2023年11月30日木曜日

覚え書き: 日本的な「報道の自由」の情けない現実を知った一年であった

本年も残すところ後一月になった。顧みると今年一年程<人権>という単語を使った一年も珍しい。人権は、現代日本社会でずっと空気のような存在感をもってきたが、もし空気がなくなるとすればという恐怖心を感じさせたのが、本年という年であったのかもしれない。

11月の最後はまったくの覚え書きということで人権保護に関する海外の制度についてメモしておきたい。

というのは、こんな記事をネットで見つけたのだ。

同質性が極めて高い島国の日本は戦前戦中に秘密警察(思想警察)の歴史があるだけに、「表現の自由」に基づく「報道の自由」や国民の「知る権利」は最大限に保障されるべきです。中国やロシア、北朝鮮と日本の最大の違いは「報道の自由」が認められているか否かです。

報道による二次被害やメディアスクラム(集団的過熱取材)への対応は英国のような独立報道基準機構(IPSO)を設けたり、警察や行政、民間団体によるリエゾンオフィサー(メディアと遺族の間に入る家族連絡担当者)を養成したりするのが良いと思います。

英国の民間団体「被害者支援(VICTIM SUPPORT)」はサイトで「報道被害への対処法」を詳しく紹介しています。メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

日本でもメディアによる人権侵害が甚だしい場合は侵害差し止めの仮処分を起こして、訴訟費用も含めてメディア側に請求し、判例を積み重ねていく必要があるのではないでしょうか。

Source:ニューズウィーク日本版

Date:2019年09月18日(水)18時30分

URL: https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2019/09/post-62.php

前稿でも述べたが、マスメディアという民間企業の自由がいかに日本の民主主義に必要だと言っても、だから個人の人権を侵害してもよいことにはならない。人権は常に守られるのが原理原則である。

同じ記事は以下のように続いている:

インターネットやソーシャルメディアの普及で報道機関とメディアの境界が曖昧(あいまい)になってきました。「報道の自由」が認められるのは、伝えることに「公共の利益」がある場合に限られます。

公共の利益に沿うと判定する作業は、自社利益を追求しているメディアではなく、第三者でなければならない。

ドイツについても紹介されている:

ドイツ・プレス評議会のガイドラインはかなり詳しく被害者保護について定めています。

「事故や自然災害が発生した場合、報道機関は被害者と危険にさらされている被災者に対する緊急支援が『知る権利』に優先することに留意しなければならない」

「被害者は身元に関して特別に守られる権利を持っています。一般的に被害者の身元に関して知ることは事故の発生、災害や犯罪の状況を理解するのに役に立ちません」

「被害者や家族、親族、権限を与えられたその他の人の同意がある場合か、被害者が公人である場合にのみ、被害者の名前と写真を報道することが許されます」

ルールはもっとあるが「後略」としておく。ともかく報道の「知る権利」が制限されるケースが具体的に列挙されている。 

やはり日本社会でも 上のイギリスが既に採用しているように

メディアの過剰な取材にさらされた場合はIPSOに通報すれば、IPSOは当事者を守るためメディアに対して「停止通告」を発することができます。

過度な取材の対象となった個人による人権擁護の申請に応じてメディア企業に取材の禁止を命令できる余地を設けておくことは日本の民主主義にとって何もマイナスにはならないだろう。

イギリス社会より日本社会の方がより民主主義的であるというザレ言を口にする人はいないはずだ。また、人権擁護のために取材制限を行えるイギリスの方が「報道の自由」が制限されていると主張する人もいないはずだ。

実際、報道の自由ランキングにおいて、日本は2023年に多少上昇したと言っても世界で68位。台湾の35位、韓国の47位よりずっと下である。ましてイギリスの26位とは比べるべくもない。

日本のメディア企業が言う「報道の自由」は、弱者である一人ゝの個人に対して行使される自由に過ぎない。

相手が、日本政府や警察・検察・最高裁、ジャニーズ事務所、旧・統一教会になると、決して報道の自由が行使されることはなかった。

本年一年で明らかになった事実は

個人は最も弱く、マスコミは個人より強く、日本国や(スポンサー)企業はそれよりも更に強い権力をもつ

日本社会を支配しているそんな《力の序列》である。人権侵害が蔓延するのは、序列で認められている力が社会的権威にもなって働き、個人が素のままでは決して尊重されないという序列観が日本人で共有されているからだろう。

確かにすべての個人は平等であるが、個人を超える権威が日本社会には多々ある。個人の人権は実のところ序列が上位にある権威に立ち向かう程には尊重されない……日本社会は歴史を通してずっとそんな階層構造であったのかもしれない。

国や政府、会社や団体など全ての組織は生きている人間が考えて創った擬制的存在で、自然に存在するものではない。その擬制的存在が制度として継承され、定着し、権威になるに伴い、生きているリアリティである一人一人の個人を下位に置き、支配し始める。生きている人間は変えることすらできなくなる。

いずれこの日本では、AI(=人工知能)までも権威性を帯び、日本人を支配し始めるだろう。バカといえばバカとも思えるが、独立を嫌う日本人には確かにそんな情けない所がある。

哀しく厳しい現実である。


2023年11月25日土曜日

ホンノ一言: 「政教分離」をいま心配するとはネエ

先日亡くなった池田大作・創価学会会長に弔意を示し弔問したことが政教分離という憲法規定に違反するのではないかとの指摘がネットを騒がせているそうだ。例えば、こんな具合だ:

「池田大作氏のご逝去の報に接し、深い悲しみにたえません。池田氏は、国内外で平和、文化、教育の推進などに尽力し、重要な役割を果たされ、歴史に大きな足跡を残されました」(岸田総理のXから)

 追悼文の最後には「内閣総理大臣 岸田文雄」と記名し、翌19日には、「自民党総裁」として、創価学会の本部を弔問に訪れた。これに対し、政教分離の原則に反するのではないかと批判の声が殺到。松野官房長官は「公明党の創立者である池田大作氏に対して、個人としての哀悼の意を表するため、弔意を示したものと承知をしている」(総理官邸・20日)と述べた。

 SNSでも「内閣総理大臣の記名はだめでしょう」「弔問は選挙のため?政権に公明党がいること自体が疑問」「これがダメなら伊勢神宮参拝も亡くなったローマ法王への弔意もNGでは?」などの声が上がり、議論になっている。

 果たして、岸田総理の弔意と弔問は憲法の政教分離に反するものなのか。23日の『ABEMA Prime』では、宗教学や宗教社会学の専門家を招き、政治と宗教の距離感について考えた。

Source: Yahoo! Japan ニュース

Original: ABEMA TIMES

Date:  11/24(金) 15:41配信

フランスは厳格な政教分離を原則としている一方で、ドイツのコール、メルケル政権はキリスト教民主社会同盟が与党であった。アメリカ合衆国の新大統領はバイブルに手を置いて就任式で宣誓を行う。そして、イギリスは……、もう、いいだろう。

世俗権力と宗教権力を分離したうえで、世俗権力が政権を運営するという「政教分離」は近代国家の基本骨格になっているのだが、国ごとの具体的な現状にはバラツキが見られる。


ただ、今の日本国でこんな話題は、どうなのだろう?

現代日本で岸田首相の行為が「政教分離」に違反していないかどうか? この問題提起だが、今の日本で国会・行政府・裁判所の三権に匹敵するような宗教権力が存在するのだろうか?あると言うなら、それはどこなのか?

宗教とは精神的に人々を支配することで政治権力となりうる。「創価学会」、「公明党」が日本人を精神的に支配できる(かもしれない)宗教勢力だと、真剣に心配するべき状況があるのだろうか?

それはちょっと違うと思います。

というより、現代日本ほど無宗教の、いや既存宗教組織が無力化した時代はかつてなかった。日本人の精神構造は大勢として余りに、よく言うなら「科学信仰」、悪く言えば「唯物論的」になってきている。宗教勢力警戒観とは真逆だ。そう思われるのだな。

大体、普通の日本人で、創価学会会長はともかく、天台宗座主や浄土真宗の法主、浄土宗門跡が誰か知ってますか?日本最大の信者数を擁する宗教はどこなのか、知っていますか?

そういうことだ。

現在の先進各国における対立構造は、世俗権力 vs 宗教勢力ではなく、むしろ票集めのプロである職業政治家(?) vs アカデミア・ジャーナリズム(=知的エリート層?)の対立が主になってきていると思う。何だかThomas Pekketyを連想させる表現だが、(今のところ)これが本筋だと観ている。

Pikketyの"Brahmin Left vs Merchant Right"(2018)で展開されている視点に沿って日本の政治を議論するなら、以下のような展望につながるかもしれないので、今回の覚え書きとしたい。


TV画面に数々登場してくる「専門家たち」の発言を多数の日本人は素朴に信じている兆候がある。宗教勢力が退潮する中で日本人の「信仰」、いや「精神的な信頼」の対象になってきているのは、自然科学と社会科学を含めた学識上の一流の人物達である。政治家の発言には疑いと反感(?)の眼差しを向ける一方で、一流の研究者・専門家の発言には理解できるにせよ、できないにせよ、聞き入れる耳を持とうとしている様子がうかがえる。

宗教は人々に信じてもらうからこそ権力をもちうる。科学も同じである ― もちろん政治も同じである。しかし、いま日本人の心情において、信じられているのは宗教界の発言ではなく、科学の側からの発信ではないだろうか?

