2024年2月8日木曜日

断想: 性犯罪の暴露と混乱を防ぐ特効薬。あることはある。

最近の世相の一断面を特徴づける言葉として《不同意わいせつ罪、不同意性交罪》を挙げることに反対する人は少ないと思う。

こうした《性犯罪》の疑いで週刊誌が(何年も前の)女性の証言を暴露したり、女性側から刑事告発されるというケースが相次いでいる。

何らかの理想的な社会状態を実現するための「産みの苦しみ」ということなのだろうか?どんな社会状態を実現したいと日本人は考えているのだろうか?

足元で訴訟沙汰になっている不祥事だが、女性の人権が尊重されていない日本社会特有の性犯罪が行われた、そういう理解をするべきなのだろうか?

どこかがおかしい、というか何だか不器用な法制度をつくった、と。遠くから眺めていると、そう感じます。

もちろん、「強姦」などの「婦女暴行罪」はずっと昔からあるにはあったが、ここ最近のように女性側から「不同意〇〇」の証言が週刊誌に出てくるというのは、これが世相であるのか、新種の武器を与えられた弱者側の反撃であるのか、結果として人権が尊重される社会に進化していくならいいのだが、そんな保障はないようにも思っているのだ、な。

思うに、不同意〇〇罪の容疑から身を守りながら男女を交えた遊びをしたいと願うなら、その筋の玄人と遊ぶのが定石だ。ところが、そんな世界でもいわゆる《職業倫理》というか、《業界の掟》が社会で共有されるべき価値観と両立しないというので、いざという時には訴訟沙汰になって、マア、その種の遊びをしたい人たちには極めてリスキーな社会になりつつある、というのが足元の社会状況だと思って観ているところだ。

遊び方も、遊ぶための費用の相場も、小生の世代とは変わってしまったのだろう。何だか、道路標識がすべて形だけの存在になって無視されている道路で自動車を運転するときの感覚に近いのかもしれない。

特効薬がある。

それは、売春禁止法を改正して《公娼》制度を復活させることだ。結果として《遊郭》(の現代版)が復活するだろう。

大半の問題は解決可能だと小生には思える。

最も古い職業は「売春」だという。そして、いま最も強固な職業規制も「売春禁止」である。

一般に「職業規制」、「開業規制」、「価格規制」など政府による「規制」には必ず副作用が伴う。それは「規制の穴」をくぐる「闇営業」を根絶できないことである。実際、売春を禁止している一方で、例えば新宿や渋谷では「立ちんぼ」が目立って増えている。売春禁止以前の言葉で言えば、「私娼」である。つまり取り締まるべき違法行為で、これは昔と今で違いはない。

売春を禁止する以前の日本においては、「公娼」と「私娼」を区別していた。衛生管理上、適切な環境にある場合のみ「売春」という行為を公認していたのである。それが江戸・旧幕時代以来の伝統的な管理体制であった。私娼は違法だったが、それでも東京近郊なら玉ノ井といった「私娼窟」があったのは、永井荷風の『濹東綺譚』にも描かれている通りだ。それはそれで当時の人々にとっては、極々当たり前の日常であり、それ自体が問題であるとは考えなかったわけである。

「私娼窟」なる区域が存在することは法的には認められなかったはずだ。その気になれば、当局が当該地域を一斉摘発して、売買春を行っていた現行犯には留置場に入ってもらう。そして然るべき刑罰を課す。そんな判断もありえたろうが、そうはしなかったようだ。その理由は明らかで、生活保護、社会福祉に十分な予算を充てられないのであれば、自助努力による生計維持を政府も認めざるを得なかったからだ。自立自助が原則の国民生活を国家が保護するよりは、国防のための軍事予算により高い公共の価値を置くというのが戦前期日本の価値観であった。

であるので、公認された「公娼」にせよ、本来は違法である「私娼」にせよ、そうした場で遊びに興じる人たちは市場性サービス(の一つ)を売買しているに過ぎず、正当な経済行為で、男女のいずれか、あるいは双方が「〇〇罪」で起訴されるリスクはない、という理屈になる。どんな種類のサービスであれ、売る側と買う側の相対取引は、一般的な法律よりは、ビジネスの論理と規律に双方の側が自発的に服する方が良い、という観方を小生は支持する。

このように法ではなくビジネスに内部化して解決していくとすれば、公認ないし容認されているリスクゼロの遊びの場がある以上、あえて健全な普通の男女が交際して、やむにやまれず「不純異性交遊」(何と古い言語表現だろう)へと走り、挙句の果てに別れ話が拗れて、女性が男性を(あるいは男性が女性を)刑事告発するといった事態は、こうなってしまうリスクを考えればハナから選択しないであろう。そう思われるのだ、な。故に、最近のような性行為トラブルは随分減るはずである。

社会的に売春行為を管理することは、法の建て前では「無い」と前提し、あれば「違法」とするが現実には「闇で」行われている行為を、衛生的な適格性を担保したうえで公認するだけであるから、女性の側の行動の自由、取引の自由を基本的に抑圧するものではない。買い手の側の男性にとっても、売る側の衛生が担保されているから、それだけ感染症リスクが減る。法的リスクがゼロとなるのは既述のとおりだ。あとは、現代日本社会が容認すれば済む。

確かに、前時代に戻ってしまうような倫理的な挫折感が一定程度あるかもしれない。しかし、そもそも「行為の犯罪性」について考えて見たまえ。公設カジノでは、賭博を営業し、巨額のカネを賭けさせて、その一部を営業利益として吸い上げ、更にその何パーセントかを政府は税収入として収めているのだ。日本でも競馬や競輪、競艇が公認されている。フェアに考察すれば、賭博と売春と、モラル上の違いがそれ程にあるわけではないと思うが、いかに。

現時点の日本のテレビ画面や新聞紙上でこんな意見を語るコメンテーターは一人もいないはずだ。が、全ての制約をないものとして、自由に考えれば、現実に売春行為を行う女性がいる以上、公衆衛生上の観点からも「公娼」制度を復活して、社会的に管理することの効果は高いと、そう言わざるを得ないのではないだろうか。

イギリスでも、新型コロナの感染拡大期に強力なロックダウンを政府が実行したため、最も生活が困窮したのは「売春婦」たちであったという。彼女らは違法な行為で生計を立てていたこともあって、その絶望を表立って社会に訴えることが出来なかったと、どこかで読んだことがある。さもありなん・・・である。

社会を改善するためには現実的に対応することが不可欠だ。理念を先行させた建前論では解決困難な問題がある、ということでもある。

理念を絶対化すると宗教的な信仰と識別不能になる。現在の「民主主義陣営」が、政治の現実とは裏腹に、イデオロギー統一に力こぶを入れる様子は、何だか「祭政一致政治」をいまやっているようにも観える。ジェンダーフリーやLGBTQの人権擁護も「主義」として語られると、何だか「先験的価値観」ではなく「経験的根拠」を問いたくなる。理念は、「神」とは異なり、人間が(その時の社会の中で)定義した価値として認識される。故に歴史性をもち、従って誕生から発展、変質を経て消滅するまでの寿命をもつと考えておくのが本筋だ。つまりは、理念も主義、価値観も本来は「無常」であろう、と観るのが小生の立場だ。

大事なことは、"Let it be"であって、"Let it should be"ではない。「あるがまま」から出発すれば、自然で負担の軽い統治が可能だが、「あるべきように」と上層部が考える途端に、社会は不自然で、人々には負担を負わせる状態になってしまうものだ。

【加筆2024-02-09】

当たり前だが、売買における男女を反対にしても本稿のロジックは変わらない。

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