると思うのだが、どうもそうではなく、大事なのは科学だけであると考えて
位牌は木で出来たモノで、そこには何もないんです
と。他の観点があると思わないのかネエ?そう思います。ショパンの夜想曲を聴いて、美しいとなぜ感じるのか?美しいと感じる人と、感じない人がいるのは何故なのか?どこが違うのか?<美>という存在は詰まるところ何なのか?それは一つなのか?複数、存在するのか?
科学的アプローチの他にも、色々な考察方法があるわけである。
何故もっと深く考えることをしないのかネエ、と。そう思いました、という覚え書きということで。