確かに池田大作は創価学会会員に精神的影響力を行使してきた(と観られる)。信じられていたからである。それを以て「政治的影響力」だと批判するのは、普通の職業政治家の羨望と嫉妬だろうと観てきた。小生とは関係のない話しで、客観的に心配するべき状況ではないと思ってきた。

他方、コロナ禍の中の対応はまだ記憶に新しいが、足元では国際関係論の専門家がロシア=ウクライナ戦争の本質を語ったり、イスラエル対パレスチナの歴史的対立について語る場面が多い。一流の専門家が解説すればするほど世間的には喜ばれている、これはアカデミアの側からの発信である ― 個人的には、あの藤原定家が日記『明月記』に記したという

紅旗征戎吾が事に非ず

( 大義名分をもった戦争であろうと所詮野蛮なことで、芸術を職業とする身の自分には関係のないことである)

という姿勢が好きで、学問的研究は(芸術的活動もそうだが)世間とはあまり係わりを持たないのが本筋ではないかと思っている。たとえ自分自身の研究であっても、そこから得られる助言を世間に正しく伝える仕事は、(どんな事でも正しく伝えるのは難しいことだが)極めて言葉使いが難しい。かつ、一度始めれば文字通り「雑用」に追われ、途中で停めるのは困難だ。本来の仕事に集中できる時間こそ不可欠の生産要素であるにもかかわらず。

いま日本国内で、どんな仕事に従事している、どのように評価されている人物が信頼されているのか、事実が語っているというものではないか。


もちろん《社会の中の科学》、《社会の中のアカデミズム》に異を唱える気持ちはまったくないし、アカデミズムとジャーナリズムの一体化が悪いと思っているわけではない。寧ろ喜ぶべき方向なのだろう。

しかし、標題のように「政教分離」を心配する気持ちがあるのなら、よくよく考えるべきだと思う。

宗教を支える信徒たちは概ね悩みの深い一般大衆が主である。それに対して、科学に携わる人を支えるのは科学を理解し、論理を日常ツールとする人たち、いわば<エリート>たちであろう。

つまり、政治家 vs 宗教勢力という対立図式の下では<上層 vs 下層>の対立が基軸になることが多い(と思われるのだ)が、政治家 vs 知的エリート層という図式では、結局はエリート層内部の見解上の相違に帰する面がある ― 政界上層部もその支持基盤はマネーを支配する階層だから。

最近はこんな風に観ているわけで、日本の未来政治は<世襲の政界貴族 vs 知的エリート>の対立が政策を動かしていく。そう思ったりしているのだ。この秋、日銀総裁に東大の植田和男教授が就任したが、このような抜擢は一過性のサプライズ人事ではなく、今後の日本では次第に増えていく。そのうち、アドホックな(任期付き?)高級官僚任用も自在にできる方向で公務員制度が次第に改変されていくだろう。もしかすると、これは明治維新直後の政府人事のあり方に近づくのかもしれない。

仮にそうなったとして、中央省庁、公的機関の上層ポストに国際的評価の高い知的エリートが抜擢される動きを、日本人は忌避し、非難するだろうか? むしろ旧態依然とした年功人事、政治家に対する忖度だけが上手な叩き上げの官僚よりは余程評判がよい人事だと受けとめるに違いない。政と官との関係性も再定義され、日本政治の基本骨格がやがて「見える化」されるだろう。

であるので、エリート層内部の見解上の対立が今後の日本政治を動かす基本構造になる可能性が高いかもしれず、中下層の人々の毎日の苦悩を代表するような政治勢力は影響力のない周辺部に追いやられ何の権力もなくなるかもしれない。

将来のいつの時期にか、こんな状況がやって来るなら、日本社会は21世紀前半を通して、《権力の偏在化》が進行したと後になって歴史的に認識されるだろう。

つまり、言いたいことは

政治 vs 宗教の対立は現代日本の政治構造としては良い面もある。宗教組織が一定の政治的影響力をもつことは日本社会の改善に望ましい面もある。

実はそう思っている。

しかしながら、現実はそうでなくなりつつある。そんな印象をもっている。


さて、それはともかくとして、


ネット上で発言される意見や批判はほぼ全てが匿名だ。なるほど匿名アカウントでSNSにアクセスする権利はあってもよいし、便利でもある。しかし、こと政治に関することはチャンと顔と名前を出して意見を言うべきだ。

匿名の意見表明は《怪文書》と同じ扱いでイイと小生は思う。怪文書が影響を与えるような社会は民主主義の衣をかぶった暗黒社会である。誰がこんな事を言っているのか分からない社会は、気色が悪い。そう感じるのですがネエ……。

この点だけは、あわれ逮捕されるに至ったが、ガーシー被告は筋を通していたと思う。

実は、本日は、これが一番言いたかった事である。

※ なお、本ブログは外観は匿名だが、実はそうではない。念のため。


【加筆修正】イタリック部分

2023-11-26


2023年11月24日金曜日

感想: 養老孟司氏の「生きるとはどういうことか」について

養老孟司氏は『バカの壁』の筆者として著名である。「壁シリーズ?」の全巻を読んだわけではないが、読んだ巻から伝わってくるのは、知性と忖度は違うということだ。

「忖度」とは自己の言動に対する相手側の(世間の?)反応を予期したうえで自己の、あるいは共同の利益を増やすという、いわば「打算的行為」であるのに対して、「知性」はある話題について自分はどう考えるのかという「認識」を形成するのに役立つものだ。

知性とは知るための性。虚偽と真実とを見極める人間本来の力である。虚偽に基づく意思決定をすれば必ず迷路に陥る。真実を直視して行動を決めなければ生き続けることはできない。その意味で忖度 ― 実は、正確には阿諛、追従と言うべきだが ― は悪い行為なのである。正に孟子の昔から

是非之心、智之端也

是非の心は、智のはじめなり 

二千年以上の昔から分かっていたわけだ。

もちろん養老氏が、世間の反発や反応にはまったく目を向けない超俗的な人柄ではなくて、実は「こうすれば売れる」というもっと俗っぽいキャラクターなのだという穿った見方も不可能ではない。が、文章を読んだり、TV画面から伝わってくる印象と総合すると、やはり信用できる人じゃあないか、と感じている。

その養老氏が標題のような話題について書いているので読んでみた。

例によって、Evernoteに保存した全文で下線を引いた部分を引用する形で要約としておきたい。

人はなぜ生きるか。こう訊かれると、すぐにいいたくなる。そりゃ、人によって違うでしょうが。

べつに私は仏教徒ではない。でも外国の書類に宗教を書くときは、仏教徒と書く。そう書いたところで、信じる教義を訊かれることはない。でも仮に訊かれたとしたら、「欲を去れ」だという。そう聞きましたという。如是我聞である。

「世界はイヤなところだと思え」。そう書いていたのは関川夏央氏である。こういう点では、私もそう思う。いまでは世界は人間でできているというしかない。その人間の悪いところを無限に拡大するようなことは、勘弁してほしいと思う。でもそうはいかないといいつつ、欲望は無限に増大するように見える。やっぱりお釈迦様は偉い。

 現代人は「仕方がない」が苦手である。何事も思うようになると、なんとなく思っている風情である。コロナに関する議論をテレビで聞いていると、しみじみそう思う。ああすればよかったじゃないか、こうすればいいだろう。ほとんどの人が沈む夕日を扇で招き上げたという平清盛みたいになっている。「ああすれば、こうなる」というのは、いわゆるシミュレーションで、ヒトの意識がもっとも得意とする能力である。それがAIの発達を生んだ。これは右に述べてきたような私の人生観と合わない。

……面倒くさいなあ、AIに考えてもらいたい、と思ったりする。やっぱり話はいまではAIに尽きるのである。

宗教は衰退しているといわれるが、AIが宗教に変わったという意見もある。未来をもっぱらAIに託すからであろう。AIは碁将棋に勝つだけではない。なんにでも勝つのである。

 自殺が多いのは、人生指南のニーズが高いであろうことを示唆している。日本でいうなら、コンビニより多いとされるお寺の前途は洋々である。若者が死にたがる理由は複雑であろう。とりあえず打つ手は思いつかない。

