2024年2月7日水曜日

断想: 永井路子『望みしは何ぞ』に想う摂関政治と戦後・自民党政治

ここ1年、マスコミにとっては格好のニュースネタが次々に登場してきたものだから、情報番組のプロデューサーはさぞや仕事が楽だったと想像している。世間的には、幸・不幸の両方が混ざった塩梅ではあるが、メディアにとって有難いのは世の中がずっと多事多端であり続けるということだ。

しかし思うのだが、毎日のテレビ画面、新聞紙上を賑わせているニュースは、今から30年も経ってみると、実はどれもこれも重要な事ではなかった。些細なことだった。多分、そうなるだろうネエと思っているのだ。


今年の大河ドラマに刺激されたのか永井路子『望みしは何ぞ』を読んでみた。平安もの三部作の三番目である。主人公の藤原能信は、藤原道長の息子ではあったが、源倫子を母として陽の当たる道を歩めた鷹司系ではなく、源明子所生の高松系で、同じ道長の子息とはいえ傍流と言える存在である。ただ、能信のやった仕事は、春宮大夫を永年勤め後三条天皇を即位させ、その息である白河天皇が上皇となって院政を始め、摂関政治を終焉へと導いて行ったのだから、歴史的には大したキーパーソンとも言える人なのである。

読んでいると、道長が死去した後、それに触発されたわけではないと思うが、東国で平忠常の乱が勃発した。乱は源頼信が指揮する官軍によって制圧されるのであるが、作中ではこんな風に述べられている:

小さな生命(=天皇の后である中宮や皇后が生む子)が生まれるのか生まれないのか、それがどちらの性徴(=皇位に就きうる男であるか、そうではない女であるか)を身につけてくるのか。

― そんなことでふり廻されて生きているなんて。考えてみれば阿呆な話よ。

その間に関東で起こった平忠常の乱は終わっている。忠常を追討した源頼信がこれを機に関東に地盤を植えつけ、後の武士の勃興の基礎を作った歴史的事件だったにもかかわらず、都の貴族には、それだけの認識はなかった。能信にかぎらず、彼らが関心のあるのは目前の些事 ― 出世と王者の交代だ。この二者は緊密に繋がり、公家社会の求心力となっている。

藤原氏の摂関政治は、娘を入内させ、天皇の男児を産ませ、自らは母方の祖父として政治的実権を握ろうとする政治手法であるから、武力、領地、家臣団など実質的な政治的勢力とは別に決まる、いわば「偶然による成り行き」によって権力の所在が確定するという点に、最初から弱さがあったわけだ。たまたま藤原道長は、多くの娘に恵まれ、その娘たちが入内し、天皇の后となるために他の競合する家門を排除するという、この点において手腕を発揮したのであるが、政治基盤としては持続可能な手法ではなく、甚だ不安定な構造でしかなかった。

だからこそ、ゴシップや人の噂によって政情はどうにでも変わる。そんな時代が、平安中期という時代であったと想像している。

こんな風に、構造的には不安定でありながら、鎌倉幕府創設までの平安400年、藤原氏一門が日本国内のヘゲモニーを把握し続け(られ)たのは、後からみると不思議なことである。

(ほぼ)同じことのように思えるのは、これほど不祥事を次々にひき起こしながら、それでもごく短期間の例外的時期を除いて、戦後ほとんどの期間、ずっと自民党が与党であり続け、日本の政治を運営し続けているという、この事だ。これもまた藤原氏一門が権力の座を占め続けた事例と同じように不思議なことである。

マア、小生は専門家ではないが、戦後日本体制なるものが《アメリカ-天皇-保守勢力(≒自民党・公明党?)》という三本柱で支えられているのに似て、平安中期の日本は《天皇(≒朝廷と官職)-藤原氏-荘園制》という基盤に支えられていたのかもしれない。

いずれにせよ、上にも書いたように、毎日人々が話したり、噂している事は、後になってみれば日々のノイズのような話であるはずだ。おそらくいま足元で毎日メディアから提供されているニュースも、その大半は歴史的意味は何ももっていない語るに値しないような些事である。というより、普通の日本人なら本気とは程遠い、ウスウス座興のような感覚でマスコミが提供するニュースを視聴しているはずだ。


それでも、直近時点で利用可能な情報から、非常に正確に本筋をついている将来予測もあるには違いない。ただ、ほぼ確実なことは、非常に正確な予測なり意見というモノは、世間において極々少数の人々が語っているに違いない。この辺りの事情は以前にも投稿したことがある。

故に、真に知っておくに値する意見は、多数を占めている意見ではなく、評判になっている意見でもない、誰も気が付かない、無視を決め込んでいるような少数意見であるはずだ。そして、その少数意見が実は深い洞察に裏付けられた意見であると理解できる人も、やはり少数であるに違いない。

いわゆる「目利き」は世間において少ないのだ。

その意味では、いま一番大事だと言われる《情報収集》というのは、平安時代の陸奥で行われていた《砂金採り》と非常によく似た努力である、と。そう言えるような気がする。


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