東証の日経平均株価がバブル期最高値を超えたという日にはそぐわない、暗めの断想をメモしておきたい。
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日本人の国民性の特徴はとにかく慎重であることだと言われる。
慎重と臆病とは表と裏の関係にある。過剰な慎重さが臆病に見えてしまうことは確かに多いだろう。しかし、大胆と軽率も表と裏の関係にある。
足元では、積極果敢な投資戦略が求められていると、自らは企業経営をしない専門家たちが日本国内の企業経営者を煽っている。が、
無思慮な大胆さは、ほぼ確実に軽率な行為へつながる
これもまた真実で、何だか戦前期の帝国陸海軍を批評するようだが、慎重ゆえの失敗がある一方で、大胆がもたらす失敗もある。イイところと悪いところがあるのではなく、長所即ち短所なり。そこが分かっていない人は、案外、多いのじゃあないかと思っている。
成功や発展をもたらす要因は、慎重さでも大胆さでもない。マスコミの話題にされやすい人柄や性格、キャラクターといった要素は、(まったく無関係とは言わないが)実際には事業の成否を分ける大事なカギではないと思っている。
が、本投稿の主旨はこういうことではない。
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下の愚息で感心したことが一つある。それは現在の職に就く前の最終面接で抱負をきかれたとき、
誤りのないように心がけたいと思います
と、そう短く答えたそうだ。
人気のあった財界の大物の中には
向こう傷を怖れるな
と、まるで野球の応援団のような檄を飛ばし続けた人物もいたそうだ。
まあ、民間企業の営業現場なら、さもありなん、ということだろう。
しかし、人の人生を左右するような仕事に就く場合は、間違いを何よりも怖れなければならない。
間違った意思決定で人の人生が狂ってしまった場合、その人の人生を後になって取り返してあげることは不可能である。故に、向こう傷を怖れないような大胆かつ軽率な人物は、最も忌避されるべきなのである。
人は、文字通り、適材適所。だから多様な人間集団の方が優位に立てるのだ。
こんな考察もあったので、下の愚息の回答には感心した。
それももう随分昔のことになった。
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とはいえ、実は上の話しには個別具体論が続くのだ。それは、どれほど努力をしていても、人は必ず誤るときがあるからだ。
その誤りに直ちに気がつくとすれば、それは単なる<ちょんぼ>や<しくじり>である。謝罪をして反省をすることが出来る。ペナルティは時に厳しくもなるが、それは仕方がない。その後、再起をすればよいわけだから、ロジックは単純明快である。
真の誤りはその時には気がつかないものだ。
自らは正しいと確信しているときに真の誤りを犯すものである。
正しいと信じていた自分の意思決定が、間違っていたと気がつくまでに10年程度の時を要するなら、それは真の誤りである。また、自分の誤りに気がつき、なぜ誤ったかを理解できるまでに、20年ないし30年の時が必要なことがある。客観的な事実が事後的に判明したり、自分自身の心の中で当時の経緯を回顧することによって、その誤りに気がつくのだ。自分自身が成長することで理解できるようにもなる。そして何故誤ったかという理由や背景も自らが理解する。しかし、それほど深刻な誤りに気がつくとき、過ぎ去った時間を取り戻すことはもうできないのである。
真の誤りには謝罪や補償の余地がない。ただ誤りを認めることしかできないものだ。時が過ぎ去ったあとの謝罪は口先の行為でしかない。ただ、自分自身の良心の痛みが人生が終わるまで続く。寝ても、醒めても、一日の休みもなく、間断なく続く。厳しい永遠の痛みであるに違いない。死は良心の痛みからの解放である。
故に、何よりも
意思決定において決して誤りをおかさない
それが何よりも大事な目標になる立場は確かにある。
失敗を恐れるな
という助言は、時と場合によっては、無責任な扇動になる。
助言をする際は、助言者の方も、状況の細部を入念に調べ、眼光紙背に徹する程の考察を行い、誤りのないように言葉を選ばなければならない。
誤りとは、その本来の形においては、被害を被った相手に謝罪のしようがない。ただ、自分が犯した誤りの罪悪感に苦しみ続けることが贖罪になるしかない。
人間が犯しうる最大の罪は《浅慮》から始まる。つまり思慮の足りない浅はかさが最大の罪となる。そう思うのだ、な。そして、浅はかであることと、知識の欠如、つまる《不勉強》や《無知》であることとは、たいていの場合、同時に見られるものだ。
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