 Source: 文春オンライン

Date: 2023-11-19

Author: 養老孟司

URL: https://bunshun.jp/articles/-/66991


思わず

ハイ、いまの発言に一票を投じます

そう言いたくなった。

現代人は「仕方がない」が苦手である。

何度も本ブログに投稿しているが、この点に最も強く同感する。

ずっと以前、旧友と盛んに議論をまだしていた年代であったが、

お前が言っていることは、そもそもこの社会は人間の知恵でより良い方向に持っていけるということだろ?「設計主義」って奴だ。しかし、そんなことは不可能なんだヨ。社会を思うように変えられる人物がどこにいる?どこにもいない。日本の総理大臣でやりたいことを成し遂げた総理がいたかい?ナポレオンはヨーロッパ社会を思い通りに変えたか?負けただろ、最後には?社会は変えるものじゃなくて、変わっていくものなんだヨ。

何度言ったかしれない。だから旧友との議論はいつも水掛け論で終わったものである。

社会が変わるのは「仕方がない」し、悪い方に変わっても、仕方がないものなのだ。生きる時代のめぐり合わせが悪いと思うしかない。「仕方がない」。イスラム教徒ならインシャラーと言うだろう。「神が望むなら」という意味だ。

人事を尽くして、天命を待つ

最後にはこう認識するしかない。いくら自然科学が進歩しても、社会科学が進歩しても、宇宙を思うがままに制御するなど決してできない。

一定の時間が経過すれば、太陽は膨張するし、地球は消失する。その後で太陽自体も小さな白色矮星かなにかに退行するのである。これは天文学的に正確な予測である。もちろん、その前に人類は進化上の必然性から消滅しているに違いないと思われるが……

人は、結局、何かを信じたいのである。人が、信じているもの、それ即ち「信仰」であり、「宗教」である。こう定義づけても間違いではないかもしれない。

この流れで議論すれば、現代日本人の多くが信じている宗教は「科学」という宗教である。「数学」という宗教である。もちろん具体的教義(=理論)については理解が及ばず、無知である。

神が救ってくれるという思いは、科学は人を救うという思いと、質的にどこが違うだろう?

しかし、少し前の投稿で述べたが、科学に可能な事は主として「生活水準の向上」であって、人間を救うことではない。生きるうえでの不安を取り去ることは科学にはできない。おそらく永遠にできないと確信している。

その科学に、AI(=人工知能)が加わった。AIのサジェスチョン。古代ギリシア人が信じたデルフォイ(Delphi)の神託とどこが違うだろうか?

これで人類は「安心」というものを得られるか・・・?

まあ、養老氏は

お寺の前途は洋々である

と考えているようだが、生身の住職の代わりに<AI住職>が声明を流したり、読経をしたり、深い問題について説法をしたりするようになるかもしれない。その意味では、お寺の未来は明るい。

しかし、そもそも神や阿弥陀如来という超越的存在を信じないのであれば、AIを搭載したお寺に行って説法を聴いても、その人の不安は救済されないであろう。

科学を信仰する人にとって自分の生を救ってくれるのは医学以外にはない理屈だ。そのようなタイプの人は、寺院や教会ではなく、病院やホスピスを訪ねるべきであろう。

神や阿弥陀如来ではなく、科学を信仰する限り、生きることへの不安は決してなくならない。そんな理屈になるのではないか。

養老氏は、

現代人は「仕方がない」が苦手である。

と指摘しているが、「仕方がない」と認識できる民族、国民は地球上に数多いる(はずだ)。日本人の中にも、そう認識できる人は多数いる(はずだ)。しかし、過半数の日本人は、いま確かに

仕方がないで済ませてはいけない

と、考えているのかもしれない。

小生は、

人間に可能なのは努力である。しかし結果は天命によるものだ。人事を尽くして天命を待つ。仕方がないと認識するべき余地は多い。

そう認識している。

ヒトは努力する限り、迷うものだ。

なるほどゲーテは本筋をついている。どんなに努力をしても、仕方がないでは済まされない余地は残る。だから真理を求めて常に迷う。迷いが努力を生む。故に進歩するのである。つまり、努力は人間の行為、進歩は神の贈り物。神が何を贈るかは人間にとっては「仕方がない」ものである。

「欲しいものが得られない」、「努力をするにはもう疲れすぎた」、日本人の不幸や閉塞感を生んでいる根因はこんな思いにあるのかもしれない。しかし、これまた「仕方がない」と考えるしかないのではないか。

そもそもの話し、どこまで努力をするか、それは個人ゝが決めることで、幸福追求の自由という個人ゝの人権に属することだ。社会的に望ましいとか、望ましくないとか、こんな議論自体が全体主義的なのである。

2023年11月21日火曜日

ホンノ一言: 「第三者委員会」という問題解決法が流行っているようだが

最近日本で流行している言葉の一つに《第三者委員会》がある。宝塚歌劇団でも「第三者委員会」に組織改善のあり方検討を委嘱したいとのことだ。何か不祥事を引き起こしたり、解決困難な問題に悩んでいる場合に、内部の委員会ではなく、純粋の他者による調査委員会に解決策を委ねようという方法は、問題解決に向けた最近の<定石>になりつつあるようだ。

まあネエ……とは思います。

組織運営には平時もあれば非常時もある。何であれ問題解決に十分な能力をもっている人物が組織運営の中枢にいない、だから外部の人間に考えてもらう、これ自体が可笑しいじゃないか…そういう日頃の感想であります。問題が紛糾して当事者間で合意や和解に至らない場合は、日本は法治主義であるから、司法の場で法律に則した解決を得る。これが標準的な進め方である。

司法ではなく、第三者委員会に結論を出してもらう。この方がコスパがいいのか?得をしている人間がいるのか?Why?、そんな疑問は随分前からあるのだな。

内部の人間による調査、外部の人間による調査。問題発生時の調査ではないが、評価に関して、ずっと気になっている論点もある。


小生は役所と大学で仕事をしてきたので、双方の評価システムが余りに異なっていることに困惑したことがある。

役所では基本的に自己の評価は上司が行う。下部セクションの評価は上部の中枢が行い、人事配置でその評価が反映される。そんな組織で深刻な問題が発生したとき、組織外の専門家に解決策を検討してもらおうというのは、自然な延長線上にある選択だと思う。

だから、役所を辞めて大学に戻るまでは、

評価とは外の人間がやることだ ― 仕事も自分で決めるのではなく、上から降ってくるものだ

そう思い込んできた。

他方、大学では学生を評価するのは教師の側である。つまり個々の教師の授業が評価されることはない。大雑把に言えば、大学教師は職務を規定した公募を通して任用されるという意味では、《ジョブ型雇用》に近い形になっている ― 同じとは言えない。そういう建付けである。

だから、学生による授業評価が行われるようになったのは、外部の人達の想像を超える思い切った決断だったわけだ。しかし、いざ実施してみると、授業評価結果の公開は、学生側だけではなく、教師側にとっても有用であることが分かった。なるほどアメリカの大学で学生による授業評価が先に定着しているのは当然だと思ったものだ。

学生による授業評価と併せて、教師による自己評価もまた同じころに導入された。始めてみると、学生による授業評価と同じように、自己評価もまたWebLogのような自己モニタリング記録として実に有用であることが分かった。

どちらも現場での評価活動である。


話しは別になるが、《外部評価》を導入する大学が増えている。小生が勤務した大学でも、何年かに一度は外部評価対象になり、評価委員が来訪する前後は「電話待機」を要請されたものである。

思うのだが、この《外部評価》というのは、実際の役に立つことがあるのだろうか?正直なところ、そう感じることがしばしばあった。確かに、本省が予算配分を行う時に、こうした外部評価結果があれば有益だろう。本省が財務省に予算要求する際にも役立つはずである。その位の事は直ちに分かる。しかしながら、外部評価結果が被評価大学のパフォーマンスを改善するモメンタムになるのは、いかなるチャネルを通してそうなるのか?そんな疑問は当然にあったわけだ。

正直なところ、小生が担当する統計関係科目の授業設計をどうこうするという意味で外部評価結果が役に立ったことはない。仮に、ヒアリングの場で統計関係科目の授業内容に立ち入って、「現在の授業内容よりは……という内容の方が教育効果があるのでないか」と質問されたならば、「その提案には十分なエビデンスがありませんし、現在の授業内容は学生に十分評価されています」と、マアそんな風にヤンワリと回答し、提案をそのまま受け入れることは拒んだと思う。

もちろんその外部評価委員が、小生と専門分野が同じ統計領域で、質問のレベルが明らかにhigh qualityであるなら、それは小生にも直ちに分かるので、ヒアリングの場は実に知的に充実した丁々発止のやりとりとなったろう。その会話は授業内容の改善に大いに寄与したはずである。しかし、そんなことは一度もなかったのだ、な。

つまり、言いたいことは、

外部評価をするなら、外部評価をする人たちの能力評価は、誰がするのか?外部評価委員の能力評価をする人の能力評価をする人は誰か?……

こんな無限ループをなぜ一般の人たちは心配しないのだろう、という疑問がある。

そして、外部評価委員会に言えることは、第三者調査委員会にも言えることだろう。


小生は統計分析の現場で育ったせいか、現場の問題解決に専門外の外部の人間が首を突っ込んで、責任を負うことなく提案をすることには抵抗感がある。

内部の人間には内部であるが故のバイアスがあるし、外部の人間は現場を知らないという弱みがある。これは普遍的に当てはまることで、オールマイティの問題解決法はないというのが真実である。有能な外部人材であれば、委嘱された問題点に一般的に導出できる結論が当てはまるかどうかという点を正しく洞察できるだろう。故に、第三者調査委員会が機能するかどうかは、外部調査委員、特に委員長の能力に帰することで、こう考えると、外部であれ、内部であれ、

結局は、有能なヒトなら問題を解決できる。無能なヒトは問題を解決できず、状況は悪化する。

こんな当たり前の結論になるわけで、太平洋戦争中に大本営から作戦指導などと称して中枢部から参謀が出張って来ては現場の作戦指導を混乱に陥れた史実を思い起こせば、みな知っていることである。

教室や学級をそのままにしてクラス替えで人を入れ替えても、授業でやっていることが同じであれば、学校としては何も改革されていない。改革とは人が毎日する仕事そのものを変えることなのである。仕事そのものを変えながら同じ理念を追求し続ける……、易しいことでないのは当たり前だ。外部の人材なら解を見出すだろうと期待する理由は何なのだろうか?

最近聞くことの多い《第三者委員会》も、それが信頼できるというロジックは内部調査ではなく、外部調査の方がより信頼できるというものだ。調査であれ、評価であれ、委員たちがやる仕事は似ている。

司法ではなく、外部人材から構成される第三者委員会を選ぶというのは、何故か?法廷の場であらゆる証拠を吟味し、関係する全ての証人から正確な証言を得て、厳正な判決を得るのは嫌なのだろうか?


AならAという組織があって大きな問題が発生する時、Aという組織をBという組織に改革してでも組織を存続させる。これが目的なら外部の人材に構造改革案を提案してもらうという選択肢がある。しかし、Aという組織に所属する人物には、それはそれで創業の理念、伝えるべき価値があるかもしれず、AをBに改革する意志はないかもしれない。

組織改革を担当する人物は、組織内に所属し、人生をかけて努力できる人物でなければなるまい。人生をかける程の意志を持たない人物は他社に転じる方を選ぶ。組織改革に失敗すれば、その組織は消滅する。こんな自浄機能を社会がもっていれば、それはそれで良いはずだ。わざわざ第三者委員会という場に外部の人的リソースを割いて、問題が発生した組織の存続について「考えて差し上げる必要性」はないのではないか?

ただでさえ、日本は消失するべき組織がゾンビ組織となって存続しがちであるという問題がつとに指摘されているのだ。問題を引き起こして市場から退場する事例はもっとあってもよいと考えるべきだろう。


組織の問題とその解決、組織の改革と存続への努力、努力の成否、組織存続の可否まで、全てを含めて、組織の経営はその組織の経営者に全ての責任がある。外部の人間が責任を負うことはないし、責任があると考える筋合いでもない。

【加筆修正】2023-11-22

2023年11月20日月曜日

断想:人権侵害をうながす気風はそもそも日本人本来の感性とは違うのかも

本年1年間を通して非常に目立ったのは数々の人権侵害事件が相次いで発覚したことだろう。何年か後に、2023年という年を振り返る時、今年という年が日本における《人権尊重元年》と呼ばれるようになるかもしれない。

というのは、例えばジャニーズ創業者社長による大規模な性加害行為があるし、最近になって世間の注目を集めている宝塚歌劇団内部の人権無視体質もある。スポーツ界の有名選手が結婚したところマスコミの<取材禍>に遭い、ごくごく短期間で離婚を決意せざるを得ないという顛末になったというのも人権問題の一つではあるだろう。

極めて社会部的な話題だが、以前から感じていた問題現象がまた反復されているとも感じるので日頃の感想をメモしておきたい。

世界では、人権>国家であり、人権>組織であり、人権>社会であって、(個人の)人権の尊厳が最優先で重視されるべきだ、そんな価値観が支持を集めつつある。小生はこれが単なる希望的観測であるのを怖れる。

かたや、日本では数々の過労死事件や人権侵害事件が次々に発生しているにも関わらず、まだなお

人権<会社であり、人権<社会である

これが日本社会の基本だと。そんな思考が支配的だと感じることが多い。つまり、基本的にみて、日本社会は「全体主義」的であると思うのだな、いまだに。

なるほど個人が組織に従属するという情況の下で相次いで悲劇が発生するごとに

人権>会社

であると、マスコミや世間では大いに声が出るわけだ。

しかしながら、本心から、原理原則として個人ゝの人権を尊重するわけではないことは、実際の社会の動き方をみていると直ぐに分かる。人権を尊重するというのは、社会の要望よりも優先して、当事者個人の個人的な状況と意志をより尊重するという基本原則を指して言う言葉である。そんな理念に帰着する言葉だ。

こんな原理に戻って見直すと、日本においては、「人権」も「民主主義」も単なる言葉として使われているに過ぎない所がある。


たとえば「報道の自由」という言葉の前ではプライバシーは忘れられてしまう。そもそもプライバシーが不特定多数者に露出されるのは、(犯罪行為の通報を除けば)人権侵害であろう。メディア企業は「報道の自由」を「民主主義の基盤」だと主張して、それが何よりも尊い価値であると主張している。しかし、メディアという民間企業の自由がいくら民主主義にとって重要であるからといって、企業が個人の人権を侵害してもよいという理屈にはならない。企業だけではない。個人が他の個人のプライバシーを侵害するのも不当である。

企業には企業理念があると言っても、だからと言って、過重労働を正当化する理由にはできない。いくら国家には正義があると言っても、戦争で敵国の非戦闘員を「多数殺害」してもよいという「戦術上の必要」を主張すれば、それは戦争犯罪者の言い分である。

自らの命を守るのは、普遍的に人がもつ基本的な人権である、と。そう考えられつつあるのは、現代社会も捨てたものではないと観ているのだ。

自ら守ることが出来るという普遍的な権利の対象は「命」だけではない。「人間としての尊厳」も対象の一つであるし、「幸福を追求する自由」、「(正当な理由なく)幸福が侵されない権利」もそうであろう。この辺りの考察と定着を改めて徹底するべき所が戦後日本社会には(ずいぶん)残っていると感じることは多い。

何ごとであれ、個人の人権を制限するには、真にその措置がやむを得ないと確認され、人権制限が認められる状況を列挙した上で、正当な法的手続きによらなければなるまい。手続きなき人権侵害は、全て(原理として)不当であり、犯罪であり、人権侵害を犯した当事者は(何らかの名目を与えた)刑罰の対象となる。

今後の世界でこんな風な価値観が有力になってほしいと小生は期待している。そうすれば、戦争という国家の行為も(理屈の上では)規制できる論拠になろう。

それに先立って、日本国内でも法務省・人権擁護局と全国に14000人もいる(はずの)人権擁護委員の権限を強化するべき時機が到来したと観るべきなのだろう ― そもそもの話し、検察庁と人権擁護局が同じ法務省に同居しているのは奇妙な気がしないでもないが。ともかく、国内行政で解決できる問題は多々あるはずだ。

でもナア……、日本はヤッパリ遅れるのだろう、と思う。日本社会で本質的に価値観が転換するには長い期間がかかるかもしれない。

日本社会では、しばしば個人による人権の主張は利己主義に基づく行為として見られる所がある ― 決してそうではなく、いわば「株主代表訴訟」と似た働きをするのだが。そして

利己主義は悪である

そう断定する価値観には今なお一定の信奉者がいる。

自己利益ではなく、社会への貢献を志すべきだ

こんな「ド正論」が日本では今なお支配的である。


誰でも自由に行動することを通して、結果としては社会に貢献しているものである。

しかし、日本社会では、そもそも最初の動機が利己的であることを恥じる風潮が強い。強すぎるのだ。故に、自己犠牲と社会貢献を求める意識が支配的になる。余りに支配的であるのだ。そのことに当の日本人自身が辟易として、困惑し、閉塞感に落ち込むというのは、実にまったく滑稽を通り越して、

面白うて やがて悲しき 鵜飼かな

で頑張る鵜さながら、人に求められるがままに懸命になって働く鵜の哀しさと、日本人の閉塞感とは、どことなく相通じるものがあると感じるのだが、どうだろう?

この明治以降の近代日本社会の伝統とも言えるような日本人の気風(=エートス)が、自らに降りかかる人権侵害を自ら訴えることを後ろめたく感じさせ、一人一人の日本人に自分の人権を守ろうとする決意を難しくさせている。そう思う今日この頃であります。

宝塚音楽学校と歌劇団を今までの姿を保ちながら構造改革を進めることがおそらく困難を極めるだろうと同じように、《日本社会の理念転換》もまた困難を極めるに違いない。


しかし、凡そ150年間にわたって継承してきた日本人の気風(=エートス)は、古典・古文をひもとけば分かるように、ずっと昔から受け継いできた感覚や習慣、常識とはまったく異なるものである。まず間違いないと思っているのだが、現代日本人の間で共有される気風は明治以降の近代日本政府が努力をして意図的に形成したものである。そもそも最初から日本人がもっていた気風や美意識がどんなものであったのかを知る上でも、現代の学校制度における教科カリキュラムの中に《古文》が置かれている意義がある。そう考えるべきなのだろう。

こう考えると、「古文」という教科科目が配置されているのは、決して役に立っていないわけではなく、大いに意義がある教育努力である、と。そうも思われるのだ、な。

今日は、人権侵害から学校教育にまで話が広がってしまった。この先はいずれまた、ということで。

2023年11月19日日曜日

ホンノ一言: 7~9月期の実質GDP前期比をどう見る?

 2,3日前に7~9月期の実質GDP前期比がマイナスになったというので、年初以来の回復基調が終わったとか、一時的な落ち込みであるとか、(例によって)色々な人が色々なことを言っている。要するに、専門家も一致した見通しは持ち合わせていないということで、この点だけは日本もアメリカも事情は同じである。

実際、日経に掲載されていた図をみると


Source:日本経済新聞
Date:2023年11月15日 
URL:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA140PT0U3A111C2000000/



マイナス2.1パーセントいう成長率は「年率」であるから、この3か月間の増減率のまま1年が経過すると年間成長率は▲2.1%に達するという意味である。

それにしても、この図はあまり良い作図ではない。開始時点において成長率年率が20%を超えているのは、コロナ禍期の大幅落ち込みの直後の反動である。その前の期とならせば、概ねゼロ近辺の成長率趨勢を続けている、というのが実質GDP前期比の姿だ。


このグラフから景気循環の見通しに役立つ情報を取り出すのは、よほどの経済専門家にとっても至難の業だろう。

ということは、今回の実質GDP前期比についてマクロ的観点から解説を加えている多くのエコノミストは他の情報と総合させて語っているわけである。その「参照している他の情報」を全面的に明らかにしないのは、個々のエコノミストの「商売上の秘密」というものだと思われ、この辺の行動パターンは以前の「官庁エコノミスト」のほうが良心的であったような印象をもっている。

予想するに、口には出さないが、内閣府の景気動向指数はフォローしているに違いないのである。最近、エコノミストによる経済解説の場でこの経済データが言及されることがほとんどなくなっているのは、不思議に感じられる程で、多分、数多の民間エコノミストは「早わかりアンチョコ指標」を見ているような印象を持たれるのが嫌なのかナア、と邪推しているところだ。



URL:https://shigeru-nishiyama.shinyapps.io/getdrawci/

上の図は景気動向指数の先行指数と一致指数を描いている。直近月は9月である。

すぐ分かるように、先行指数は2022年初から急低下したが最近になって下げ止まっている。一方、生産・販売の現状を示す一致指数は7~9月期にかけてなお上昇トレンドを続けている(ように見える)。

もちろん景気動向指数の算定の基礎になる統計データは全て季調済である。7~9月期にかけて一致指数がなお上昇トレンドを保っているという点が実質GDPと違っているが、前にも書いたように、小生は実質GDPの季調済前期比は動きがおかしいと(以前から)感じている。「7~9月期のマイナス成長」は眉唾とまでは言わないが、数字のマジックではないかと受け止めている。

とはいうものの、楽観するべきではない。1985年以降の40年弱にわたる景気変動を通して、先行指数が上昇基調から低下基調へとレジーム転換してから何か月かの遅れの後、一致指数は必ず低下に転じていることを図は示している ― そのラグ月数は景気循環サイクルごとにマチマチではあるが。

なので、先行指数が低下してきた以上、いずれ日本経済は多少の景気後退に陥る可能性が高いと思っている。ただ、先行指数の低下に足止めがかかっていることから、景気後退に陥るとしても、その度合いは軽微である。そう予測しているところだ。


2023年11月14日火曜日

ホンノ一言:女性が労働市場に参入して一人当たりGDPが増えたと言ってもネエ……

今日届いたIMFのメールマガジンではアベノミクスの政策効果をプラスに評価している。特に、

Japan has one of the oldest populations globally, with its working-age population shrinking since the late 1990s. Despite that, Japan achieved impressive per capita gross domestic product growth, trailing only the United States, from 2012 to 2019 during “Abenomics”—the combination of monetary stimulus, fiscal flexibility, and structural reform advocated by Prime Minister Shinzō Abe.

労働力人口が減少する中で、マクロの経済成長はともかく、一人当たりGDPの成長率が下図のようにアメリカに次いで第2位という結果を残しているのは、高く評価されるというニュアンスだ。


この要因は、IMFも指摘しているように
A major contributor to per capita growth was the rising number of women entering the labor force. The female labor-force participation rate in Japan rose to 74 percent in 2022 from 63 percent in 2012.

つまり女性労働力である。

非市場家庭内サービスを担当していた専業主婦が、労働市場に参入し、サラリーをもらって働くようになれば、それまではゼロであった付加価値がプラスになるので、人口で割った一人当たりGDPが成長するのは当然の理屈であって、IMFの分析担当者が言う通りだ。


しかし、<国内総生産=GDP>という概念を考えるとき、主婦(と限ったわけではない)が担っている非市場性の<家庭内労働>も本来は帰属評価をして「国内総生産(=GDP)」に加算するべきなのである。

類似した例として、持家に居住している人は家賃を住宅市場で支払っているわけではない。が、現行のGDP推計においては、持ち家という住宅資産もまた住宅賃貸サービスを生産しており、持家居住者はその営業余剰を所得として受け取り、それをそのまま消費支出として支払っているという「帰属処理」をしている。

持家サービスについて帰属処理をするなら、もっと重要な主婦労働も(本来は)帰属処理をするべきだ、というのが当然の理屈になる。

実際、内閣府・経済社会総合研究所では、主婦労働を帰属評価した<広義のGDP>を試算したことがある ― 一回限りの試算で、定期的に推計するまでには至らなかったようだが(資料はこれ)。


つまり言いたいことは、専業主婦が労働市場に参入し市場性サービスを提供することにより確かに現行概念のGDPは増加した。しかし、労働市場で働く分、非市場性の家庭内労働時間は減っている。もし、平均的に期待される賃金で家庭内労働を評価するとすれば、労働市場で働くプラスと家庭内労働が減るというマイナスが相殺されて、広義のGDPは増えていない。そんな理屈になる。

加えて、家庭を離れ労働市場に移り、家庭からはその時間だけ不在となることによって、それまでは常に家庭にいてくれた母親が不在になるという淋しさを子供が感じるかもしれない。子供に絵本を読んであげる時間も、キッチンで料理を一緒に楽しみあう時間も、子供が読んだ本について母と感想を語り合う時間も削られるであろう。これを満足度の低下と考えれば、社会全体の幸福度はむしろ低下しているのではないかという疑念が生じる。

Non-market ActivityとMarket Activityとの間のこうした選択変容は、全世代を含めた満足度の変化に加えて、家庭内の人的資本育成を通じてマクロの潜在成長力にさえ影響が及んでいるかもしれない。


小生は旧い世代に属するので、IMFのように女性労働力が労働市場に参入したおかげで、日本の一人当たりGDPはアメリカに次いで高い成長率を示したと、そんな数字をもろ手を上げて喜ぶという気持ちにはとうていなれない。

日本社会の現実はとても楽観的解釈が出来るものとは違う。アベノミクス8年間の深層には多くの問題が隠れていた。その時は、労働市場の好転や旺盛な株式市場に幻惑されたが、今ではこんな風に思っているのだ、な。 




2023年11月13日月曜日

ホンノ一言:岸田政権も空っぽのようで意外と真っ当なようで……

<日本病>をキーワードにして本ブログ内検索をかけると、これまでの投稿が数多くかかってくる。

大体は同じことを書いている。

例えば

このブログでも<日本化>、<日本病>については複数回、投稿したことがある。実際、これらをキーワードにしてブログ内検索をかけると、『こんなことも書いていたか・・・』と思うような投稿が出て来て、むしろ(我ながら)新鮮に感じる。

先日の投稿では以下のようなことを述べていた:

要するに、日本国内で積極的なビジネス展開が出来ていない、これが根本的原因であって、まさに民間にこそ《低迷日本》の主因があるのだが、その主因を解決できないでいる日本政府にも大いに責任がある。

・・・日本が取り組むべき課題はもう分かりきっている。一流の外国人政策顧問を招いても、世界的に評価されている真っ当な日本人専門家に問いただしても、まず同じことを提案するはずである。ところがこんな提案をすると日本人の神経を逆なでする。政治家は国民におもねるばかりで、なお悪いことにそんな姿勢を「国民に寄り添う」と美化している。「日本病」の核心がここにあるのは間違いない。

「経済成長」というこの当たり前の目的を達成するには、当たり前のことを実行しなければならないのだが、(どうしたことか、小生には不思議でならないのだが)日本人自らがこの「経済成長」という目標に心理的抵抗感を感じているように見えるのだ。社会心理的な不調のようでもある。

2021年12月14日の投稿だ。

要するに、日本経済が成長できるビジネス機会を日本人自らの意思決定で抑圧している。つまり、日本経済の低迷は自らが選んだ結果である、と。「日本病」というのは言い得て妙で、これを「日本人病」と言い換えても誤りではない。

端的に言うと

市場と民間を信頼せず、社会主義ないし社会主義的である国ほど、健全な経済成長が阻害される

ソ連や東ドイツ、北朝鮮の例を引くまでもなく、ま、そんな主旨の投稿を反復してきた。

~*~*~

岸田内閣は記録的な低支持率にあえいでいるが、その割にはやっていることは真っ当なのかもしれない。少なくとも、マスコミや世評の上では好評だったアベノミクスよりは、成長促進に向けた正しい診断に近付いている可能性がある。

ひょっとすると、政治家としては低評価で、首相自身が自らの意思を強く持たない空気のような存在であるというそのことが、かえって政策理論的には正しい決定につながる要因になるのかもしれない。そんな皮肉な期待をも高めるのだ、な。

「政治主導」という現下の体制の下では、かえって空気のような人が「主導」してくれる方が、良い結果につながるというのは、いかにも日本的であるような気もする。大体、江戸時代の征夷大将軍も建て前は上様であったが、実際にはそんな空気のような存在であったではないか。日本はそんな政治体制が適しているのかもしれない。

~*~*~

本日の日経にこんな記事が載っている。

政府は海外運用会社を招く「運用開国」に乗り出した。家計金融資産2100兆円が外に出ていくばかりでは日本の成長に寄与しない。国内に投資機会をどう生むかが最大の課題だ。

10月6日、首相官邸。米運用会社ブラックロックの呼びかけで中東の政府系ファンドや欧米年金など世界の機関投資家・運用会社の代表約20人が集まった。保有・運用額は計3300兆円に上る。関係者は海外勢が来日した目的を「『具体的な投資案件を見せてくれ』ということだ」と語る。

日本国内の投資案件を海外投資家にも披露しようという意志を首相官邸が持つだけでも素晴らしい事ではないか。

まあ、日本の家計が日本には見切りをつけて保有しているキャッシュを海外投資にシフトしているという最近の流れの中で、その海外からカネが日本に入ってくるというのは、理屈としては考えにくいわけだ。しかし、海外から日本に投資してほしい、と。首相官邸自らがこうした営みを続けていけば、問題の根本は日本に投資したくとも投資案件がないのだ、と。チャンスそのものがないのだ、と。チャンスが無いはずはないのだが、現実にはないのだ、と。その<真実>に政治家がいずれ気が付く。認めざるを得なくなる。自民党政治の間違いにいずれ気が付く。そんな(一抹の?)期待が持てるではないか。

もちろん上に引用した記事の末尾は

日本企業はバブル崩壊以降、設備投資や研究開発を抑えて借入金返済を優先してきた。日銀の資金循環統計によると民間企業部門(金融除く)は戦後、資金不足だったが、1998年から資金余剰の局面に転じた。海外マネーが注目する今こそ、日本が積極投資に打って出る好機となる。

GXだけでなく、省人化や農業など日本経済の課題は多い。投資機会をどれだけ増やせるか。運用立国実現のハードルは高い。

Source: 日本経済新聞

Date: 2023年11月13日 4:00

URL:  https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18AZX0Y3A011C2000000/

「運用立国へのハードルは高い」と疑惑の目で首相官邸の努力をみている。

来てくれと言うなら、『こんなチャンスが日本にあるってこと、知らなかったでしょ』と言えるような美味しい話がなければならない。しかし、そんな美味い話はないことを日本人は知っている ― それとも、日本人には縁のない美味しいチャンスを海外投資家には提供しようという心づもりなのか……。何のために……?

マ、それはともかく、日本人投資家に愛国心がないのではなく、外国人からも『こりゃあ日本に投資機会はないわ』と、こんな引導を自民党上層部に出してくれるだけでも、明るい気分になれるというものであろう。 

2023年11月11日土曜日

断想: 日本人が「個人主義」を(真に?)理解できたかもしれない時代はあった?

最近の投稿で頻繁に登場する語句の中で「個人主義」、「民主主義」、「信仰」、「モノ」は中でも頻出単語であるだろう。

個人主義と民主主義との関連性は意外に大きなテーマだが、個人主義がヨーロッパの香りのする理念であることを述べるのは割と簡単だ。

例えば、リルケという詩人、というより芸術家がいるが、彼の名句の中に

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

というのがある。

リルケは無神論者でも無宗教でもなかったから、「孤独」と言っても「宇宙における真正の孤独」ではなく、神と自己自身が一対一で対話できる状況を指していると考える方が正しい(はずだ)。

ただ、上と同じ言葉を例えば日本国内のワイドショーに出てくる某コメンテーターが口にしたと考えてみたまえ。世間は「孤独」を肯定する発言に非難轟々、そのコメンテーターは大炎上するのが必至である。

しかし、個人主義とは最初からそういうものであり、社会の前にまず先に「自己自身」が存在する。つまり孤独な自己から自分の人生が始まるという認識を受け入れなければ、理屈として、個人主義にはならない。

だからこそ、個人主義を基調とする社会では「同調圧力」は否定するべき悪習であって、決して容認するべきではないという姿勢をとりうる。ロジックはこうなる(はずだ)。

フランスが政教分離を徹底するのは、無神論や無宗教を基本とするからではなく、むしろその正反対で、過去においてカトリック教会が余りにも強大であり、現在も宗教勢力が決して軽視できない存在であること、加えてイスラム教徒移民が無視できない数となり、宗教的対立が社会的不安定につながる可能性を懸念しているからである。即ち、宗教や信仰という面に対して、フランス政治は非常に"sensitive"であって、この種の話題に敏感な感受性をもっている。ここを見なければなるまい。

そこまで警戒しても、時にイスラム狂信者によるテロ事件が何度も発生しているのがフランスの国情だ。発生はしても、それは何故かという理由を体感として理解できる素地がフランス社会には備わっている、というか継承できている。表現の自由と信仰の尊厳の両立について心の底から悩めるだけの感性を継承できている。というか、そういう感性を持たざるを得ない。そう観えるのだ、な。

ここが同じ政教分離でも現代日本社会の情況とはかなり違っている(ように観える)。

日本社会は、上にも触れたように「孤独」という言葉を機械的に解釈することしかできず、内実を含めた意味ある言葉としてもはや聞くことができない状態に、つまり宗教的なことに関する感覚や直観が非常に「退化」した社会になってしまった。そう観ているのだ、な。

戦後日本は政教分離に非常に神経質になっているが、フランスと異なるのは戦前期・日本の国家神道を崇拝する極右勢力を警戒するということであって、極左勢力を警戒する狙いはない。しかしながら、日本人の精神生活に実際に神道信仰が戦前期に根付いていたかといえばそんな事実はなかった、と。亡くなった父はそう断言していた。要するに、戦前期・日本に「信仰」と言えるような精神生活は社会全体を見渡せばホボなかったのではないかと、小生は想像している。それどころか、戦後早々の政治状況を考慮すると、自然を尊重する「信仰」とは正反対の人智万能の「科学的社会主義」を信じる傾向が強かったのではないか?そう思うくらいだ。

旧制高校生の間で昭和天皇は『天ちゃん』の呼び名で通っており、それはどうやら父の学年だけではなく、カミさんの父の学年でもそうであったようであり、ということは全国の若い者の間で「天皇崇拝」とか、「八百万の神々」などを信仰するという心理は、戦前期の日本人の間で微々たるものであった。そんなお寒い状況があったからこそ、日本政府は余計にシャカリキとなり様々な行事を国家として運営していたのである。

父の昔話を小生はそんなものかと聞いていたわけだ。

明治・大正・昭和と近代日本に生きた日本人の精神生活から、いつの間にか信仰とか宗教というものは、実のところ無視できるほどのマイナーな存在になってしまった — 残っていたとしても、江戸以前の宗教文化とは質的に全く異なるものになった。その穴を埋めたのはヨーロッパ起源の科学と哲学の二つだ。そして、科学、哲学の二つとも自然だけではなく、社会をも考察対象とするようになっていた。西洋とは異なり、日本においては、信仰は古い土着の思想、科学は外来の新しい思想だ。

外来の新しいものは土着の古いものよりは優れたものとして信頼されるのが日本のお国柄である。いくらライフスタイルや日常ツールで日本と西洋が同じ外観を示すとしても、精神構造は違っている。ずいぶん以前から、そんな風に思うようになった。

かつて、といっても500年も昔だが、浄土真宗門徒による一向一揆が盛んなりし時代であれば、

必要なのは、孤独、大きな内的な孤独というものだけなのです。

という上の言葉の意味を正しく理解できていた可能性がある ― 他力本願の浄土信仰と、来世の幸福を重んじるキリスト教福音主義とは微妙に違うとは感じているが。

ということは、数百年も昔の日本人の方がヨーロッパ人のいう「個人主義」という観念を、より近く自分自身の精神生活に則して、正確に共感できる感性を身につけていた。

昨今、どうもそう感じられるのだ、な。

科学的社会主義への共感と、個人主義とは、実は水と油である

小生はそう考えている。社会的同調圧力を制度化すれば、それはそのまま社会主義になって当たり前であるから。日本人のマルクス好きは、まだ戦前期と似ているのではないだろうか。

今日はとりとめない断想になってしまった。これも前稿の補足ということで。


2023年11月9日木曜日

断想:時の流れを超越するのはモノや理念ではなく人間心理である

1968年と言えば、55年前だから、《今は昔》といえる程の以前かもしれない。その年に刊行された『源氏物語の世界』(新潮選書、Kindle版)を読んだのだが(不勉強もあって初読である)、55年も前の世代はもうこんな風に考えていたのか、という感想だ。その感性は現在の現役世代は元より、小生の世代より余程進んでいる。

そんな風に感じました。中村真一郎である。若い頃は入試問題にも頻出していた作家である ― そういえば、東野圭吾も村上春樹も流石に齢を感じる昨今、真剣に文学をやっている作家は日本に残っているのだろうか?自然科学は無論だが、経済学や政治学、国際関係論だけじゃあ、文明は栄えませんゼ……

例えば

この『蜻蛉日記』は、したがって一人の女性の苦悩の歴史を書き綴ったものである。――ただし、「日記」といっても今日のように、毎日、書き続けた日録ではなく、その結婚生活の終わりに近付いた頃に、思い出として書かれたもの、つまりメモワール、回想録と言うべきである。

……この日記は、「反小説」のレアリスムの傑作だということになる。……風俗習慣の相違にもかかわらず、人間心理は不思議に普遍的なものである。人はその事実に改めて感動しないわけにはいかないだろう。

こんな下りを読むと、日本文学史をよく知らない人であれば、「ハテ、蜻蛉日記なんていうベストセラーが最近出たかなあ?」と思うに違いない。実際、『蜻蛉日記』というタイトルを『▲▲』と伏字にすれば、上のような評価は明治時代の一人の無名の女性が書いた日記を評価する文章としても通用するはずだ。実は、この『蜻蛉日記』は紫式部よりも更に一世代も前に生きた藤原道綱の母によって千年以上も前に書かれた日記である。

55年も前の世代の人の感受性に<先進性>を感じとれると同時に、千年以上前の平安時代に生きた女流作家の現代性にも驚かされる人がいるかもしれない。


更に、読み進めていくと、

王朝末期はデカダンスの時代である。そして明治以来の近代日本はデカダンスの時代を持つだけの、不健全な余裕がなかったから、王朝末期の文明とその所産とが、積極的に評価されたことは一度もない。…明治・大正・昭和の三代は、生活倫理のうえでかなりきびしい時代だった。…近代日本の道徳の理想が、いかに偏狭なまでに厳格であったかは、「恋愛」というものに対する世論の反応を見るだけで充分である。恋愛は最も個人的な行為であり、個人の本能の流露であり、個人の幸福を人生最高の価値とするものである。

 「常々思うのだが」と言うとまるでドラマのようだが、多くの若い人が成人式を迎える時、あるいは社会人として巣立つ春、ワイドショーの取材記者からマイクを向けられた時に、ほぼ例外なく「人の役に立つ人間になりたいと思います」とか、「多くの人を喜ばせてあげられる人になりたいです」とか、要するに非常に<利他主義的抱負>を口にする人がほとんであることに、小生はホントに呆れ果てているのだ。

確かに、令和という現代は、明治・大正・昭和という近代日本の精神を直系として継承した時代である。

そう感じます。

確かに、人の役に立ちたいという利他的価値観は大切だ。しかし、利他的精神は自己犠牲を尊い行動であると評価する価値観の上に立っている。

普通に考えれば「家族を大切にして幸福を築いていきたいと思います」と、こんな風に自然な願望をマイクを通してTV画面で語る若い人が半数以上はいるはずだが、何故いないのだろう?

こんな疑問が萌してからもう何年たつだろう?


日本人はいまだに個人主義を消化しきっていない。そもそも個人主義という理念そのものがキリスト教を精神的土台とするヨーロッパで育ってきた価値観である。アジアの島国・日本に移植しようとしても、そうそう同じに育つはずはない。どうしてもそう思われるのだ、な。故に、民主主義もまたその精神の上で未消化のままであるのだ。それを裏付けるものではないか。そう考えることにしている。

人の役に立ちたい、仕える人 ― 顧客志向なら客を主とする姿勢になる ― に喜んでほしいという願望が、現代日本社会で尊重される価値観として支持され、評価され、社会で共有されているという正にその状況の下で、多くの<人権侵害>が隠れて進行してきているのである。多分、そういうメカニズムがある。

利他主義が堕落すれば常に上目をつかう「奴隷の態度」になってしまう。

フランスの故ミッテラン大統領に隠し子がいる事実が発覚したとき、女性記者からそれを指摘された元大統領は"Et alors?"(それが何か?)と答えたそうだ。

個人の人権を尊重するフランスのお国柄が伝わって来るではないか。平安時代の上流貴族社会もまた自由恋愛至上主義が骨の髄から肯定されていた時代だった。そのことを同じ時代に生きた作家による古典から知ることが出来る。現代日本が継承しているのは、平安時代の後に支配者となった武家の倫理である。「殿」の観念、「家」の観念、上意下達と男尊女卑の厳格な道徳観である。死をもって償う贖罪観が現代日本の死刑制度維持に反映していないと言えるのだろうか。平安時代を通して日本で死刑は執行されていない。

武家とは侍、サムライ、つまりは「さぶらう人」。誰かに仕えるという精神を持するのが武士である。現代日本人が継承するべき精神は、武士ではなく、武士以前の日本人が持っていた自由な精神であるのかもしれない。


ただ、そのフランスもジャニーズの創業者社長の男色行為は児童虐待、即ち「犯罪」であると非難しているそうだから、人権と犯罪概念のバランスも時代によって刻々と変化するものと考えるべきであって、それこそこの世は無常、常なきモノと言うべきなのだろう。

人の道徳や価値観は時代によって変わる。しかし、人間の感情や心理は変わらない。それだけは真理だと言えそうだ。

【加筆修正】2023-11-10

2023年11月3日金曜日

ホンノ一言: 「反ユダヤ思想」という力にも作用・反作用の関係が当てはまるのではないか

 「イスラエル=ハマス戦争」という呼称は、国家対国家の戦闘行為を指す「戦争」とは(どこかが)違っているようで、どこか違和感を感じるが、ともかく現実に戦争的現象、というか戦時特有の残虐行為が進められていることは確かだ。

「ハマス」は殺人者集団、というかテロリズムを信奉するガザ市内の政治結社である。その政治結社が自国民に対して大規模な武装攻撃をした。となると、イスラエル国内の「内乱」にも見えてしまうが、しかし、ガザ市はパレスチナ人が暮らす「自治区」だ。つまりはイ政府にとっては「外国」に近い存在だ。それでイ政府は今回の軍事行動を「戦争」であると宣言した。

しかし、戦争なら敵軍を支援する第三国があってもイスラエルの内政に干渉しているとは言えまい。中国も新疆ウイグル自治区を抱えているが、そこで「暴動」と「殺人」が発生すれば、中国軍はウズベク人を敵として戦争を宣言し、戦時にのみ許される行動がとれるのか?いや、いや、北京政府は『これは戦争ではない。中国の内政である』と主張するはずだ。マ、細かな理屈は専門外のことでよく分からない。

いずれにせよ、戦争には戦争目的がある。イスラエル政府の戦争目的とは何か?敵の降伏か?領土(=ガザ市?)の併合か?敵の軍事力の消滅か?イ政府の戦争目的がいま一つ明らかでない印象がある。究極的目的は「戦闘行為の終了」、つまり「平和」であるのに決まっているはずだが……


それはともかく、


この「戦争」が始まって以来、世界中で《反ユダヤ主義的事件》が激増しているそうだ。例えばWall Street Journalでも

 欧州連合(EU)の専門機関、欧州基本権機関(FRA)の2019年の報告書によると、欧州在住ユダヤ人の89%が、過去5年間に自国で反ユダヤの傾向が強まったと回答している。それが原因で欧州を離れることを考えているとの回答は40%近くに達した。

 ユダヤ系市民権団体の名誉毀損防止連盟(ADL)によると、米国でも反ユダヤ事件は徐々に増えている。2013年は751件だったが、2022年には3697件に達したという。

Source: Wall Street Journal

Date: 2023 年 11 月 3 日 06:03 JST

Author: Bojan Pancevski, Matthew Dalton, David Luhnow and Karolina Jeznach

URL:  https://jp.wsj.com/articles/wave-of-antisemitism-has-european-jews-wondering-if-they-will-ever-be-safe-fe5a4463


小生は歴史が専門でもないし、仮に歴史専攻であっても欧州の反ユダヤ思想を軽々に議論できないこと位は知っている。

ただ、どんな自然現象も社会現象も力学的解釈ができるものだし、社会現象については心理学的見方も可能だと思うことが多い。自然についても、社会についても、ある力が作用する時は、反作用という力を考えなければ均衡というノーマルな状態を考えることができない。

思うのだが、「反ユダヤ思想」という思想が社会的な力なり、エネルギーとして根強くあり続けたのであれば、「汎ユダヤ思想」という反対の思想も逆向きの力として存在し、欧州社会で作用してきたのではないか。

これは古典力学の単なる類推だが、反ユダヤ思想と汎ユダヤ思想は同じ社会的現実の表と裏の関係にある。そう思うのだが、違うのか?

少なくとも「反ユダヤ思想」という一方向の思想が、それのみで独立した思想として非常に永い期間に渡って継承され続けるという情況は、理解しづらい。理屈として奇妙ではないか。マア、『分かってないんだよネエ』と言われれば、それまでだが……


いい例えではないが、高気圧があるから低気圧もありうる。台風という低気圧があるから暴風雨が発生するのは事実だが、低気圧をなくしたいなら高気圧をなくさなければならない。低気圧と高気圧は、共に存在するか、両者ともに消えるかのどちらかである。一方だけが存在することはない。

両方とも消失させるには、相互混入と均質化のほかにとり得る道はない。


人間の言葉では「▲▲思想」とか「〇〇主義」とか色々な表現に分かれるが、実態として存在する「戦闘状態」という現実は一つであって、二つあるわけではない。なので、現実を説明する言葉は一つに収束するのが自然だ。それがそうならないのは、現実を超越した《独善》に当事者の精神が支配されているからだという理屈になり、その意味で関係者は《盲目》になっている。

18世紀の《啓蒙主義》は英語でいえば"enlightenment"で目を開くという意味だ。この思想が近代世界の発展をもたらしたのは明らかである。

あらゆる独断と独善を排するという姿勢を当事国以外の世界が保つことがいま最も重要なのだろう。

【加筆】2023-11-04

2023年11月1日水曜日

ホンノ一言: アマチュア議員による素人行政で日本経済は何とかなるのだろうか?

岸田首相が今国会の所信表明演説で《経済、経済、経済》という風に「経済」という単語を連呼したそうな。

確かに、日本人全般が政府の政策のどんな分野に最も高い関心を持っているかと言えば、ほとんどの時点で、「暮らし」や「経済」であるのは一貫した事実だ。外交でも、安全保障でもない、普通の日本人が最も強く願望している政策が「暮らし」に関係するものであるというのは、ほぼ自明のことであろう。

その自明のことに、ほとんどのマスメディアは、気が付いていないのかもしれない。視聴者は外交や軍事にもソリャア関心はあるでしょう。エンターテインメントも求めるものだ。しかし、メディア産業に期待しているのは「暮らし」の役に立つ情報だ。この辺でズレを感じるようになって久しい。メディア産業の企業行動が変容した背景としては、永年の<停滞慣れ>、<横ばい慣れ>、<現状維持を良しとする気風>、マア、この辺りを挙げてもよいかもしれない。要するに、経済面でニュースがなかったのだろう ― そんな事はなかったのだが。

そこへ、コロナ後のインフレがやってきた。

インフレ+賃金上昇+高金利

という普通の成長経済への移行が停滞・日本でも間近に迫って来た。


ところが、折しも現時点の日本は空前の人出不足である。成長しようにも労働力の限界が表面化するのは時間の問題である。これまで非正規労働力の源泉として日本経済を支えてきた女性もこれ以上は難しいほどにまで就業率は高まっている。賃金は、政府が旗を振る前から上がっていくであろう。


この人出不足に対応するためにも自動化、AI化など資本設備の高度化が叫ばれている。今は、そんな筋道で議論されているようで、マスコミもここまでは理解してそんな話を何度もしている。


しかし、現時点の日本経済で足らないのは人手、つまり労働資源だけではない。



URL:https://www.ene100.jp/zumen/1-2-7

上図は日本の電力使用実績の推移である。

よく「失われた30年」と言われるが、失われたはずの30年の間も東日本大震災までは日本の電力使用は拡大していた。停滞基調が明らかになるのは、図から明らかなように、東日本大震災の《福一原発事故》の後である。福一事故のあと、日本の電力使用は一貫して横ばい、ないし弱含みである。

福一原発事故のあと、ずっと電力使用が横ばいを続けているのは、需要が伸びていないためというよりは、発電能力が制約されているからであるのは精緻なデータ分析で立証するまでもないであろう。

失われた30年を問題とするのはもう古い。「震災後の停滞」と言うべきだ。

日本経済の成長にとっていま足らないのは<人手=労働力>だけではない。<電力≒エネルギー>も足らないのだ。 

これでは日本全体のアウトプットを増やしようがない。成長を持続させるのは無理だ。

こんな理屈になる。 


「震災後の停滞」と言うと、アベノミクスを否定するような見方になるが、本質的にはそう認識するのが正しいと小生は考えている。

こんな風に思います。



電気が足らない状況で設備投資をして、デジタル化、自動化を進め、人出不足を補えと云われても、そもそも利益は増えず、ビジネスにならないのではないか?

頻繁に「節電要請」をされるなんて、ご勘弁だ。

それよりエネルギー制約がなく電気料金が安価な外国に生産活動拠点を置く方がよいに決まっている。

いま日本が注目されているのは、ビジネス要因ではなく、地政学的な安全保障上の要因で注目されているだけであろう。めっきが剥がれるのは時間の問題だ。やるべきことをやらなければならないわけだ。

もう時間がないのである。そう思えませんか?


今日はエネルギーだけの話しだが、後もまた推して知るべし。研究、大学、初中等教育、リカレント教育などの人材育成から始まり、育児支援、家庭支援、生活支援、社会保障、税制、果ては農林水産業、食糧安全保障、etc. etc. etc. ...。つまるところ、頑張っているのは目立つ所だけで、総合経済ヴィジョンなる冊子を発行している機関も人も学会も寡聞にして知らない。

日本国内のどの政党も、政策立案マシンと呼ぶに値するような組織とは根本的に違う。票は集めても、政策形成に資する人的リソースが集まるメカニズムがない。お寒い限りなのだ、な。

日本の政党は、「ハマス」のような政治結社ではなく、要するに「全国的な選挙互助会」、いや「日本選挙互助会連盟」と言うべきかもしれない。明らかに政治結社ではない。

その意味では、日本の政党は組織として強くはなく「弱い組織」である。財閥系老舗のメガ企業がどこも"coherence"(=一貫性、凝集性)に欠く、クラゲのような多足生物に似ているのは、日本的組織としては共通しているのかもしれない。


いま経済運営のプロフェッショナルは政府内にはいないのだろう。総合的な経済運営プランを所管するセクションもかつては存在したが、いまはない(と言っても可であろう)。専門家が政府部内におらずとも、《市場経済》を基軸として、原則自由にビジネスが展開されるなら、それこそ「安価な経済マネジメント」を行っているわけで、《小さい政府》のメリットを享受できる。しかしながら、日本では多種多様な規制で成長産業への参入ができず、(供給責任という名目から)退出さえも自由にできないお国柄だ。であれば、賢い行政を行うためのプロフェッショナルに任せるべきだ。

規制過剰な行政モデルの下で「政治主導」などと言いだせば、
バスに乗ったら乗客主導で走らせるべきだ
そんなバカな結果になる。「民主主義」って、そんな意味じゃあありませんゼ。危なくって仕方がない。下手は上手に任せる方がよい。

素人より玄人の方が上手なことは確かにある ― もちろん専門家と言われても全く信用できないような分野もあるが。

所詮は、欧米直輸入の「民主主義」が自らの血肉として身についていない日本人の弱みということか。

そう思われてなりませぬ。


専門知識のない国会議員が行政府を方向付ける《素人行政》がこの先も続いていくのかと思うと、ちょっと暗澹としてくる気持ちでございます。

マンション管理のイロハも知らない素人役員の寄合で自主管理するなんて小生が暮らしているマンションだけにしてほしいものだ。

【加筆修正】2023-11-05、11-06